礼拝説教 2014年5月4日

「必ずきかれる祈り」
 聖書 ルカによる福音書18章9〜14 (旧約 ヨブ記42:5〜6)


9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」




祈りについて

 「祈りはきかれるのか?」「祈りはかなえられるのか?」と考える人は多いでしょう。しかし必ずかなえられる祈りがあるということを、聖書から学びたいと思います。
 前回イエスさまは、あきらめずに絶えず祈るべきことをお教えになりました。そこでは「やもめと裁判官」のたとえをお話しになり、その中で登場するやもめが、不正な裁判官の所に夜となく昼となく足を運んで訴え続けたように、私たちにも神さまに向かってあきらめることなく祈り続けるべきことを教えられました。そして今日も祈りについて教えておられるのですが、今日の個所でイエスさまが教えておられることは、祈りの態度ともいうべき事柄です。すなわち神さまの前に立つ時の態度です。

たとえ話

 そしてイエスさまは再びたとえを語られました。今回の例えは、二人の人が祈るために神殿に上ったというものです。
 神殿は、エルサレムに一個所だけありました。ユダヤ人にとっては特別な場所です。水曜日の祈祷会では旧約聖書を学び続けていますが、神殿は神殿になる前は幕屋でした。神殿は、動物のいけにえを献げての礼拝がなされる場所で、神さまがそこでお会いになるという場所でした。
 そしてたとえ話に登場するのは二人の人です。一人はファリサイ派の人でした。ファリサイ派については、今まで何度も登場してきましたが、この人々は旧約聖書の神の掟を守るために熱心になっている人々でした。モーセの律法を厳格に守ろうとした。この人の祈りの中で、全収入の十分の一を献げていると言っていますが、それは旧約聖書の掟の中に書かれています。しかし「週に二度断食」するということは、旧約聖書の掟の中にも出てきません。ですから、神の掟を守るということ以上に熱心な信仰であったと言うことができます。
 もう一人は、徴税人です。徴税人というのは、ユダヤを占領統治しているローマ帝国の税金を徴収する人です。税務署の公務員とは違います。というのは、徴税人は請負業だったからです。税金をとりたてる業務を請け負うのです。ですから、ユダヤ人から税金を取り、それをそのままローマ帝国に納めるのではなく、一部を自分の手数料として取ることができます。それで、不当に高く税金と称して徴収し、私腹を肥やしている人も多かったようです。しかし、ユダヤ人は自分たちを支配しているローマ帝国を良く思っていませんでした。言わば敵です。その敵のために税金を集めているのですから、人々から嫌われていたのがまた徴税人です。それで彼らは、神の律法を守るような生活を送っていませんでした。したがって、徴税人は罪人や遊女と同じ扱いを受けていたようです。
 この2人がそれぞれ神殿に行って、神に祈った。ふつう考えれば、神の掟をちゃんと守っているファリサイ派の人の祈りを神が受け入れてくださり、徴税人は神から拒絶されるはずだと思うでしょう。ところが大どんでん返しが起こります。それはたとえ話を話されたあと、イエスさまがおっしゃった言葉です。‥‥「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人(徴税人)であって、あのファリサイ派の人ではない」。
 ここで「義とされた」というのは、神さまによって正しいと認められたということです。神さまが、正しいとみなしてくださった。神さまの前に出るには、正しくないと出ることができません。ですから「義とされた」というのは、救われたということと同じ意味となります。祈りでいえば、祈りが受け入れられたのです。イエスさまがおっしゃるには、この徴税人の祈りが神さまによって受け入れられ、ファリサイ派の人の祈りが退けられたと言われるのです。
 これはたいへんな驚きです。イエスさまのお話しをまわりで聞いている人たちは、どんなに驚いたことでしょうか。先ほど述べたように、ファリサイ派の人々と言えば神の掟を忠実に守り、熱心に神を信じている人たちだと思われていたからです。いっぽう徴税人というのは、罪人であると言われていた人たちです。その徴税人の祈りが受け入れられ、ファリサイ派の人の祈りが退けられたというのですから、これは驚き以外の何ものでもなかったことでしょう。いったいなぜそのようになったのでしょうか?

へりくだる

 まず分かることは、神さまに受け入れられるには、ファリサイ派であるとか徴税人であるとか、そういう外見的なことは関係ないということです。見かけではなく、心の中身であるということが分かります。
 そしてファリサイ派の人の祈りを見てみますと、これはもう自分自身が正しい人間であると言っています。「わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、またこの徴税人のような者でもないことを感謝します」‥‥と。たしかに言葉は神さまへの感謝には違いないのですが、それは他の人たちを見下し、自分が優越感に浸っているような言葉です。さらに「週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と言っている。‥‥もうこれは、「自分は神さまのためにいっしょうけんめいしています。どんなもんだい!」と言わんばかりに聞こえます。
 つまり、自分は神さまの言いつけを守っている、正しい人間だ。だから神さま、あなたに祝福していただく資格があります、というわけです。自分には資格がある、と。そして、他人と自分を比較して、他人を見下しています。神の掟を守らない人たちのために救いを祈るのではなく、見下している。そこには愛がありません。愛がないということは罪である。だからこの人も罪人です。しかしそのことに気がついていない。
 いっぽう、この徴税人はどうか。神殿に来るには来たが、遠くに立って目を天に上げようともしなかったと言われています。神さまに顔向けができないということでしょう。ならばわざわざ神さまに祈るために神殿に来なくてもよさそうなものですが、それでも神殿に祈りに来たからには、なんとしても神さまに祈りたいことがあったに違いありません。しかし、自分は多くの罪を犯し、神さまに顔向けできない。それで、ただただ自分の胸を打って、神に罪の赦しを乞うしかなかった。
 自分が罪人であることを認識し、告白する。それを悔い改めと言います。

へりくだって悔い改める祈り

 必ず神さまに聞き入れられる祈り。それは悔い改めの祈りです。聖書を調べてみますと、悔い改めの祈りは、神さまによって受け入れられていることが分かります。
 ダビデ王とバトシェバのことを思い出します。旧約聖書サムエル記下11〜12章です。ある時、ダビデは王となって心がおごり高ぶり、忠実な家臣であるヘト人のウリヤの妻バトシェバを召し入れ、関係を持ってしまいます。姦淫の罪を犯したのです。しかもウリヤを戦場のたたかいの激しいところにおくって、戦死させてしまう。王の権力を使って、とんでもないことをしました。
 しかし神さまの目を逃れることはできず、神は預言者ナタンを通して罪を暴かれます。するとダビデ王は、「私は主に罪を犯した」と言いました。自分の罪に気がついたのです。悔い改めたのです。すると主は預言者ナタンを通して、「主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」と、死ぬという罰を免れました。ただし、ダビデによって身ごもったバトシェバから生まれる子が死ぬこととなりました。どうして子供が代わりに罰を受けたかというと、これは旧約聖書であり、まだイエスさまが来られていない時のことだからです。
 また、アハブ王のこともあります。アハブ王は、イスラエル王国の歴代の王の中でも、最も悪い王の一人でした。神さまの律法を守らず、それどころか外国の偶像の神々を礼拝しました。そしてある時、アハブ王は、ナボトという人のぶどう畑を欲しがりました。しかしナボトはぶどう畑を売ってくれません。それでアハブ王はナボトを罠にかけて、殺させてしまいます。そうしてぶどう畑を自分のものにした。ところがこれも神さまは見逃しませんでした。有名な預言者エリヤを遣わして、アハブに災いをくだし、その家を滅ぼすという罰を宣告なさいました。するとアハブ王は、予想に反して悔い改めたのです。自らの衣を裂き、粗布を身にまとって断食しました。あのアハブが心から悔い改めた。それで主は、預言者エリヤにおっしゃいました。「アハブが私の前にへりくだったのを見たか。彼が私の前にへりくだったので、私は彼が生きている間は災いをくださない。その子の時代になってから、彼の家に災いをくだす。」‥‥これも、その子の時代に罰を下すというのは、イエスさまが来られる前の時代ですから、完全な赦しとなっていないという面があります。
 このように、イエスさまがこの世においでる前の旧約聖書の時代でも、主の前に悔い改める、すなわちへりくだった時に、神は悔い改めるということに目を留められました。イエスさまがまだおられない時代ですから完全に赦されたのではありませんが、直接の罰は赦された。それがイエスさまが来られ、十字架にかかられる新約聖書になると、悔い改めに対する赦しは完全なものとなります。
 使徒パウロは、ご存じのように、はじめはファリサイ派のメンバーであり、キリスト教会を激しく迫害しました。クリスチャンを牢屋に入れ、死に追いやりました。ところがそのパウロのところに、天からキリストが光で照らし、声をおかけになりました。そうしてパウロは回心し、人生が180度変わって、キリストの伝道者となりました。
 これは完全な赦しです。なぜなら、イエスさまが十字架にかかって、罪の罰を私たちに代わって受けてくださったからです。のちにパウロはコリントの信徒への第1の手紙でこのように書いています。(Tコリント15:9-10)「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」
 なぜイエスさまが来られてからは、神の赦しが完全な者となったのでしょうか?‥‥それは、十字架上のイエスさまの次の祈りがきかれているからです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)

必ずきかれる祈り

 そのように、悔い改めの祈りは、必ず聞き入れられる祈りです。これは祈り方の問題ではありません。口先だけ、「神さま、罪人の私をあわれんでください」と言えば良いというのではありません。心ひそかに、「これであのファリサイ派の人のような祈りにならなくて済んだ」と自画自賛してしまっては、なんにもなりません。
 神さまの前に、心からへりくだるということです。本来は、救われるはずがない私、罪人である私が、イエスさまの十字架のおかげで赦されて義とされるのです。イエスさまが十字架にかかってくださったので、このありのままの私が悔い改めた時、義とされるのです。
 ですから、「私はあなたの御心通りしましたから、祈りをかなえてください」と神さまに言うことはできません。「こんな私ですが、イエスさまの十字架のゆえに赦してください」と申し上げることができるのみです。この祈りは必ずきかれる祈りです。


(2014年5月4日)



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