礼拝説教 2014年3月30日

「戻ってきた人」
 聖書 ルカによる福音書17章11〜19 (旧約 詩編9:2)


11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。
12 ある村に入ると、らい病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、
13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
14 イエスはらい病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。
16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。
18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」




 初めに私事で恐縮ですが、私どもがこの逗子教会に着任してちょうど3年が経ちました。正直「もう3年も経ったか」という思いです。私の最初の任地であった輪島教会のご婦人が、ある時「先生、年を取るとだんだん時間が経つのが早くなるゾ」とおっしゃいましたが、本当にその通りだと思います。そのだんだん早くなる時間の中で、永遠に変わることのない神の言葉に耳を傾けることに、より一層熱心でありたいと思います。

     重い皮膚病の人たち

 さて本日は、イエスさまが重い皮膚病にかかっていた人たちをお癒しになったという出来事です。
「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた」と書かれています。イエスさまは弟子たちと共に、エルサレムに向かって旅を続けておられます。エルサレムは都ですから「上る」と言われるわけです。そしてそのエルサレムで、まさに十字架に上られることになります。
 「サマリアとガリラヤの間を通られた」とあります。イスラエルの地図で言いますと、北から順にガリラヤ、サマリア、そしてエルサレムの都のあるユダヤという順になります。そしてガリラヤとユダヤにはユダヤ人が住んでいましたが、真ん中のサマリアにはサマリア人が住んでいました。サマリア人というのは、ユダヤ人の親戚です。昔にさかのぼると、ユダヤ人(イスラエル人のこと)と他の民族の混血民族です。そしてユダヤ人とサマリア人は、たいへん仲が悪かったそうです。
 イエスさまはガリラヤからサマリアへと進んで行かれたわけです。そのとき、「重い皮膚病を患っている十人の人」がイエスさまを出迎えました。「重い皮膚病」というのは、もう聖書で何度も出てきました。皆さんの中には、「重い皮膚病」が「らい病」となっている聖書をお持ちの方もおられることと思います。つまり、重い皮膚病とは、昔で言う「らい病」、今で言う「ハンセン病」のことであると。まあ、厳密に言うと当時は医学が発達していませんでしたから、ハンセン病ではないものまでハンセン病にしてしまったということもあったようですが。だいたいハンセン病のことだと思ってよいでしょう。
 いずれにしても、このハンセン病にかかった患者さんは日本でもつい最近まで、ものすごい偏見と差別を受けて隔離されて生活しなければならなかったように、この当時も同じでした。この病気にかかった人は「穢れた者」と呼ばれました。そして、町の中に住むことは許されませんでした。それでハンセン病の患者さんたちは、人里離れた所に暮らさなければなりませんでした。この10人の人たちも、同じ病気を抱えた者同士、なにも好きこのんでこの病気になったわけではないにもかかわらず、穢れた者と呼ばれて、人から嫌がられて生きてきた。どんなにかつらいことだったろうと思います。

     癒し

 この10人の人たちがイエスさまを出迎えました。出迎えたと書いてありますが、同時に「遠くの方に立ち止まったまま」とも書かれています。ここにもこの病気の問題があります。重い皮膚病にかかった人たちは、穢れた者とされていましたから、この病気にかかっていない人たちのところに近づいてはいけないことになっていたのです。それで遠くに立ち止まってイエスさまに向かって声を張り上げたのです。「イエスさま、先生、どうか私たちを憐れんでください」と。
 「憐れんでください」。「憐れむ」というのは、なんの資格も無いけれど、助けてくださいということです。それはまさに私たちがイエスさまにお願いする言葉でもあります。この病気の人たちは、町から離れて住んでいました。しかし彼らのところにも、イエスさまのうわさは届いていたのです。それで、イエスさまにお願いした。絶望的な日々の中で、いや、絶望に慣れてしまった日々の中で、一筋の光が差し込んだ。それがイエスさまでした。それで彼らはイエスさまに、心からのあわれみを求めてお願いしました。
 このように、イエスさまに向かってお願いする、声を張り上げるということがあって、出来事が起こったのです。黙っていてはダメです。イエスさまに向かってお願いする、祈るということから始まるのです。彼らは、ここを逃してなるものかと言わんばかりに声を張り上げてイエスさまにお願いしました。
 するとイエスさまは「祭司たちの所に行って、体を見せなさい」とおっしゃいました。祭司というのは、神殿で神さまのために働く人たちです。神社で言えば宮司さんです。なぜ祭司のところに行くかというと、旧約聖書に書かれていますが、重い皮膚病が治った場合、祭司のところに行って治ったことを証明してもらうことになっていたからです。医者ではなく、祭司の所に。なぜなら、この病気は穢れた病と呼ばれたので、治った場合は治ったと言う代わりに清められたと言ったのです。穢れている人は、神殿で神さまを礼拝できません。だから治った場合は、祭司に体を見せ、清くなったという証明をしてもらう必要があったのです。
 もちろん、この時はまだ重い皮膚病が治っていなかった。治ったのは、イエスさまの言葉に従って、祭司の所に向かう途中です。イエスさまが「祭司たちの所に行って、体を見せなさい」とおっしゃった。その言葉に従って、祭司たちの所に向かったのです。
 このルカ福音書では、5章にもイエスさまが重い皮膚病の人を癒されたことが書かれていました。その時は、イエスさまは重い皮膚病にかかった人に手を置かれてから「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は癒されました。今回はイエスさまは言葉だけおっしゃっています。しかも直ちに癒されたのではありません。祭司の所に行って見せなさい、とおっしゃいました。
 すなわち、そのイエスさまの言葉を信じて従うかどうかは、その言葉を聞いたこの病気の人たちの判断となります。イエスさまがおっしゃった時点ではまだ癒されていない。しかしイエスさまがおっしゃったんだからと、信じて祭司の所に向かったのです。その途中に癒されました。このことは、イエスさまの言葉に聞き従うということが、どんなにすばらしいことをもたらすかということを教えています。

     イエスのもとに戻ってきた1人

 するとそのうちの一人が、自分が癒されたのを知って、大声で神を賛美しながらイエスさまの所に戻ってきたと書かれています。そして、10人のうち、イエスさまの所に戻ってきたのは、この一人のサマリア人だけでした。
 大声で神を賛美しながら‥‥。この人の喜びが伝わってくるかのようです。彼はあまりのうれしさに、大声で神を賛美したのです。そんな大声で神を賛美しながら歩いていたとは、道行く人は何事かと思ったことでしょう。なにかおかしな人だと思ったかもしれません。しかし彼にとってはそんなことはどうでも良かったのです。うれしかったのです。自分は神に見捨てられていたと思っていた。しかし神さまが自分を癒してくださった、神さまが自分にもあわれみを示してくださった、そういううれしさです。
 考えてみると、私たちは大声で神を賛美することがあるでしょうか?‥‥私たちは多くの願い事をするかもしれません。しかしそれが聞かれた時、このようなうれしさで、喜んで大声で神さまを賛美するでしょうか。祈りがきかれていないでしょうか?‥‥例えば、朝、「きょう一日お守りください」とお祈りしたとします。そして夜になって、きょう一日が本当に守られたことが分かった時、大声で神さまを賛美するでしょうか? あるいは大声を出さないまでも、うれしくてうれしくて、神を賛美せざるをえないという気持ちになるでしょうか?
 そう考えると、本当に悔い改めさせられます。朝、「きょう一日お守りください」と祈ったのに、きょう一日が本当に守られて終わった時、なぜ喜ばないのでしょうか? なぜ朝祈ったことを忘れてしまうのでしょうか? 神さまにお願いして、その通りにしていただいたのなら、喜ばなくてはならないでしょう。神を賛美するのが、神さまに対する礼儀というものです。この癒された人のことを覚えたいものです。
 彼はそのように大声で神を賛美しながらイエスさまの所に戻ってきました。そして、イエスさまの足もとにひれ伏して感謝いたしました。
 他の10人はどうしたのか?‥‥考えてみるに、イエスさまに対する感謝が無かったわけではないでしょう。しかし、まず祭司の所に行って、重い皮膚病が治ったことの証明をもらいに行ったのでしょう。そうして清められたことを証明してもらえれば、晴れて世間の人たちと同じように生活できるのです。
 しかしこのサマリア人は、祭司の所に行く前に、治ったことが分かってUターンして、まずイエスさまの所に戻ってきた。イエスさまの足もとにひれ伏したと書かれています。ひれ伏すというのは、礼拝したことを表しているとも言えます。彼はイエスさまに神を見たのです。だから彼は大声で神を賛美しました。そしてイエスさまの足もとにひれ伏して感謝しました。

     「あなたの信仰」

 イエスさまはおっしゃいました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。
 ここでイエスさまがおっしゃっている「あなたの信仰」とは何でしょうか? 他の9人も、「祭司たちの所に行って体を見せなさい」とおっしゃったイエスさまの言葉に従ったのです。しかしこのイエスさまの所に戻ってきたサマリア人の信仰とは何でしょうか?
 それはやはり、イエスさまに感謝をするために、そして礼拝するために戻ってきたというところにあるでしょう。それをイエスさまは、「信仰」であると見なしてくださっているのです。そして彼に「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのです。救いを宣言されたのです。この戻ってきた1人だけが、救いの言葉を聞くことができたのです。

 前任地の教会にいる時のことでした。ある時、同時に2人の男性から相談を受けました。2人とも教会員でもなくクリスチャンでもありませんでした。それまで私が会ったこともない人でした。しかしよほど困ったのでしょう。教会の牧師である私のところに相談に来られたのです。しかもこの2人は、お互いに全然知り合いでも何でもないのですが、2人とも同じ問題で相談に来られました。それは女性問題でした。
 私にもどう対処して良いか分かりません。ですから聖書のみことばに立って、問題解決を考え、祈りました。そしてその2人にアドバイスをし、また礼拝に来て祈るように勧めました。彼らの相談に乗っている間、しょっちゅう電話がかかってきました。「こんな事態になってしまいました。どうしたらよいでしょう?」という具合に。そのたびに私は、心の中で祈り、「こうしなさい」「このようにしたらよい」と言ってアドバイスしました。この別々の2人の男性の相談に振り回される日々がしばらく続きました。
 そうしてついに、2人とも問題が解決しました。彼らは御礼は言いました。しかしその後は、礼拝に来なくなりました。彼らの抱えている問題が解決したので、もう終わったのでした。しかし私は、本当にそれで問題は終わったのだろうかと思いました。たしかに彼らがその時直面した問題は、神さまが解決してくださいました。しかしいずれまた、他の問題が起こってくることでしょう。その繰り返しとなるでしょう。
 では本当の問題解決はなんでしょうか?‥‥それは、このイエスさまの言葉をいただくことではないかと思います。「あなたの信仰があなたを救った」と。前回の個所で申し上げたように、これは本当の信仰ではないかもしれない。しかしイエスさまがそれを「信仰」であると見なしてくださる。そして救いを宣言して下さるのです。
 病気が治ったと言うだけではない。「救われた」と主イエスが言って下さる。イエスさまが「救った」と言って下さるので、救いがあるのです。
 「立ち上がって、行きなさい」。なんだかこの日本語だと、「もう帰れ」と言われているみたいに感じますが、この言葉をギリシャ語文法で言いますと、立ち上がるという命令と、行きなさいという命令の二つの命令形となっています。そして「立ち上がりなさい」のほうは命令法過去形と言いまして、一回限りの命令です。そして「行きなさい」のほうは、命令法現在形と言いまして、これは継続してそれを行いなさい、という意味になります。言ってみれば、「行き続けなさい」。それだと変な日本語になるので、「立ち上がって、歩み続けなさい」とでも訳したら良いかもしれません。
 イエスさまを礼拝し、イエスさまを信じた。そしてイエスさまに救いを宣言された。そうして歩み続けることができる。私たちも、毎週イエスさまを礼拝し、信仰告白をしております。説教の中でイエスさまの救いが宣言されています。そして礼拝の最後の祝祷によって、再び世の中に送り出されていきます。「立ち上がって、歩みなさい」と言われているのです。
 大声で神を賛美する気持ちを大切に、主と共に歩む一週間でありたいと思います。


(2014年3月30日)



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