礼拝説教 2014年3月2日

「天地が消え失せても」
 聖書 ルカによる福音書16章14〜18 (旧約 イザヤ書40:8)



14 金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。
15 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。
16 律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。
17 しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。
18 妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」




     百十歳のご婦人

 先週の月曜日から水曜日まで、小さなお休みをいただいて、富山から能登方面へ行ってきました。車で行ったのですが、途中、前任地の教会の最高齢者であるT姉の家に寄っていきました。息子さん、お孫さんと住んでおられます。たいへん喜んでくださり、自分の部屋で立ったまま靴下を履こうとして転ばれ、心配しましたが大丈夫でした。我々がお訪ねした時は、ちょうどテレビで国会中継を見ておられる時でした。
 おいくつだと思いますか?‥‥なんと110歳になったそうです。110歳と言えば、私はあと54年経たないと到達できません。今が半分ぐらいというところです。遠かった耳はさらに遠くなり、ほとんど聞こえないので筆談しましたが、頭ははっきりとしておられ、ふつうに話すことができ、眼鏡をかけること無しに新聞や本を読むことがおできになります。また、歩くこともできます。「信徒の友」を毎月定期購読して読んでおられ、私の書いた文章は繰り返し読んでいたとおっしゃいました。また、教会の週報を拝見すると、そこには赤線がびっしりと引かれていました。家から教会まで遠いので、教会へは三大祝日しか行くことができませんが、いつも教会のことに関心をもって祈っておられる様子でした。
 私は「あと10年でモーセと同じ年齢になりますね」と申し上げると、首を横に振られました。でも本当に、モーセが亡くなった120歳まで生きられそうに思われました。あらためて、信仰の生涯を全うしたいと思いました。帰る時は、玄関先の庭まで歩いて見送ってくださいました。

     富を神とする人々

 今日の聖書ですが、金に執着するファリサイ派の人々がイエスさまのお話しを聞いてあざ笑ったと書かれています。
 ファリサイ派とは、厳格な宗教家です。旧約聖書のモーセの律法を熱心に守ることで有名でした。また人々に聖書の掟を教える先生でもありました。ルカによる福音書は、立派な宗教家だと人々から見られていたファリサイ派について、「金に執着するファリサイ派」と、きびしい見方をしています。そして彼らがイエスさまのお話しを聞いてあざ笑ったといいます。
 前回のところでイエスさまは最後に、「神と富との両方に仕えることはできない」とおっしゃいました。これは、神と富(お金)の両方を主人とすることはできないという意味です。「仕える」という言葉は、奴隷が主人に仕えるという意味です。奴隷は、同時に二つの主人に仕えることは不可能です。例えば、二人の主人に仕えたとして、その二人の主人がそれぞれ正反対の命令を出したら、いったいどちらの命令に従えばよいのでしょうか。両方の命令に従うことなどできません。どちらかにしか従えません。
 例えば、ソチ・オリンピックが終わりましたが、フィギア・スケートの選手が、二人のコーチを持ったとします。そのうちの一人のコーチが、「トリプル・アクセル」すなわち3回転半のジャンプを飛びなさいと指示したとします。しかしもう1人のコーチは、「3回転半は無理だ。3回転ジャンプにとどめなさい」と指示したとします。この場合、どちらの指示に従えばよいのか、選手は困ってしまいます。3回転と3回転半の中間などというのはありません。ですから、両方のコーチの指示に同時に従うことはできません。どちらかのコーチの指示を採用するしかありません。
 そのように、イエスさまの言われたことは、「神と富との両方を主人として仕えることはできない」ということです。結局どちらかが2の次になることとなります。
 そのイエスさまのお話しを聞いて、ファリサイ派の人々があざ笑ったという。そして彼らは「金に執着している」とルカは書きます。彼らは、まじめで敬虔な宗教家と見られていましたが、実はお金がもうかるという目的で宗教を信仰していたのです。モーセの律法を厳格に守っているように見えるのも、神の律法を守ればお金がもうかると信じていたのです。つまり、彼らにとって、宗教というのはお金儲けのための手段でした。本当の目的は、お金であり地位であり名誉であったのです。神さまはという存在は、彼らにとってそのための手段に過ぎなかったのです。
 いかに信心深そうに見えようとも、神さまは彼らの心の中をご存知であると主イエスは言われます。

     福音の時代の到来

 16節でイエスさまは、「律法と預言者は、ヨハネの時までである」と言われます。律法と預言者というのは、言い換えれば旧約聖書ということです。そして「ヨハネ」というのは洗礼者ヨハネのことです。イエスさまに洗礼を授けたバプテスマのヨハネのことです。そして、旧約聖書は洗礼者ヨハネまでであると言われます。すなわち、イエスさまの登場によって、旧約聖書は終わり、新しい時代が始まったということです。そして、こうおっしゃいました。「それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、誰もが力づくでそこに入ろうとしている。」
 それまでの律法に変わって福音が告げ知らされている。すなわち、イエスさまの登場によって神の国の福音が告げ知らされている。そして、誰もが力づくでそこに入ろうとしていると言われます。「力づくでそこに入ろうとしている」というのはおもしろい表現ですが、とにかく人々が殺到している光景が目に浮かびます。
 それまでファリサイ派や律法学者の先生が宗教を独占していた時は、神の国というものは一般の人々にとって遠い存在に思われたことでしょう。自分たち罪人には縁のない世界だと思われていたことでしょう。しかし、イエスさまが来られて神の国の福音が告げ知らされてからは、神の国というものがぐっと身近に感じられました。それで人々が神の国を求め始めた‥‥。そういうことです。しかしだからと言って、律法と預言者が無効になったのではありません。いやそれどころか、イエスさまがおっしゃるのには、「律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消え失せる方が易しい」ということです。「律法の文字の一画」というのは、神の掟が記されてる文字の一画ということですが、一画というのはヘブライ文字の一点一画のことで、例えば「逗子教会」の「逗」の字のしんにゅうの点一つ、ということです。
 私たちは、ともすると律法と預言者、すなわち旧約聖書を軽んじてしまうのではないでしょうか。「旧約聖書は怒りの神、新約聖書は愛の神」という言い方を聞いたことがあります。もしそうだとすると、神さまは途中で変わってしまったかのような印象を受けます。それは間違っています。イエスさまは、「律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消え失せる方が易しい」と言われました。たとえ天地が消え失せたとしても、神の言葉は決して向こうになることはないということです。
 今日読んだ旧約聖書の言葉は、イザヤ書40章8節の言葉です。「草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」。今は美しく咲いている草花も、やがて枯れていきます。私たちの地上の命も、やがて終わりを迎えます。いや、それどころか、地球も太陽も、やがて消えていきます。この世のものはすべて永遠というものはありません。しかしただ一つ、永遠なものがあります。それは神という方です。そして私たちに与えられている神の言葉です。神の言葉は永遠です。旧約聖書の律法と預言書も永遠です。それは、イエスさまを預言するものとして、永遠です。その意味で、律法の文字の一画さえも無くなることはありません。すべてはイエスさまの救いを預言しています。

     律法を守っているという人たちへ

 18節で、妻を離縁することは姦通の罪を犯すものであることをイエスさまが言われています。何か突然関係のない話が出てきたような印象を受けます。しかしこれは、イエスさまが、律法を忠実に守っているというファリサイ派の人々の矛盾を突いている言葉であると言えます。
 姦淫してはならないというのは、旧約聖書の律法の中心である十戒に記されていることです。聖書で言う姦淫というのは、結婚の破壊です。だから正当な理由もなく離婚することは、神の御心に反することです。しかしファリサイ派によれば、「離縁状」というものを妻に渡しさえすれば、自由に離婚できるのでした。ここでイエスさまは、そのことをおっしゃっているのです。そのようなことはまことに勝手なことであり、神の御心に反しており、姦通の罪を犯すことなのだと。
 こうしてイエスさまは、彼らが実は神の掟である律法を守ってなどいないことを明らかにされたのです。やはり「神と富との両方に仕えることはできない」ことを明らかにされたのです。そのように、ファリサイ派の人々は、実は富を主人としていることが明らかにされました。

     本当の信仰とは

 敬虔な宗教家と思われていたファリサイ派の人々は、実は富とお金に代表されるこの世の栄誉を主人とし、神はそれをかなえるための手段に過ぎなくしていることが明らかとなりました。お金をもうけさせてくれる神を信じていたのです。
 では、本当の信仰とはどういうものでしょうか?
 私は昔、キリストを信じて大金持ちになったという証しの本を読んだことがあります。たしかに「すごいな」とは思いました。しかし、「キリストをどう信じたら大金持ちになれるのだろうか」という興味と欲が出てきただけでした。この場合、お金とこの世の名誉や地位が目的であることになります。そうだとすると、もしキリストを信じたのに大金持ちになれないと分かったらどうするでしょうか?
 逆に私は、水野源三さんの本を読んだ時、心が洗われるような言いしれぬ感動を覚えました。小学校4年生の時に、全身が麻痺となり、しゃべることもできなくなった水野源三さん。指一本動かすことができない。自分では何もできない。しかし、やがてお母さんの指さす50音の表をまばたきによって合図することによって、意思表示をする手段を得ました。そしてそのような気の遠くなるような作業を通して作られた、源三さんの詩集を読んだ時、私の心は揺さぶられました。そこには、神への賛美、キリストへの感謝で溢れていたからです。
 源三さんは、この世の富や地位や名誉どころか、体の自由さえもありませんでした。しかし神を主とすることによって、真実の喜び、感謝、平安がそこにあることを知りました。本当に生きておられる主と共に歩む喜びです。
 私たちは、「神を信じた結果、大金持ちになった」という証しと、水野源三さんの証しと、どちらに魂の感動を覚えるでしょうか。そこにすでに答えがあるのではないでしょうか。
 先日の礼拝委員会の中で提案があり、今日の週報から週報のスペースの余裕がある時に「礼拝Q&A」というものを掲載することにいたしました。きょうは「招詞」について簡単に解説いたしました。なぜ神を礼拝するのか?‥‥それは、私たちがなぜ神を信じようとするのか、ということと同じです。
 神を礼拝する理由は、私たちの側にあると言うよりも、神さまの側にあると言えます。神が神を礼拝するように私たちを招いておられる。だから私たちはそれにお応えして、礼拝する。私たちを滅びから救うために十字架にかかって下さったイエス・キリストが、私たちが神を信じるように招いておられるのです。


(2014年3月2日)



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