礼拝説教 2014年4月27日

「根負けの祈り」
 聖書 ルカによる福音書18章1〜8 (旧約 ダニエル書9:20)


1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」




私たちの時代の過ごし方

 本日の聖書個所は、私たちに非常に大きな励ましと慰めを与えてくれます。イエスさまは「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ことを教えてくださいました。
 前回のところでイエスさまは、まず神の国がイエスさまと共にすでに私たちの所に来ていることをお話しなさいました。イエスさまを信じる時、そこに神の国は始まっているということでした。そして続いて、世の終わりの時、最後の審判の時に再びキリストがお出でになり、神の国が現れることをお示しになりました。すなわち言い換えれば、イエスさまが来られたことによって神の国が始まっていて、それがやがてイエスさまが再び来られる時に、完成することをお教えになったのです。ですから私たちは、イエスさまを信じつつ、イエスさまの再臨を待つ時代に生きていることになります。二千年前にすでに来られたイエスさまを信じつつ、やがて再び来られるイエスさまを待っているわけです。
 そして今日の聖書個所は、その私たちが再び来られるキリストを待ちつつ、どのようにして過ごしたら良いかということをお話しになっておられます。それが「気を落とさずに絶えず祈る」ということです。

不正な裁判官

 そのことを教えるために、イエスさまは一つのたとえ話をなさいました。「ある町に、神を恐れず人を人とも思わない裁判官がいた」というお話しです。
 神を恐れないということは、いくら自分が悪いことをしても、神さまから罰を受けることなどない。それが神を恐れないということです。私は、子供に教えなければならない基本的なことは、「神さまが見ているよ」ということだと思っております。人に見つからなければいい、ばれなければいい‥‥そういうことで万引きが横行し、平気で人の家の敷地にゴミを捨てるようなことが横行しているのではないでしょうか。この裁判官は、神を恐れない。神さまなんか怖くない、すなわち神さまを信じていないのです。だから自然に、自分勝手、自分中心となるでしょう。
 また同時にこの裁判官は「人を人とも思わない」人でした。これは裁判官としての公平性もなければ、倫理も道徳もないということです。裁判というのは、法律に従って公平に裁かなければなりません。しかしこの人はそうではない。不公平なんです。ですから、賄賂をくれる人や地位ある人、お金持ちなど、自分に利益をもたらしてくれそうな人には有利な裁判をし、あるいは社会的地位のない人や貧しい人の訴えは顧みない、という人だったでしょう。まさに「不正な裁判官」です。
 ところがその町に、一人のやもめがいて、この裁判官の所に来ては、裁判をして自分を守ってくれるよう訴えてきたというのです。「やもめ」というのは、夫に死なれた未亡人です。聖書にはよく「やもめ」が出てきますが、それは当時の社会で最も貧しい人たちの一つだからです。そもそも一般庶民がみな貧しい時代です。その中で女性が務まる仕事は非常に限られていました。それで、やもめは最も貧しい階層でした。
 その貧しいやもめが困っていたのです。不当な利息を要求され、借金を返せと迫られていたのかもしれません。その家や土地から出て行けと言われていたのかもしれません。いずれにしろ貧しいそのやもめにとっては、どうすることもできません。それでやもめは、この裁判官に、自分を守ってくれる裁判をしてくれるようお願いしたのです。ユダヤの律法には、貧しい人が守られるようにする掟があったからです。
 しかしその裁判官にとっては、そんな地位もお金もない貧しいやもめのために裁判をしても、何の得にもなりません。それで最初は取り合わなかった。ところがこのやもめはあきらめない。この人を人とも思わない裁判官が悲鳴を上げるほどですから、おそらく朝となく昼となく夜となく、彼の家にやってきては家の門をたたき、お願いし続けたのでしょう。そんなことが毎日毎日繰り返される。‥‥何しろ、あわれな彼女にとっては、不正な裁判官であろうが何であろうが、頼みとなるのはこの裁判官しかいなかったからです。だから必死にならざるを得なかった。
 それでこの裁判官は、ついに音を上げました。「あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、私をさんざんな目に遭わすにちがいない。」 彼女の言い分が正しいからとか、彼女に同情してというのではない。ただ、もうこれ以上押しかけられたらうるさくてかなわない、勘弁してほしいという、あくまでも自分勝手な理由なんです。しかし、彼女の熱心さがこの不正な裁判官を動かしたことには違いありません。

祈りについて

 イエスさまはおっしゃいました。「まして神は」と。神さまと、この不正な裁判官を比べるのは、あまりにもおかしな印象を受けますが、「まして神は」という言葉は、「まして神は愛であるのだから」ということでしょう。神を恐れず強欲で人を人とも思わない不正な裁判官でさえ、彼女がひっきりなしに来ては訴えるのに音を上げて、彼女の訴えを聞き入れた。まして神さまは愛ですから、耳を傾けてくださるに決まっているということになります。イエスさまは、そのように祈るべきであるとおっしゃっておられます。気を落とさずに、絶えず祈れと。
 私が神学生の時、ある神学生と話をしていたら、彼は「一日合計5分も祈らない」と言ったので、びっくりした覚えがあります。「朝、昼、晩の食前の祈りと、寝る前の合計5分だ」というのです。実にもったいない話しです。しかし実は私も、最初の頃はそれぐらいしか祈っていませんでした。なぜそんなに祈らなかったかと言えば、正直いって、あまり神さまに期待していなかったということになるかと思います。神さまに祈っても、あんまり聞いてくださらないと思っていました。だから神さまに祈らないで、自分であれこれ心配し悩んでいたわけです。また、どうやって祈ったら良いのかも分からなかった。
 しかし、身近なクリスチャンに祈る人がいました。聖書を読んで神の御言葉に耳を傾け、そして祈って神さまに頼る人がいました。そしてその人の祈りがかなえられていく。そういうのを身近で見ていて、「ああ、祈りってすごいなあ」と思ったのです。そうして私も祈るようになる。しかしすぐにはきかれない。しかしやがてそれがかなえられていく。そういうことを繰り返して、祈りのすばらしさに目が開かれていきました。

祈りの学校

 私は富山の教会にいる時に、10年間ほど刑務所の教誨師をしていました。月に一回刑務所に行って、個人教誨というものをしていました。受刑者の中で、キリスト教の牧師の話しを聞きたいという希望者に対して聖書の話をし、残った時間は面談をいたします。
 その個人教誨の中で出会ったある人を思い出します。彼はヤクザでした。彼の個人教誨が始まった時、彼は私に悩みを打ち明けました。なかなか眠れないと言うのです。当時の刑務所は満員で定員オーバーの状態でした。それで窮屈な6人部屋に7人で寝起きしていました。大の大人が窮屈な部屋に、枕を並べて寝ていることを想像してください。たいへんです。人間関係も、ちょっとしたことで腹が立つ。それで眠れないと言う。「先生、どうしたらいいでしょうか?」と彼は私に尋ねました。それで私は「神さまにお祈りして眠るのがよいでしょう」と言って、お祈りを具体的に教えてあげました。
 そして1ヶ月後の教誨の時、彼はニコニコして私を待っていました。彼が言うのには、「先生の言われたとおりお祈りしたら、眠れました!」と言うんですね。うれしくてしかたがないという様子でした。それで私の聖書の話を真剣に聞くようになったのです。次の彼の願いは、お父さんに会うということでした。自分は、若い頃から本当に人の道を外れたことばかりしてきた。もう父親とは20年ほど会っていない。今どうしているかも分からない。住所も分からない。しかし、父親と会いたいと願っていました。それで、そのこともお祈りしました。そして彼にもそのことを祈るように勧めました。
 そして次の教誨の時です。彼は言いました。「父が面会に来てくれました。」私も驚きました。こちらが何かしたわけでもないのに、父親のほうから自分を捜し出し、この刑務所に入っていることを知って、はるばる会いに来てくれたというのです。ただ彼は満面の笑顔というわけでもありませんでした。というのは、父親が来てくれたのは奇跡だけれども、ただ末期のガンにかかっていて、余命数ヶ月と宣告されているというのです。そして彼は、言いました。「もう私はキリストに決めました。私の家は日蓮宗ですが、もうキリストに決めました」というのです。そして、彼の父親が生きている間にここを出所したいという願いを言いました。そのことも共に祈ることにしました。そして彼は念を押すように言いました。「この祈りは聞かれても聞かれなくても、私がキリストに決めたことに変更はありません」と。
 さらに次の次ぐらいの教誨の時に、彼は、自分の出所が早まりそうだ、と言いました。つまり模範囚となったのです。キリストに祈っていくうちに、彼自身も次第に変えられていったのだと思います。そして、ひょっとすると父親が生きているうちに出所できるかもしれないことになったわけです。そして彼は、自分がクリスチャンになったら、家にある自分のお墓はどうしたらよいか、とか、そういう具体的な話になりました。もう本当に彼は、キリストに従っていくことを決めたのです。
 私はその帰り道、次の彼の教誨の時には、出所したら必ず教誨につながるように指導しなくてはならないな、と思いました。しかし、次の月は、他の人の教誨が2組入っていて、彼と会うことができませんでした。そしてさらに1ヶ月後、彼は残念ながら?もう出所していたのです。きっとお父さんが生きているうちに出所したいという願いもかなえられたことと思います。

根負けの祈り

 もちろん、このように1年以内に祈りが次々とかなえられるということばかりではありません。以前証ししましたように、輪島教会が裏の土地を手に入れるための祈りは、3代の牧師に渡って、20年以上の歳月を要しました。教会員が少なく、貯金も資金も無い小さな教会でしたが、20年かかった祈りでその土地が与えられました。
 ここで思うのは、なぜ神さまはすぐに祈りをかなえてくださらないのでしょうか、ということです。これにはいくつかの答えを私は神さまからいただいています。一つには、神さまには神様の御計画があるということです。私たちは、すぐに祈りをかなえていただきたいと願います。しかし神さまには神さまの御計画というものがあるのです。
 また、神さまは、私たちが祈ることによって大切なことを教えなさるということがあります。実際、私たちが何でも祈ったらすぐにその通りかなえられるとしたら、それは私たちを傲慢にするばかりでしょう。まるでアラジンと魔法のランプの魔神のように、神さまが私たちの召使いのようになってしまうでしょう。神さまは私たちの召使いではありません。神さまが主人で、私たちがしもべです。
 私たちが祈ってもすぐには聞かれない。それであきらめてしまってはなりません。今日のイエスさまのお言葉のように、気を落とさずに絶えず祈るのです。日々、祈り続けるのです。そうすると私たちは、忍耐を学びます。また聖書を読むようになります。熱心に礼拝するようになります。私たちの信仰が成長させられていきます。‥‥そのように、すぐに祈りが聴かれないからこそ、大切なことを教えられるのです。
 また、さらに、祈り続けることのできる祈りだけが残っていきます。神の御心ではない祈りは、長い期間祈り続けている間に、ふるわれて消えていきます。
 そのように、なぜすぐに神は祈りを聞き入れて下さらないのか、という問いには、幾つもの答えがあります。
 そして、これらすべてのことは、祈らないと始まらないということです。主は、キリストの再臨を待つ私たちが、熱心に祈って過ごすように教えておられるのです。
 「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」と書かれています。「気を落とさずに」という言葉は、「あきらめないで」という言葉でもあります。あきらめるな、とイエスさまが励ましておられるのです。このたとえ話の貧しいやもめが訴え続け、不正な裁判官が根負けして聞き入れたことを覚えたいと思います。祈りましょう。そしてその祈りがどのように聴かれたか、ぜひ教会で証しをしていただきたいと願っています。


(2014年4月27日)



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