礼拝説教 2014年3月16日

「ゆるしの奇跡」
 聖書 ルカによる福音書17章1〜4 (旧約 マラキ書1:9)


1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。
2 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。
3 あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。
4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」




     「つまずき」について

 ファリサイ派に向かっておっしゃったお話しが終わり、きょうの個所でイエスさまは再び弟子たちに向かって言われました。それは「つまずき」ということについてです。つまずきとは、文字通り、石にけつまずいて転ぶようなことを言います。ここで言われているつまずきとは何かというと、それは神を信じることを妨げることを指しています。神を信じている人、神を信じようとしている人をつまずかせる。すなわち、神を信じられなくなるようなことをすることを指しています。
 イエスさまは最初に「つまずきは避けられない」とおっしゃいました。たしかにその通りです。この世は罪人である人間の集まりですから、神を信じることが難しくなるような、あるいは疑問に思えてくるような出来事で満ちています。
 それは私もかつて質問を受けたことですが、例えば「神が本当にいるのなら、なぜ戦争で多くの人が死ぬようなことが起きるのか?」というような問いもその一つでしょう。あるいは、干ばつや飢饉が起こって、多くの人が飢えで死ぬというようなことがこの世界では起きています。そうすると「神が本当にいるのなら、なぜそのようなことが起きるのか?」という疑問が湧いてきます。あるいは、この世の中には、悪がはびこっているように見える。そうすると「神が本当におられるのなら、なぜ神は悪人を放置しているのか?」という疑問となります。そういう質問を私は今まで受けてきました。そしてそれに対する答えはあります。しかし今日はその答えについて述べることが目的ではありませんので、それはまた次の機会に譲ることといたします。
 そのように、この世に生きている私たちは、時として神の存在を疑うような出来事に遭遇いたします。
 続いてイエスさまは、「だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがマシである」とおっしゃいました。これは非情に強い表現です。私たちはイエスさまがこのような強い言い方をなさったということについて、驚かざるをえないのではないでしょうか。私は以前イスラエルに行きました時に、ガリラヤ湖畔のカファルナウムの遺跡で、その当時の「挽き臼」を見ました。それは石でできていました。漬け物石よりもはるかに大きく、重そうでした。そのような石を首にかけられて海に投げ込まれたら、もう絶対に助からないでしょう。

     神を信じなくさせることが、そんなに悪いことなのか?

 そうすると、他人に対して神を信じられなくするようなことをすることが、そんなにも重大な悪いことであるということが、なかなか理解出来ない方もいるのではないでしょうか。
 では、神を信じさせなくすることが悪いということを理解するために、人を信じさせなくする場合を考えてみましょう。それまで人を信じていた人を、人間不信に陥らせることは、悪いことではないでしょうか。
 例えば「オレオレ詐欺」はどうでしょうか。私の前任地の教会では、二人の方が、この詐欺にひっかかってしまいました。また、ある教会員は、遠くに住んでいたご両親が「オレオレ詐欺」にひっかかって、ほとんど全財産を取られてしまいました。たいへん悲惨なことです。年を取ったご両親が、長年コツコツと貯めてきた老後の資金をすべてだまされて取られてしまったことを考えて下さい。それは本当にひどいことです。怒りなくして聞くことはできませんでした。
 「オレオレ詐欺」になぜひっかかるのか、と言う人もいるでしょう。しかし詐欺にひっかかった人は、電話のぬしが自分の子どもであると信じて、だまされてしまったのです。だましたほうが悪いのです。だまされた人は、それまで人を信じて生きてきたのでしょう。しかしそのようなひどい目に遭ったら、もう人を信じられなくなるでしょう。ですから、この場合、人を信じられなくなるようなことをした詐欺師は、どんなに悪い者であるかということがお分かりになるでしょう。
 また、やはり前任地におりました時に、関係幼稚園の園長先生がある時おっしゃいました。園の前の歩道を掃除していたら、小学生の男の子がしゃがんでいた。それで「何をしてるの?」と声をかけたら、その男の子は逃げるように走って行き、10メートルぐらい先に立ち止まってこちらを不安そうに見たというのです。そして肩を落としたようにおっしゃいました。「たぶん学校で、知らない人に声をかけられたら逃げるように教えられているんでしょうね」と。
 私が子どもの頃は、「知らない人にも挨拶をしましょう」と教えられたものです。しかし今は、「知らない人から声をかけられたら逃げろ」と教えられる。いや、そう教えなければならない人間不信の世の中になってしまったのです。異常な社会です。お互いが信じられなくなったら、それは生きていくのも息苦しい社会だと言わなければなりません。
 そのように人間を信じられなくするようなきっかけを作った人の罪は大きいと言わなければならないでしょう。ここまでは、多くの人がそう思うでしょう。では、神さまを信じられなくするようなきっかけを作った人の罪はどうでしょうか?‥‥そう考えてみると分かるかと思います。それは本当にひどいことであるということが分かってきます。そのように、人をつまずかせるということは、たいへんひどいことであるのです。

     「小さい者」とは

 さて、ここで言われている「これらの小さい者」とは誰のことを言っているのでしょうか。ある人々が言うように、貧しい人のことを指しているのでしょうか? 前回のたとえ話の「ラザロ」のように。しかし、前回のたとえ話では、神を信じなくなったのはラザロではなく、金持ちのほうです。神を信じるということは、神に頼るということです。あの金持ちは、なぜ神に頼らなくなったのでしょうか? それは、金に執着するファリサイ派のように、金持ちになるということは神の祝福であると間違った教えが、金持ちをつまずかせたとも言えます。だからそのように間違った教えを教えた者の罪は非常に大きいと言わなければなりません。
 イエスさまの言われた「これらの小さい者」というのは、そのように信仰を失いやすい者たちのことを指していると言えるでしょう。いわゆる信仰の弱い者たちです。そうすると、それは私たち自身のことでもあると言えるのです。
 高校生まで教会に通っていた私が、親元を離れて大学に行った時、間もなくして教会を離れたということは以前にも申し上げました。まず入学してすぐに行った教会で、つまずきました。それは、礼拝のあと副牧師が私にその教会の紹介をしてくれたのですが、そこで教会の自慢話をしたからでした。この教会には、いわゆる社会的な地位の高いといわれる人がたくさんいるのだと。私は、教会という所は、どんなに社会的地位の高い人も、また逆にこの世では軽んじられている人でも、全く同じように扱われるところだと思っておりましたので、その副牧師の先生のいわれた自慢話にショックを受けて、「こんな教会は二度と行かない」と思ったのでした。みなさんもどうぞ気をつけてください。教会の自慢話だけはしないように。
 次に行った教会は、半年ほど時々通いました。ところがそこでもまたつまずきました。それは、大学の心理学の授業で、ある時私は欠席したのですが、私が頼みもしないのに私の名前で代わりに授業に出て、代返をした友人がいたのです。しかも彼は、授業の途中で教室を抜け出した。するとその教授はちょっと変わった人で、抜け出した彼を追いかけて行って、教室の外で捕まえて、「お前の名前はなんだ?」と詰問したそうです。すると彼は、私の名前を言った。もちろん私はそんなことがあったなんて知りません。
 そして数日して、私が大学の建物に行った時、掲示板に黒山の人だかりがしているのを見ました。なんだろうと思って見ると、それはその心理学の教授が掲示した紙が貼ってあって、「○月○日に授業で代返した学生の名前は分かっている。○月○日何時に教授室に出頭せよ」と書いてありました。私は自分のことだとは思いませんから、「馬鹿な奴がいる者だ」と思っただけでした。ところがその日、学生寮に戻ってから、その友人が私の所に来て誤るんですね。そして言うには、「あれはお前のことだ」と言うんです。
 私はびっくりして、指定された日に、その心理学の教授の部屋に行きました。そしてその教授に事の次第を説明して、自分は代返を頼んだのではないと言いました。ところがその教授は、私の言うことを全然信じてくれないのです。いくら本当のことを言っても、私が代返を頼んだと頭から決めつけている。それで私は腹が立って、こんな人の単位などいらないと思って、ケンカ別れして出てきました。‥‥そんなことがありました。
 さて、それから久しぶりに教会の礼拝に行きました。そして、ふととなりを見ると、なんとその心理学の教授が座っているではありませんか!‥‥私はびっくりして(向こうもびっくりしたと思いますが)礼拝が終わってから、牧師に聞きました。「あの○○先生は、この教会の教会員なのですか?」と。すると牧師先生はうなずいて、「ええ、長老さんです」と答えたのです。私は腹が立つやら情けないやらで、もう二度と教会など行かないと思って飛び出しました。
 その後私は、教会に行かなくなったばかりか、神を信じることをやめたのでした。もちろん、今考えると本当の信仰というものが分かっていなかったのですが。それは言ってみれば、ここの「小さい者」であったわけです。

     ゆるしとつまずき

 3節でイエスさまが、「あなたがたも気をつけなさい」とおっしゃっておられます。それで、「あなたがたも、人をつまずかせないように気をつけなさい」とおっしゃるのかと思ったら、ここから隣人を赦すことについて述べておられるのです。これは何か話しが変わってしまったようにも読めます。しかしそうではありません。イエスさまを信じる者が、その人を赦さないということが人をつまずかせることになるということです。
 私たちはどんなに努力しても、やはり罪人ですから過ちを犯します。だから、人をつまずかせる。しかしそうだとしても、赦すということが最も大切なこととして教えられているのです。一日に7回誰かが私たちに過ちを犯すというのは、ずいぶんひどい人です。しかしその罪を指摘して、悔い改めればその7回とも赦してやりなさいと言われるのです。これはもう、無限の赦しと言ってよいでしょう。
 なぜそのようにして人のあやまちを赦す必要があるのか?‥‥それは、私たちがイエスさまによって赦されているからです。赦されているから赦す。
 先ほど、私が学生の時につまずいた話をしました。しかし私はそれを振り返った時、「自分もまた知らないうちに他人をつまずかせているに違いない」と思うのです。そうすると私も、首に挽き臼を懸けられて海に投げ込まれて当然の罪人です。生きている資格がない者だと言わざるをえません。
 しかし、そのように首に挽き臼を懸けられて海に投げ込まれたほうがマシの私の代わりに、十字架にかかって罰を受けて下さったのがイエスさまです。そのイエスさまを信じた時に、人をつまずかせるという大罪を犯したこの私も、赦される。これはどんなに感謝なことだろうかと思います。
 私たちは皆、本来挽き臼を首にかけられて海に投げ込まれたほうがマシな者である。そのことに気がつくのが、聖書が言う「悔い改め」ということです。そしてそんな私がイエスさまの十字架によって赦されている。だから、私たちも、隣人を赦しなさいと命じられているのです。私たちが他人のあやまちを赦さないならば、私たちも神さまから赦していただけません。赦していただけないということは、祈りも聞いてくださらないということです。きょうのみことばは、十字架にかかられたイエスさまの赦しの大きさを教えています。


(2014年3月16日)



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