礼拝説教 2014年5月18日

「神にはできる」
 聖書 ルカによる福音書18章18〜30 (旧約 ヨブ記40:1〜2)


18 ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。
19 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
20 『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
21 すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
22 これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
23 しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。
24 イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。
25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
26 これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、
27 イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。
28 するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。
29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、
30 この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」




突きつけられる主の言葉

 イエスさまは22節でおっしゃいました。「持っているものをすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。それから、わたしに従いなさい。」
 これはイエスさまに質問したある金持ちの人に対しておっしゃった言葉です。しかしこの言葉は、金持ちではない人には無関係なのでしょうか? もし私たちがイエスさまからこのように言われたら、その言葉に従うことができるでしょうか? 財産と呼べる者はそんなに持っていないかもしれない。しかし「持っているものをすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。それから、わたしに従いなさい」と言われたら、それに従うことができるでしょうか?

ある議員

 この出来事は、「ある議員」がイエスさまに尋ねたことから始まっています。「議員」と日本語に訳されていますが、この原文の言葉は「上に立つ人」というような意味です。ですから、以前の口語訳聖書では「役人」と訳されていました。いずれにしても、地位のある人であったと言えるでしょう。また、同じ出来事が記録されているマタイによる福音書の19章では、この人が「青年」であると書かれています。そうするとこの人は、若くして多くの財産を持ち、社会的な地位もある人であったようです。まさに他人もうらやむような人です。
 しかし、そのようにこの世のものは手に入れているのに、「永遠の命」を自分が持っているようには思えなかったようです。おそらく死の不安がつきまとっていたのでしょう。
 永遠の命というものは、おそらくこの世のすべての人が関心を持つものでしょう。今から二千年以上前、中国の最初の中央集権国家を造った秦の始皇帝は、絶大な権力を手に入れました。人民をすべて自分の奴隷のようにしました。何でも思いのままに命令することができました。しかし、そういう絶対的な権力を持った彼もまた、死の不安を取り除くことはできませんでした。彼は、不老不死の薬を求めて、家来を遠くまで捜しに行かせたのです。しかしそれは結局むなしく終わりました。
 このお金持ちの若い議員さんも、この世のものの多くは手に入れることができました。しかしどんなに努力しても、永遠の命を手に入れることはできませんでした。それで評判のイエスさまが来られたというので、尋ねたようです。「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか?」
 じつは同じ質問が以前イエスさまに対してなされたことがあります。10章です。そこでは、律法の専門家が同じ質問をしました。しかしその人は、「イエスを試そうとして」尋ねたと書かれています。自分のほうが偉い。一つイエスという男をテストしてやろうとして質問した。しかし今日の聖書の議員は、おそらくそういう高慢な気持ちから尋ねたのではなく、本当に心から教えを乞うつもりで尋ねたのでしょう。まじめにイエスさまに質問したのです。
 するとイエスさまは、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神お一人のほかに善い者は誰もいない」と最初におっしゃいました。これはイエスさまがあたかも次のようにおっしゃっているように聞こえます。「神だけが善いものである。それをあなたは、わたしのことを『善い』と呼ぶからには、わたしを神だと信じるのか?わたしの言うことを神の言葉であると信じて聞くのか?」‥‥と。
 続けてイエスさまは20節に書かれているように。旧約聖書の十戒に書かれているうちの、5つの戒めを述べられました。もちろん、これはこの5つだけを守ればよいとおっしゃっているのではなく、旧約聖書に書かれている神の掟を知っているでしょ、ということをおっしゃったのでしょう。「‥‥という掟をあなたは知っているはずだ」とおっしゃっていますから。
 すると彼は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えました。神の掟をみな守ってきたと言っています。みごとです。しかし本当の意味で神の掟を守っていたとは言えないに違いありません。しかし少なくとも、彼自身は自分は小さいときから神の掟をすべて守ってきたと思っていたのです。
 神の掟をすべて守ってきたと言ったこの人に対して、イエスさまは彼自身の問題点をご存じでした。そして22節の言葉をおっしゃったのです。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」‥‥ここでは二つのことが言われています。一つは、財産を売り払って貧しい人々に与えること、そしてもう一つはイエスさまに従うことです。
 すると彼は非常に悲しんだと書かれています。その理由として、たいへんな金持ちだったからであると書かれています。たいへんな金持ちというのですから、大金持ちということでしょう。だからだ、と。すなわち、彼はその財産を売り払って貧しい人々に施すことができない。だから悲しんだのです。
 しかし悲しんだということは、彼はイエスさまの言葉をまじめに聞いたんです。「そんなことをしなければならないなんて、ばかばかしい」と言ってあざ笑わなかったんです。たしかに、財産を売り払って貧しい人々に施さなければならない、ということは旧約聖書の神の掟に書かれていません。書かれていませんが、彼はそれが神の御心であることを理解したのです。たしかにイエスさまのおっしゃるとおりだと。
 本当に神を信じるのならば、財産をすべて施して失ったとしても、神様が守ってくださるに違いありません。しかしそれを信じ切れない。神を信じていたつもりが、全然神を信じていなかった。そのことに気がついたのです。だから彼は、非常に悲しんだ。

金持ちと神の国

 イエスさまは、この人が非常に悲しむのをご覧になっておっしゃいました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」(24〜25節)
 らくだが針の穴を通れるわけがないのですから、これは不可能だと言っていることになります。ここで、「針の穴」の解釈についてどこかで聞いたことがあるという方もおられると思いますので、触れておきます。その解釈とは‥‥「針の穴」というのは文字通りの裁縫に使う針の糸を通す穴というのではなく、エルサレムの城門の隣に、人がようやくかがんで通ることのできる穴があり、そのことを指しているのだ‥‥というものです。そうすると「ラクダが針の穴を通る」のも、ラクダが膝を曲げてかがんで通ればやっと通れるかもしれないということになる、と。そんな解釈をお聞きになった方もおられるのではないかと思います。
 しかしそれは、同じ時のことが書かれているマタイ福音書とマルコによる福音書福音書のほうでは成り立つ言葉が使われているようですが、このルカによる福音書で言う「針の穴」とは、医者が使う針のことを指す言葉だそうでして、そうなるとやはりそれは、どうしたってラクダが通ることができるはずもないのですから、やはりこれは「絶対に無理」ということをおっしゃっていると考えるほかはないのです。
 ですから、このイエスさまの言葉を聞いた人々はたいへん驚きました。「それでは、誰が救われるのだろうか?」と言いました。なぜなら、お金持ちというのは、神様に祝福されてお金持ちになったと信じられていたからです。その神さまが祝福した人が、神の国に入ることができないとすれば、「それでは、いったい誰が救われるのだろう?」と言わざるを得ないからです。
 そもそもなぜ、財産のある者が神の国に入ることができないのでしょうか。それは先ほどのイエスさまの言葉、「持っているものをすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」という言葉に従うことができないからということになります。持ちすぎていて、捨てることができない。なぜ捨てることができないかと言えば、それを捨ててしまったら、もう良い暮らしができないと思うからでしょう。それどころか、明日どうやって生活していったら良いかもわからなくなります。たちまち生活に困ることになります。そこで、神さまの言葉に従ったのなら、神さまがすべて養ってくださる、と信じることができれば良いのですが、なかなか信じられない。それで捨てることができないということになるのだと思います。
 しかしこれは決して他人事ではありません。私たちも同じことを言われたらどうでしょうか。何も思わないとしたら、それはイエスさまの言葉をまじめに聞いていないのです。まじめにイエスさまの言葉を聞いたら、やはりこの金持ちの人のように、悲しんでイエスさまのもとを去るしかないでしょう。そこに神さまを本当に信じ切ることのできない自分を発見するからです。

神にはできる

 「それでは、誰が救われるのだろうか?」‥‥結局、永遠の命をいただくことはできないのでしょうか。するとイエスさまはおっしゃいました。「人間にはできないことも、神にはできる」。これは真理です。人間にはできないことも神にはできるに違いありません。いや、人間にはできないことをできるから神であるということもできるでしょう。
 人間の力では、永遠の命を得ることはできないのです。彼は、人間の力でお金持ちになることはできたかもしれません。議員になることもできたかもしれません。しかし神の国に入り、永遠の命をいただくことは、人間の力では、人間の努力によっては得ることができないのです。それはただ、神さまにだけ、できることです。それは私たちにとっても同じことです。
 この時、イエスさまは十字架の待つエルサレムに向かって旅を続けています。そしてエルサレムで十字架にかけられる。それは、どうしようもない罪人である私たち、本来神の国に行けるはずのない私たち、永遠の命をいただく資格のない私たちを救うために十字架に向かって行かれるのです。そのイエスさまの十字架があって、「人間にはできないことも神にはできる」とおっしゃっておられるのです。人間の力では救われない私たちを救うために。神にはこんな私たちでも救うことがおできになるのです。
 29節で、「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者は」とおっしゃっていますが、これはこのまま読むと誤解を受ける言葉です。これは家族を見捨てるという意味ではありません。まずイエスさまに従うことを優先させるということです。家族を愛すればこそ、イエスさまに従う。家族も救っていただくためです。
 「人間にはできないことも、神にはできる」。みなさん、実は、これは私の愛誦聖句です。私は、今までこの御言葉によって、どれほど励まされ、力を与えられ、実際にその通りになって行ったか、数知れません。
 神学校を卒業して最初の任地である輪島教会。奥能登の、人口減少地にある小さな教会で、いったいどうやって伝道したら良いのか、それは不可能なことに思えました。しかしこの御言葉が与えられました。わたしにとって、ただこの御言葉が頼りでした。「イエスさま、これは本当ですね?」と問いながら歩んでいきました。すると、実際に道が開けていきました。神さまの奇跡を見ることができました。
 また、私が非常に困った問題にぶつかったとき、この言葉を思い出しました。「人間にはできないことも神にはできる」と繰り返して自分に言い聞かせました。自分にはできなくていい。神さまにはできる。‥‥そう繰り返し言い聞かせました。すると心に平安がやってきました。何度も「もうだめか」と思うことがありました。しかしそのたびに、「人間にはできないことも神にはできる」という御言葉が浮かんできました。そしてこの言葉を心の中で繰り返し、祈りました。すると道が開けてきました。
 イエスさまは、30節で「この世ではその何倍もの報いを受ける」とおっしゃっています。その報いとは、神さまが生きて働いてくださるのを見ることができるという喜びです。
 どうぞ、困難な問題にぶつかったら、こんなわたしをも救うためにイエスさまが十字架にかかってくださったことを思い出し、「人間にはできないことも神にはできる」と繰り返し言ってみてください。すばらしい平安と力が与えられることでしょう。神さまの働きを共に見ることができますように!


(2014年5月18日)



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