礼拝説教 2014年3月9日

「逆転の天国」
 聖書 ルカによる福音書16章19〜31 (旧約 申命記4:1)


19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、
21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。
28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」




     大震災から3年
 東日本大震災から3年が経とうとしています。あらためて被災地のために祈り続けたいと思います。

     たとえ話

 本日の聖書箇所は、イエスさまのたとえ話です。イエスさまのたとえ話は、あれもこれも言おうとなさっているのではなく、ある一つのことを言おうとして、たとえて話されるというものです。ですから、たとえ話を読んで、イエスさまが何をおっしゃろうとしているかに耳を傾けなければなりません。勝手に解釈してしまうことは、たいへん危険なことです。人を間違った方向に導いてしまうことになってしまうでしょう。
 このたとえ話のストーリー自体は、たいへん分かりやすいものです。それで順に話しを追ってみましょう。
 まず、「ある金持ち」が登場します。そしてその金持ちの門の前に横たわっていたラザロという、できものだらけの貧しい人が出てきます。このお金持ちの人と、ラザロの貧しさが対照的に描かれています。金持ちは毎日贅沢に遊び暮らしていたという。いっぽうラザロのほうは、金持ちの家の門の前で、その金持ちの食卓から落ちる物にあずかりたいと思っていた。貧しいと言って、たいへん貧しい。生きていけるのか行けないのか分からないような有様です。金持ちとラザロの対比がきわだっています。
 ところがこれが二人とも死んだあとが全く逆転しています。貧しいラザロは、天使によって天国に運ばれ、アブラハムのそばに連れて行かれました。いっぽうの金持ちは、陰府に行くこととなりました。炎で焼かれている地獄のような所のようです。そこで苦しんでいる。つまり、この世にいる時と、あの世に行った時が正反対となっています。
 アブラハムが天国にいるというのは、ユダヤ人の伝説だそうです。イエスさまはそれを用いてお話になっています。いっぽうの金持ちは、炎で焼かれて苦しんでいる。天国にいるアブラハムに向かって叫びます。「ラザロをよこして、指先を水に浸し、私の舌を冷やさせてください」と。
 ところがアブラハムの答えでは、天国と陰府の間は越えることができないという。それで金持ちは、せめて私の兄弟たちにこんな苦しい場所に来ることがないように、よく言い聞かせてほしいとアブラハムに願います。
 するとアブラハムは、「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と答えます。「モーセと預言者」というのは旧約聖書のことを指します。聖書をちゃんと読めば分かるはずだ、そこに必要なことは書かれているという答えです。
 すると、金持ちはさらに食い下がります。「いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者の中から誰かが兄弟の所に行ってやれば、悔い改めるでしょう」とアブラハムに願います。するとアブラハムは、「もしモーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と答えて話は終わります。

     どのような教えなのか?

 このたとえ話は、いったいどのような教えなのでしょうか。
 たとえば、生前贅沢に暮らし、貧しい者を省みない人は地獄へ行くのだ、という施しを奨励することを教えておられるのでしょうか。確かにそのように読めないこともありません。しかしだとしたら、それだけではユダヤ教も同じです。ユダヤ教でも貧しい人に施しをすることは、たいせつな徳目でしたから奨励されていました。
 ではいったいどのようなことをイエスさまはおっしゃりたいのでしょうか。それには、このたとえ話がどのような文脈で語られているかを考えてみなければなりません。実はこのたとえ話は、この前の個所である、お金に執着するファリサイ派の人々に対してイエスさまがおっしゃった言葉から続いているのです。切れ目なくです。ということは、ファリサイ派におっしゃった言葉の続きであると考えなくてはなりません。
 ファリサイ派は施しをすることに熱心でした。旧約聖書の教えの一つだからです。私がイスラエルに行った時、道端に人が座っていました。ガイドさんは、「あれは物乞いなんです」と言いました。そして「イスラエルでは物乞いが威張っているんです。良いことをさせてやっている、と思っているんです」と言いました。物乞いの人に施しをするという善行をさせてやっていると思っているから、物乞いの人が威張っているという。
 確かに、慈善をするというのは良いことに違いありません。しかしそれを奨励するのが、イエスさまのこのたとえ話であることは、そのような文脈から言って、考えにくいのです。

     ラザロ

 さて、そのファリサイ派に対する言葉の続きであると考えると、ファリサイ派がどのように考えていたかを振り返ってみる必要があります。ファリサイ派の人々は、お金持ちというのは神さまから祝福された人だ、と考えていました。いっぽう、このたとえ話に出てくるラザロのような、体に皮膚病を負い、貧しい人は、神の祝福のない人だと考えていました。
 ところがこのイエスさまのたとえ話では、それが逆転しているのです。いったいなぜでしょうか?
 まず、なぜこの金持ちは陰府に落とされたのでしょうか。金持ちが悪人だったからとは言われていません。「陰府」とは何でしょうか。ここでは実際の陰府というよりは、当時の人々が考えていた意味での陰府ということでしょう。それは天国とは反対の場所です。この金持ちが、ラザロを助けたかどうかは、触れられていないので分かりません。原文からも解釈の分かれるところです。そうすると、いったいなぜこの金持ちは死後に陰府に落とされたのか。
 30節の「悔い改める」という言葉がヒントになるでしょう。そして31節の「モーセと預言者に耳を傾けない」という言葉がヒントになります。「悔い改める」というのは、自分が罪人であるということを悟ることです。神さまなしには、自分が生きられないのです。そういうことを知ることです。
 また、このたとえ話では「ラザロ」という固有名詞が出てきます。イエスさまのたとえ話に人名が出てくるのは、たいへん珍しいことです。するとこの「ラザロ」という名前に特別の意味を込めて、イエスさまはおっしゃっていると考えたほうが良いでしょう。すると「ラザロ」という言葉の意味は、「神は助けたもう」という意味です。金持ちの食卓から落ちる物を求めていたということも、ただ神の恵みを求めている姿を連想させます。
 そうすると、このお話の金持ちとラザロの対比は、神に頼らない者と頼る者、という比較であることが分かってきます。神を必要としない者と、神を必要とする者の比較といってもよいでしょう。この金持ちは、神を必要としていなかったのです。自分の持ち物で十分生きていけるのだ、と思っていたのです。

     みことばに耳を傾ける

 この金持ちは、「モーセと預言者」すなわち旧約聖書の教えを無視していたのではなかったでしょう。しかし、本当に神の御言葉を必要としていたのではなかったのでしょう。たしかに、死人が生き返って兄弟たちに言ってくれれば、驚いて、その忠告を聞いてくれそうですが、神を求めていないのであれば、何を言っても真剣に聞かないでしょう。たとえば、満腹の人にいくらごちそうを出しても、「いりません」と言われるでしょう。それと同じように、神を求めていない人に対しては、いくら死人がよみがえって忠告をしてもまじめに聞かないでしょう。
 実際、イエスさまがよみがえられても、福音を聞こうとしない人々がいたことを忘れてはなりません。
 いっぽう、ラザロは、神に頼るほかはなかったのです。だから救われたのです。
 伝道とは、人々が神の御言葉を聞く耳を持つように、神の御言葉を求める人となるように、祈ることなしにはできません。人々が、悔い改め、自分が救いを必要としている者であることに気がつくようになるように、祈るのです。そのために、まず私たち自身が神の御言葉に耳を傾ける者でありたいと思います。


(2014年3月9日)



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