礼拝説教 2014年3月23日

「からし種一粒の信仰」
 聖書 ルカによる福音書17章5〜10 (旧約 詩編116:8〜11)


5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、
6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。
8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」




     「信仰を増してください」

 使徒たち(イエスさまの12弟子)がイエスさまにお願いしました。「私どもの信仰を増して下さい」と。これは弟子たちだけではなく、私たちも同じように思うのではないでしょうか。自分の信仰がもっと強くなれば、どんなにすばらしいだろうかと。
 例えば、イエスさまは「明日のことを思い悩むな」とおっしゃいました。心配しなくても天の父なる神さまがちゃんとあなたのことを心配し助けて下さるから、明日のことを思い悩むなと。にもかかわらず、私たちは明日のことを思い悩むのではないでしょうか。このルカによる福音書でも、12章22節からのところでこのようにおっしゃっています。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。‥‥」
 なるほどその通りだと私たちは思います。思い悩んだからと言って、寿命を延ばすことなどできません。それどころか、思い悩むことによってストレスが増し、寿命が縮むことでしょう。神さまを信じれば、神さまがちゃんと養ってくださる。だからなにも思い悩むことはない‥‥。そう信じる信仰が増したら、どんなにすばらしいことでしょうか。ところが実際は、聖書のその言葉を読んだ時は「すばらしい」と思ってなにか神さまにゆだねた思いになるのですが、ちょっと難しい出来事が起こったりすると、たちまち心配になって、思い悩む‥‥ということになるのではないでしょうか。
 あるいは、前回は人のあやまちを赦してやりなさい、一日に七回あなたに対して罪を犯し、七回「悔い改めます」と言ってきたら、七回とも赦してやりなさいとおっしゃいました。本当にその通りにできれば、恨みや憎しみから解放されて、どんなに平安で祝福されるだろうかと思います。しかし実際は、ちょっとイヤなことをいわれても腹が立ち、なかなか赦すことができない。そういう自分に気がつきます。使徒たちが「私どもの信仰を増してください」とイエスさまにお願いしたのは、十分気持ちが分かります。

     からし種一粒の信仰

 さて、それに対してイエスさまはお応えになりました。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」(6節)
 これは驚くべきお言葉です。この地方のからし種というのは、ごま粒の半分ほどの大きさしかなく、たいへん小さい物のたとえに使われます。ところが、そのからし種ほどの小さな小さな信仰でもあれば、今イエスさまのたちの前に桑の木が立っていたのでしょう、その桑の木に「抜け出して海に根を下ろせ」と言えば、言うことをきくというのですから。
 ではと、私たちがその桑の木に、いや桑の木でなくても、ここにあるイスでもオルガンでも良いでしょう、「抜け出して海に行け」と言えば、そうなるかと言えば、おそらくそうはならないでしょう。ということになると、つまり私たちには、「からし種一粒の信仰」すら無いということになるでしょう。そのからし種というのは、今申し上げましたように、最も小さい物のたとえですから、私たちには信仰がないということになります。信仰を増すどころの話しではありません。信仰がないのです。
 そうすると、イエスさまが「からし種一粒の信仰」と言われたのは、信仰というものは多いか少ないかということではない、強いとか弱いとかいうことでもない、「あるか、ないか」ということであることが分かります。ほんのわずかでもあれば、目の前の木に向かって「抜け出して海に根を下ろせ」と命じれば言うことをきくのですから。
 そもそも信仰とは、増えたり減ったりするものなのでしょうか。貯金は、増えたり減ったりします。そのように信仰も、努力によって増えたり減ったりするものなのでしょうか。あるいは勉強すれば、知識が増していきます。そのように、信仰も増えていくものなのでしょうか。
 もしそうだとしたら、信仰の強い人、弱い人というのがあることになります。あるいは、信仰深い人、浅い人というものが存在することになります。たしかに、信仰深く見える人はいます。信仰が強いように見える人はいます。「あの人のほうが信仰が多い」と思える人もいます。
 しかし、信仰というものは一瞬にして失われるものです。例えば、一番弟子とも言える使徒ペトロはどうでしょうか。イエスさまが十字架にかけられる前の晩の、最後の晩餐の席で、ペトロはイエスさまに向かって「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22:33)と言い、「あなたのためなら命を捨てます」(ヨハネ13:37)と誓いました。しかしその舌の根も乾かないうちに、ペトロは逮捕され尋問を受けているイエスさまについて、「自分はその人を知らない」と言って3度もイエスさまのことを否認しました。人間の信仰というものは、一瞬にして無くなってしまうものなのです。
 あるいは、信仰深く思われ、尊敬に値すると思っていた牧師が、女性問題や金銭問題で失態を演じるということがあったりします。非常に裏切られた思いがいたします。
 しかしそれは、言ってみれば、それほど悪魔の誘惑は巧みであり、人間はそれに屈しやすいということでしょう。人間の信仰などというものは、一瞬にして失われてしまうものです。それはどんなに信仰深く見える人でも同じです。そのことが分かっていないと、はじまりません。

     信仰とは、信じるか信じないか

 そういたしますと、信仰というものは、年月と共にだんだん積み重なっていって、増えていくというものではないことが分かります。イエスさまのためなら命も捨てますと言ったまことに強い信仰のように見えたペトロが、次の瞬間には、イエスさまを見捨て、イエスなど知らないと言う。
 すなわち、信仰というものは多いか少ないか、ということではなく、あるかないか、ということであることがはっきりしてきます。それが、「からし種一粒の信仰」ということです。からし種は本当に小さな種ですが、それでも「ある」のです。
 このことを考えてみる時に、バスに乗る時のことを考えてみればよいでしょう。新逗子駅のバス乗り場から、鎌倉駅に行こうとしてバスに乗るとします。そうすると「鎌倉駅行き」と表示されたバスが来ました。皆さん、普通に乗るでしょう。しかしこの行為を詳しく分析すると、バスに「鎌倉駅行き」と書かれているその表示を信じて乗っていることになります。「鎌倉駅行きと書いてあるけれども、これはウソだ」と思う、つまり表示を信じない人は乗りません。
 この場合、バスの表示を信じるのか、信じないのか、二つに一つであるということになります。半分信じる、とか、ちょっとだけ信じる、ということはあり得ません。例えば半分信じる、具体的にいうと、「このバスは『鎌倉行き』と書いてあるけれども、ウソかもしれないし、本当かもしれない。だから自分の右足だけバスに乗ろう。左足は地面につけたままで乗らないことにしよう」ということがあり得るのでしょうか?‥‥そんなことは、あり得ません!
 表示を信じて乗るのか、あるいは信じないで乗らないのか、二つに一つです。信仰とはそういうものです。すなわち、信仰とは、あるか無いかのどちらかであるということになります。そしてからし種一粒の信仰があれば、桑の木さえも聞き従う。

     桑の木を動かすのは誰?

 さて、次に、では信仰があれば桑の木さえも自分の言うことに聞き従うのか?ということを考えてみましょう。  桑の木が私たちの命令に従うのならば、桑の木に限らず、なんでも私たちの命令に従うことでしょう。そうするとこれは、まるで自分が超能力者にでもなったかのようです。
 しかし、目の前の地面に植わっている桑の木が、海に移れと命じる私の言うことをきくとすれば、それは自分がそうしたのではなく、神さまがそうなさったのです。私という人間にはそんな力がない。そんなことができるのは、唯一神さまだけです。だから、桑の木が海に移ったのは、神さまがそうしたということになります。すなわち、桑の木に向かって「抜け出して海に根を下ろせ」という命令を神さまが聞いて、桑の木を移されたということになります。
 ここまでくると、なにかおかしいと思われるでしょう。これではまるで、「アラジンと魔法のランプ」のようです。神さまが魔神という召使いになってしまいます。神さまが私たちの言うことをなんでもきくということになってしまいます。

     主人としもべ

 そこで7節からのお話しに続きます。これは今のお話しと一見、全然関係ないように聞こえる話しですが、実は大いに関係ありです。
 ここでは、主人が誰で、しもべ(召使い)は誰なのか、ということを考えさせます。そしてしもべとは、いったいどういうものなのかということを考えさせています。すなわち、あくまでも主人は神さまであり、しもべは私たちであるということです。私たちが主人なのではありません。神さまが主人であり、私たちはそのしもべです。ここを間違えてはなりません。
 従って、桑の木に「抜け出して海に根を下ろせ」と私たちが言うとしたら、それが神さまの御心でなくてはなりません。桑の木が海に移ることが神さまの御心ではないのに、そのように命じたならば、それは自分が勝手に命じたことになり、桑の木は海に移りません。神さまが主人で、わたしたちが僕です。
 私たちは、信仰を失いやすい者です。しかし、神さまにすがり、イエスさまにすがることができます。そのことが許されています。ルカによる福音書8章で、イエスさまは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われ、一緒に舟に乗って海に漕ぎ出しました。ところが途中で暴風が起き、波が逆巻き、舟は水をかぶって沈みそうになりました。その時、弟子たちの信仰は無くなりました。しかし舟は無事に向こう岸に着きました。なぜでしょうか?
 それは、舟の中で眠っていたイエスさまに「先生、先生、おぼれそうです!」と叫んでイエスさまを起こしたからです。信仰は無くなったけれども、イエスさまにすがったのです。するとイエスさまは起き上がって、風と波を叱りつけられました。すると風は収まり、凪になりました。
 私たちの信仰は無くなるかもしれない。しかし、そのようにしてイエスさまにすがることができます。すがる、ということは、本来の意味での信仰ではないかもしれません。しかし、イエスさまにすがるということを、イエスさまは「信仰」だと見なしてくださいます。そしてイエスさまの働きが現れてきます。


(2014年3月23日)



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