礼拝説教 2014年2月16日

「小事に忠実であれ」
 聖書 ルカによる福音書16章1〜13 (旧約 イザヤ書43:21)



1 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。
2 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』
3 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。
4 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』
5 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。
6 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』
7 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』
8 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。
9 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
10 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。
11 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。
12 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。
13 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」




難解なたとえ話?

 先週は、イエスさまのたとえ話の中でももっとも有名なたとえ話と言われる「放蕩息子の父」のたとえ話を読みました。本日は一転して、イエスさまのたとえ話の中でも最も理解が難しいと言われるたとえ話と、それに続いておっしゃっている教えの個所です。
 まずみなさんがここを読んでみられて、どのようにお感じになられたでしょうか。イエスさまが何を言っておられるのか、全く理解ができないというのが本音ではないでしょうか。たしかに何をおっしゃっているのか、わけが分かりません。まず8節までの、たとえ話のところです。ここに登場する管理人という人は、全くデタラメな人であり、無茶苦茶な不正をするのですが、最後に主人がこの管理人の「抜け目のないやり方を誉めた」と書かれています。ここで私たちは、頭が混乱しそうになります。
 次に9節で「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とおっしゃっておられますが、これはとてもイエスさまとは思えないような言葉に聞こえます。さらに、それらのことと、10節で言われている「ごく小さな事に忠実なものは、大きなことにも忠実である」ということと、いったいどういうつながりがあるというのか? つながりがあるようには思えません。それどころか、「小さな事に忠実」というお話しは不正な管理人とは全く反対のことを言われているように聞こえます。そして最後の13節「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」というお言葉は、その前の所のお話しといったいどういうつながりがあるのか、疑問がつきません‥‥。
 そういうわけで、今日の聖書個所は、一貫性のない、無茶苦茶な話しのようにも聞こえるのではないでしょうか。
 それで、この個所については、多くの聖書学者や牧師たちが、それぞれ違う意見を言っています。つまり理解に苦しんでいます。それらの意見とは、例えば「この個所は全部つながったお話しではなく、8節の途中で区切れる別々の話しなのだ」という説があります。あるいは、「後半もそれぞれ異なる幾つもの格言が羅列されているのだ」‥‥といったような考え方があります。私も、以前はそのように考えておりました。しかし今回あらためてこの個所を黙想してみて、主から示されました。やはりイエスさまは、今日の個所を一つの一貫した話しとして語っておられるのです。そしてその結論は、最後の13節の「あなたがたは、神と富と(の両方に)仕えることはできない」というところにあります。

たとえ話の中身

 まず前半の、たとえ話の中身に入りましょう。すると1節に書かれているように、イエスさまは「弟子たちに」語られたのです。前回までのたとえ話は、ファリサイ派と律法学者に対してお話しになっています。それに対して今回は、イエスさまの弟子たちに向かって語られている。ここをまず押さえなくてはなりません。弟子というのは、イエスさまを信じた人、従って行こうとする人たちのことです。
 そしてたとえ話ですが、たいていのたとえ話と同じように、この中に登場する「主人」も神さまのことであると考えてよいでしょう。そして、財産の管理を任せている管理人がむだ遣いをしているという告発を耳にしました。それで主人は彼に、会計報告の提出を求め、「もう管理を任せておくわけにはいかない」と言います。そこで管理人は困ります。どうやらむだ遣いをしていたのは本当だったようです。管理人をクビになると、土方をするか物乞いをして生きるしか道はない。そこで彼は、一計を案じます。それは、主人に借りのある人たちを呼んで、負債の証文を書き換えるということでした。それはまさに背任罪に相当するような行為です。そうすることによって、彼は、自分を迎えてくれる人を作ろうとしたのです。
 主人に対して油百バトスの借りのある人には、その証文を半分の50バトスに書き換えさせる。ちなみに油百バトスというのは、2300リットルに相当します。この油というのはオリーブ油のことです。18リットルの灯油のポリタンクで言えば128個分です。たいへんな量です。それを半分にまけて、証文を書き換えさせる。今日で言えば数百万円分になるでしょう。さらに、小麦百コロスの借りのある人に対しては、80コロスに負けて証文を書き換えさせる。小麦百コロスというのは、計算すると23000リットルということになります。一般的なドラム缶で115個分です。これも数百万円ごまかしたことになります。
 このようにしてこの管理人は、主人のものを勝手に書き換えたのです。主人に対して負債のあった人たちは、喜んだことでしょう。そしてこの管理人がさらに抜け目ないのは、負債の証文を、主人に借りのある人たち自身の手で書き換えさせていることです。こうして、負債のあった人たちは、証文を偽造してだますという詐欺の片棒を担がされているのです。つまり管理人の背任行為の共犯者となってしまうというわけです。ですから、管理人の言うことを聞かざるを得なくなる。管理人が、「俺を迎えてくれないと、ばらすぞ!」と脅せるようにです。‥‥本当に、なんと抜け目のない管理人でしょう!
 ところがこの主人は、この管理人の抜け目のないやり方を「ほめた」と書かれているのですから、最初にも申し上げたように、私たちはわけが分からなくなります。なぜ主人は、誉めたのか? いかにもおかしな話しです。
 しかし私たちは、これが「たとえ話」であることを思い出さなければなりません。いつも申し上げているように、イエスさまのたとえ話は、「おや、おかしいぞ?」というところがあるのです。そしてその、おかしな点に神さまの恵みが表されている。そしてたとえ話というものは、たとえ話の中のすべてが何かをたとえているわけではありません。ある一つのことを言うためにたとえているのです。

神に対する負債の赦し、罪の赦し

 その一つのこととは何か? それは、この管理人が負債を負けたのは、自分のものをまけたのではなく、主人のものをまけたという点にあります。主人に対して借りのある人の借り、負債を負けた。
 これは何を表しているでしょうか。最初に申し上げたように、たとえ話の中に出てくる「主人」とは神さまのことです。そして主人に対して借りのある人の「借り」というのは、負債であり、負い目のことです。罪と言っても良いでしょう。すなわち、神さまに対して負債がある、言い換えれば罪があるということです。
 私たち人間の罪も、神さまに対する罪です。負債です。それをこの管理人は、返済することのできない分を免除したのです。神さまに対する罪を赦したのです。そのことを主人である神さまが誉めたということです。
 この世の中では、実際にこんなことをしたら、主人から背任罪で訴えられて、牢屋に入ることになるでしょう。しかし神さまにとっては、管理人である弟子たち、言い換えれば教会には、罪を赦す権能を委ねておられるはずです。イエス・キリストを信じることによって、罪の赦しを与える。その努めに当たるのが教会です。そのことが、このたとえ話で強調されています。

人々を救うために

 9節で「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とイエスさまはおっしゃっています。この場合の「不正にまみれた富」というのは、「不正をしてでも友達を作りなさい」という意味ではありません。「不正にまみれた富」と訳されていますが、直訳すると「正しくない富」という意味です。これまでも12章のところで出てきましたように、イエスさまは、この地上に富を積むのではなく「尽きることのない富を天に積みなさい」(12:33)と教えておられます。
 すなわち、ここで「正しくない富」というのは、地上に富を積むことだと言えます。この世に財産を集めようとする。すなわち、「不正にまみれた富で友達を作りなさい」というのは、この地上の富を、信仰の友を得るために、すなわち人々の救いのために用いなさい、ということになるでしょう。

小事に忠実な者は大事にも忠実

 そして主は言われました。「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」たしかにその通りです。
 内村鑑三は札幌農学校時代に、「青年よ、大志を抱け」の言葉で有名なクラーク先生の感化を受け、洗礼を受けました。そして彼は20代でアメリカに留学するために渡米しました。アメリカは、内村にとって、クラーク先生の母国であり、またキリスト教の国ということで、期待に胸を弾ませていきました。しかしその国は、内村の期待とはまったく反対で、人種差別がなされ、わずかのサービスにもチップを要求したり、スリや盗みが横行しているのを見て、失望しました。彼は、渡米してすぐに、ペンシルバニア州の知恵遅れの子どもたちの施設で働きましたが、日本人である内村は「ジャップ」と呼ばれて差別され軽蔑されたそうです。それにもかかわらず彼は、そこのアメリカ人があまりやりたがらない仕事をいっしょうけんめいしました。彼は、子どもたちのお漏らしのあとや、食べ物をこぼしたあとの床を、黙々とふいて掃除をしました。しかし、実はこの内村の姿、軽蔑され、ジャップといわれて差別されながらも、皆がやりたがらない仕事を黙々といっしょうけんめいおこなう姿に、施設の人々は非常な感銘を受けたのでした。しかしそのことは、だれも知ることではありませんでした。
 そのことが分かったのは、それから40年もたってのことでした。40年後に、内村の弟子が、アメリカの内村がかつて働いた施設に行きました。そこで弟子が目にしたものは、クリスマスの劇として、「カンゾー」という劇がおこなわれていたのです。それは、40年前、たった8ヶ月間しかその施設で働かなかった内村鑑三を題材にした劇だったのです。ストーリーは、まさに、「ジャップ、ジャップ」といってバカにされながら、黙々と便所掃除や子どもたちのしもの世話をいっしょうけんめいにする内村を描いたものだったのです。
 内村は、たった8ヶ月間しかその知恵遅れの子どもたちの施設で働きませんでした。しかも、彼はアルバイトとしていただけで、何か功績を残したわけでもありませんでした。しかし、そのキリスト者として、低くへりくだって、与えられた仕事をいっしょうけんめいする姿は、周りにいる多くの人々に感銘を与え、悔い改めへと導いたのです。
 小さな事に忠実な者は、神さまによって大きく用いられると言えます。

神と富の両方に仕えることはできない

 11節の「だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」というお言葉ですが、この「不正にまみれた富」というのは先ほど申し上げたように、この世の富のことです。この世の富について、神さまのために忠実に使うということです。そうすれば、神さまは本当に価値のあるものをお任せになるということです。
 「あなたがたは、神と富と(の両方)に仕えることはできない」。神を主人とするか、それとも富=お金を主人とするかのどちらかになると言われます。すなわち、お金のために神を使う、言い換えればお金のために神さまを利用するのか、それとも、神さまのためにお金を用いるのか、どちらかになると言われるのです。
 最初のたとえ話に出てくる管理人は、主人に対して負債のある人を、主人に代わって負債を軽くしました。私たちは、誰のものでしょうか。私たちの命は神さまから与えられたもの、私たちが毎日食べる物、着る物も、神さまが与えて下さった物のはずです。すべては神さまのものです。その神さまの御用のために、私たちが仕えていく。このことへと、イエスさまは私たちを招いておられます。


(2014年2月16日)



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