礼拝説教 2014年4月6日

「神の国の来る日」
 聖書 ルカによる福音書17章20〜37 (旧約 ゼファニヤ書1:2〜3)


20 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。
21 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。
23 『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。
24 稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。
25 しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。
26 ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。
27 ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。
28 ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、
29 ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。
30 人の子が現れる日にも、同じことが起こる。
31 その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。
32 ロトの妻のことを思い出しなさい。
33 自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。
34 言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。
35 二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」
37 そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」




 テレビを見ていましたら、ディズニーランドのコマーシャルが流れました。それは「ディズニー・イースター」というものの宣伝でした。ディズニーランドではもうすでにイースターが始まっているそうです。クリスマスだけではなく、イースターも広めてくれることはまことに良いことであると思いますが、イースターの前には、イエスさまの受難、十字架があったことを忘れてはなりません。
 もっとも、クリスマスやイースターのように、おめでたいことは世の中に広まるでしょうが、十字架の苦しみというようなものは商売としては成り立たないでしょうけれども。私たちは、受難節を過ごしております。復活という輝かしい命の希望が現れる前に、主が苦しみを受けられたことを黙想しつつ過ごしたいと思います。

神の国はいつどこに?

 今日の聖書個所は、話の内容から二つに分けることができます。まず前半と言っても短いのですが、イエスさまがファリサイ派の人々に対してお答えになった20節と21節です。ここでは、神の国はもう来ているということをお話しになっている所です。そして後半は、今度はイエスさまが弟子たちに対してお話しになった22節〜37節で、ここでは、やがて来る神の国について述べておられます。
 そうすると前半と後半は、一見矛盾することをおっしゃっているように聞こえます。神の国はもうすでに来ているのか、それともこれから未来に来るのか、いったいどっちなんだと言いたくなるのではないでしょうか。この謎を考えながら読み進めたいと思います。
 まず前半部の20〜21節です。ここはファリサイ派の人々がイエスさまに対して、「神の国はいつ来るのか」と尋ねたことから始まっています。
 神の国が来る、というのはおかしな表現に聞こえます。「神の国に行く」というのなら分かります。韓国に行く、中国に行く、アメリカに行く‥‥というように、神の国に行く、と言うのなら分かる。しかし「神の国が来る」と言うと、なにか国のほうからこちらにやって来るようで、違和感があるでしょう。しかしギリシャ語で言う「神の国」というのは「神の支配」という意味にもなります。すなわち、神さまが完全に支配しておられる所が神の国ということになります。従って、「神の国が来る」という言い方は「神の支配が実現する」という意味になります。
 たしかに、私たち人間の罪、またサタンの働きによって神さまの支配が妨げられています。たとえば、戦争が起きます。争いがあり、憎しみがあります。犯罪があります。人が苦しみ、傷つきます。環境破壊、自然破壊があります。飢えや貧困があります。病気があります。そして死が必ずやって来ます。神の支配が妨げられています。これらに終止符を打つのが、神の国が来るということです。そう考えると、私たちも是非ともそのような神の国が来てほしいと願うのではないでしょうか。
 それはいつ来るのか?と言うのがファリサイ派の人々の質問です。

あなたがたの間に

 イエスさまのお答えは、21節「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」というものでした。
 これはいよいよ不思議なお答えです。「あなたがたの間」というのですから、これはなにやら禅問答のような印象を受けます。これはもうすでにここに来ている、ということにもなります。
 これは今ファリサイ派の人々の目の前におられるイエスさまと共に来ている、という事実がここの答えです。例えば、マタイによる福音書12:28に次のようなイエスさまの言葉があります。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」‥‥イエスさまがなさっていることが神のわざであると信じるならば、神の国はあなたの所に来ている。そういう言葉です。
 すなわち、イエスさまを信じる所に、もうすでに神の支配が来ている。しかしファリサイ派の人々はイエスさまを信じないのでそのことが分からない。神の国はイエスさまと共に始まっているのです。終わりというものも、イエスさまと共に始まっていると言えます。

やがて来る神の国

 そうして22節からの後半です。今度はイエスさまは弟子たちに向かってお教えになりました。ここでは、やがて神の国が来るという話しになります。
 22節などに言われている「人の子」というのはイエスさまご自身のことです。「あなたがたが、人のこの日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし見ることはできないであろう」‥‥これは人の子イエスさまが、この地上からいなくなることを言っています。すなわち、天に帰られるということです。なぜ天に帰られるのか?‥‥それは30節に言われているように、再び現れるため、再びこの世に来られるためです。それをキリストの再臨と言います。そしてキリストが再び来られる、すなわち再臨は最後の審判の時となります。滅びる者と救われる者に分けられる時となります。
 しかし、人の子イエスさまが天に帰られる前のことが25節に書かれています。「しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」‥‥これはイエスさまの受難、すなわち十字架の予告です。したがって、イエスさまは、十字架を経て、復活・イースターを迎え、天に帰られます。そしてやがて再臨、すなわち最後の審判があり、待ち望んだ神の国が来るという順序になります。したがって、私たちは、この聖書の時代に最初にイエスさまが来られて、次に世の終わりに来られる時の間の時代に生きているということになります。

なぜキリストは二度来るか

 それにしても、なぜキリストは二度来るのでしょうか? ファリサイ派の人々が考えていたように、一度だけ来て、この罪の世の中を終わらせれば良いのではないでしょうか?しかしそれでは私たちは救われないのです。
 キリストはなぜ二度この世に来られるのか?‥‥それは、一度目は十字架にかかられるためです。そして二度目は、勝利を収めるためです。言い換えれば、この世を神のものに取り戻すためです。それが最後の審判であり、終末ということです。
 そして、もしキリストがおいでになったのが一度きりだったとしたら、それは十字架が無くて、いきなり神の裁きが下るということになります。そうすると、この私たちは間違いなく、神の裁きを受けて、滅びることになったでしょう。罪人だからです。罪人ではない人はいないからです。十字架の赦しがないというのは、そういうことです。しかしイエス・キリストが二度来て下さるから、すなわち、一度目に十字架にかかって下さったから、私が神の裁きを受ける代わりにイエスさまが十字架で私に代わって裁きを受けて下さったから、こんな私のような罪人でも悔い改めることができ、罪を赦され、救われることとなりました。神の国に入るという希望を与えられているのです。

しかし終わりは来る

 しかし、終わりが無くなったのではありません。終わりは来るのです。再びキリストはお出でになる。それが二度目です。その時には、旧約聖書の創世記に書かれているノアの時のように、そして同じく、ソドムの町が滅ぼされた時のロトとその妻のようなことが起こると言われます。ノアの時は、ノアと家族だけが神の言葉を信じて箱舟に入り、洪水から免れました。ソドムの町の滅びの時は、神の言葉を信じて全力で町を脱出したロトが救われました。
 このことから学ぶならば、私たちも全力でキリストの救いを求めるべきではないでしょうか。
 ノアの次代に滅びた人々は、「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた」と言われています。これは普通に生活していたということです。またロトの時代の人々も、「食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていた」と言われています。これも普通に生活していたということです。特にノアやロトに比べて悪い人々だったから滅びたとはそこには書かれていません。しかしそこには、神を求める、神を信じるということが書かれていません。
 やがて来る世の終わり、キリストの再臨の時も、全員神の国に連れて行ってもらえるとは書かれていません。33節から36節にそのことが書かれています。一人は連れて行かれ、一人は残される、と。そのようになると言われるのです。この言葉を聞いて、私たちは、こんなどうしようもない罪人である私でも救ってくださる、十字架のイエスさまを信じる他はありません。
 「それはどこで起こるのでしょうか?」と弟子たちが尋ねました。するとイエスさまは、「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ」と言われました。死体のある所には、それに群がるハゲタカが集まってくる。これは、罪に対しては必ず神の裁きが与えられると読めます。
 そうだとすると、この私も罰が下り、裁かれてしまうことになります。しかし繰り返しになりますが、最初にキリストが来られて十字架にかかられた。それは、キリストを信じて赦されるためです。私たちが罪人であるにもかかわらず、十字架にかかって代わりに裁きを受けて下さったキリストを信じて、赦していただくために。
 それゆえ、私たちは、キリストの再臨を神の国が来る時として、希望を持って感謝のうちに歩むことが赦されているのです。イエスさまを信じれば、こんな自分でも救われるからです。
 新しい年度が始まりました。今年も、世の人々がキリストの救いを求めるようになるように、熱心に祈る年でありたいと願います。


(2014年4月6日)



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