礼拝説教 2014年5月11日

「神の国に入れる人」
 聖書 ルカによる福音書18章15〜17 (旧約 詩編8:2〜3)


15 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。
16 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
17 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」




     乳飲み子

 今日の聖書は、イエスさまの所に子どもたちが連れてこられた時のことです。同じ出来事は、マタイによる福音書19章13〜15節とマルコによる福音書10章13〜16節にも書かれていますが、そちらではすべて「子供」という言葉で出てきます。しかしこのルカによる福音書では、「乳飲み子までも」という言葉で出てきます。つまり、人々が子どもだけではなく、赤ちゃんをも連れてきた書いています。
 すなわち、ルカは、子どもは子どもでも「乳飲み子」に焦点を当てて、今日のできごとを書き記していると言えます。

     子供を連れてくる

 そのように人々がイエスさまの所に、子どもたち、そして乳飲み子を連れてきたのはなぜかと言えば、おそらくイエスさまに手を置いてもらって祝福をしていただくためだったのでしょう。
 ところが、ここで弟子たちが人々を叱りつけます。なぜ叱ったのでしょうか。一つには、子どもはうるさいという理由があったのでしょう。子どもはじっとしていません。動き出しますし、ぐずったり、騒いだりします。子どもにじっとしていろというのは、おとなに向かって動き回れというのと同じくらい苦痛なことです。ですから騒々しくなる。そうすると、せっかくのイエスさまのお話が聞こえにくくなります。たとえば、クラシックのコンサートでは幼児の入場を断ることが多いのも、そういう理由からでしょう。子どもはうるさい。だから、子どもたちを連れてきた親を叱ったのでしょう。
 またもう一つの理由は、「どうせ子どもにはイエスさまのお話は分からない」ということでしょう。よく子どもに向かって、「今は分からなくても、大きくなったら分かるよ」と言う人がいます。たしかに学校の勉強や、社会の常識などは、子どもには理解できないということがあるでしょう。それで、信仰のことも同じかと思ってしまうのです。おそらくそのような理由で、弟子たちは、イエスさまの所に子どもたちを連れてきた人々を叱ったのです。

     子供と神の国

 ところがそれに対してイエスさまは、その乳飲み子、幼子たちを呼び寄せて言われました。「子供たちをわたしのところに来させなさい」と。
 これはなにか、単にイエスさまが子供好きだから、というのではありません。それは続くイエスさまの言葉を聞くと分かります。「神の国はこのような者たちのものである」。神の国、天国は、この幼子や乳飲み子たちのような者たちのものだと言われたのです。これは驚くべきことではないでしょうか。
 たとえば、信仰とは、修行を重ねて山を一歩一歩登っていくようなものであり、そうしてようやく神の国にたどり着くのだ‥‥というように考えておられる方は多いのではないでしょうか。また信仰について、「子供にはまだ早い」とか「子供にはどうせ分からない」というように思う人も多いのではないでしょうか。
 しかしイエスさまがおっしゃることは、そうではありません。神の国は、子供のような者たちの者であると言われます。ただし、「子供のような」と言っても、それは、わがままな人に対して「あの人は子供のような人だ」という意味での「子供のような」ではありません。ここで言われる「子供のような」というのは、17節で言われているように「子供のように神の国を受け入れる人」という意味です。
 私は、今までに何度か教会関連の幼稚園に関わりました。園長代理をしたこともありましたし、園長をしたこともありました。小さな幼稚園では事務員を置けないところもあり、そういう幼稚園の園長代理をした時は、事務員の仕事もいたしました。毎日のように銀行と往復したり、県庁提出書類を書いたり、保護者へに渡す文書を作ったりと、それはもう仕事は山ほどありました。慣れないことですので、たいへんな思いをいたしました。
 しかし、唯一楽しいことがありました。それは子供たちと一緒にする礼拝があることでした。こどもたちに聖書のお話しをするのは、楽しいものでした。なぜなら、幼稚園の子供たちは目を輝かして話を聞いてくれたからです。お祈りも小さな手を合わせて、目を堅くつぶって真剣にしていました。それは至福のひとときであり、まさにオアシスでした。
 おさなごは神さまのお話をすなおに受け入れます。すなおにお祈りします。それこそがここで主がおっしゃる「子供のように神の国を受け入れる」ということに他なりません。しかもそうでなければ、神の国には「決して入ることはできない」とおっしゃっているのです。すなわち、子供のように神の国の福音をすなおに信じなければ、決して神の国に入ることはできない、と!
 ですから私たちはこの言葉を真剣に聞かなければなりません。子供用に神の国をすなおに受け入れるのでなければ、「決して」絶対に神の国に入ることはできないのである、ということを。「はいれないかもしれない」のではありません。「決して入ることはできない」と言われるのです!

     さらに乳飲み子

 このルカによる福音書では、子供の中でも乳飲み子にも焦点を当てています。乳飲み子は、赤ちゃんであり、物心もついていません。イエスさまのお話を、頭で理解することもできません。ただ、お母さんなどの懐に抱かれているだけです。なんの修行する力もありません。その乳飲み子のようになれとは、いったいどういうことでしょうか。
 おとなの懐に抱かれている乳飲み子をよく見てみましょう。すると、それは全面的に信頼している姿であることが分かります。自分を抱いている人、親に、全面的に信頼している。全くゆだねきっている姿がそれです。自分を抱いている親が、愛の足りない親かもしれないのに、全面的に信頼しきって、身をゆだねています。神さまに対してこのようであれ、ということです。

     神にゆだねる

 横須賀学院高校の生徒向けの印刷物を見ておりましたら、3月の卒業式での校長先生の式辞が掲載されていました。そこに、2月27日に行われた卒業修養会のときに出演した森祐理さんのことが書かれていました。
 ご存じのように、森祐理さんは、昨年11月の当教会のコンサートで無理を押して歌ったために、声帯を傷つけ、しばらく声が全く出なくなってしまいました。シンガーにとって、声が出ないというのは終わりを意味します。私たちもそのことを知って、皆で祈りました。そしてやがて声が戻り、歌うことができるようになられました。そして横須賀学院高校の卒業修養会では、私も森祐理さんの歌われるプログラムの途中から参加いたしましたが、すばらしい歌声を披露されました。治って本当に良かったと思いました。
 校長先生は、声が出なくなってしまった時のことを祐理さんに尋ねたそうです。「このまま、一生歌えなくなるのか、どうなるか分からずに、恐ろしかったでしょう?」と。すると祐理さんは次のように答えたそうです。「いいえ、少しも怖くありませんでした。もしも、このまま声が出なくなっても、神さまは、必ず私を用いてくださると信じています」。
 このことについて校長先生は、「何という確信、信頼でしょうか」と書いておられました。シンガーとして声が戻らなかったら、やめるしかありません。しかし祐理さんは、もし仮に声が戻らなかったとしても、神さまは別の道を用意してくださると信じていたというのです。
 わたしは心を打たれました。そして自分に置き換えて考えてみました。もし私が声が出なくなったとしたらどうか、と。それは牧師をやめざるを得なくなることを意味します。その時に祐理さんと同じように言えるだろうか、と。そのように考えた時に、あらためて、祐理さんの言葉が、全面的に神を信頼し、ゆだねている言葉であると思われました。
 子供のように素直に神の国を受け入れる。乳飲み子が全く母親の手に自分自身をゆだねているように、私たちは、イエスさま、神さまに全く信頼する。ゆだねる。どうか、私たちとともにおられる聖霊が、このことを助けて下さるようにと、祈り願わずにおれません。


(2014年5月11日)



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