礼拝説教 2014年2月2日

「天の喜び」
 聖書 ルカによる福音書15章1〜10 (旧約 イザヤ書43:1)



25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。
26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。
29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、
30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。
31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。
32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。
33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
34 「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。
35 畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」




     2つのたとえ話

 本日は、イエスさまが2つのたとえ話を語っておられるという個所です。それは、「見失った羊」と「なくした銀貨」のたとえという見出しがついているものです。
 コトの発端は、イエスさまのところに徴税人や罪人が集まってきたことにあります。そしてイエスさまは、彼らと一緒に食事もした。そのことについて、例によってファリサイ派や律法学者が不平を言ったと書かれています。ファリサイ派は律法学者といった、ユダヤ教の厳格派は徴税人や罪人とは交際をしませんでした。徴税人というのは、ユダヤを支配しているローマ帝国の税金を徴収する人です。徴税人はそのように、ローマ人という異邦人、異教徒と交際しているので、穢れた者と見なされました。厳格派から見れば、異教徒は穢れているのであり、それと交際する徴税人も穢れていて、罪人と同じように見なされました。また「罪人」というのは、分かりやすく言えば世俗派のことで、戒律をちゃんと守らない、あるいは守れない人たちのことを指します。
 そして、ファリサイ派や律法学者ら厳格派は、そのような罪人たちと交際しない、関わりませんでした。ところがイエスさまは反対に、徴税人や罪人と関わっている。ファリサイ派や律法学者から見れば、「なんだイエスは!」ということになります。彼らはイエスさまと対立しているわけですから、また1つイエスさまを攻撃する材料ができたと思ったことでしょう。
 するとイエスさまがお話しなさったのが、今日のたとえ話です。イエスさまは、直接彼らの不平に、お答えになりません。その代わりにたとえ話をなさったのです。

     百匹の羊

 まず最初は「見失った羊」のたとえと書かれているものです。たいへん有名なたとえ話です。しかしわたしは、「見失った羊」とするよりも、「羊飼いの喜び」という見出しを付けたほうが良いと思います。なぜなら、そこに焦点が当てられているように思えるからです。
 お話はたいへん分かりやすいものです。あなたがたの中で、百匹の羊を持っている人がいたとするというお話しです。そのうちの1匹を見失った。知らないうちに、一匹がどこかに行ってしまったようです。イエスさまはおっしゃいます。「99匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」。
 どうでしょう。「はい、たしかに見つかるまで捜し回ります」と私たちは答えるでしょうか?‥‥だいたい、野原に残しておいた99匹はどうするんだろう? そちらもいなくなってしまうかもしれない。あるいは、野獣や泥棒に襲われるかもしれない。また、ある程度は捜すかもしれませんが、「見つかるまで」というのはどうかなあ?と思わないでしょうか。ところがこの羊飼いは、見つかるまで捜し回るんです。この辺から、だんだんちょっと変なたとえ話だなあ‥‥と思えてくることでしょう。そしてついにその1匹を見つける。そうすると彼は、その羊を喜んで肩に担ぐんですね。羊って、体重が何キロあるのか知りませんが、私が動物園などで見かけた羊は、とても私には担げそうもありませんでした。ところが彼は喜んで肩に担いで帰ってくる。
 そればかりではありません。帰ってくると、友だちや近所の人を呼び集めてくるのです。友だちや近所の人たちは、何事かと思ったでしょう。彼は言います。「見失った羊を見つけたので、いっしょに喜んで下さい」。‥‥ずいぶん大げさに喜ぶなあ、という印象を受けないでしょうか。ちょっとおかしな羊飼いに見えてきます。喜びすぎでしょ、と思えます。
 さて、このたとえ話の羊飼いは、誰のことを指しているのか、ということです。それは神さまのことであることが分かります。7節でイエスさまが言っておられます。「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」。
 この大げさなまでに喜んでいる羊飼いの姿。私たちには大げさのように見えます。しかし、神さまはそれぐらい喜んでいるというのです。一人の罪人が悔い改めたならば、それぐらいの喜びが天にあるのだ、と。人間には大げさに見えるほどの喜びが。「悔い改める」という言葉は、心を変えるとか、人生における考え方の根本を変えるという意味があります。あるいは、立ち帰るという意味があります。このたとえ話では、羊が立ち帰ったのではなく、羊飼いが羊を捜しに来ました。つまり、羊飼いに焦点を当てています。主役は羊飼いです。羊は受け身です。捜しに来た羊飼いの肩に担がれる。それが悔い改めです。羊飼いにゆだねています。

     なくした銀貨のたとえ

 次に「なくした銀貨のたとえ」です。こちらも実は銀貨が問題なのではなくて、銀貨を持っている女に焦点を当ててみるべきです。ドラクメ銀貨を10枚持っている女の人がいた。ドラクメ銀貨というのは、ギリシャの銀貨で、1デナリオンと等価であると聖書の後ろについている度量衡の表に書かれています。1デナリオンというのは、当時の労働者の一日の賃金であるということですから、今の日本円に換算していくらぐらいになるか難しいところですが、五千円ほどになるでしょうか。その1枚をなくしたのですから、それはたしかに捜します。私でしたら、百円無くしても捜します。
 問題は見つけたあとです。彼女は1ドラクメ銀貨を見つけると、これまた大喜びします。やはり友だちや近所の人を呼び集めて、「無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んで下さい」と言うだろうというのです。
 いかがでしょうか。みなさんだったらそんなことしますか?‥‥私だったらそこまでして喜びません。たしかに見つかったのはうれしいに違いありませんが、友だちや近所の人を呼んできたりしません。だいたい、わざわざ友だちや近所の人を呼び集めたとしたら、呼ばれた方も、「なんだ、そんなことか」と思うでしょう。さらに、「せっかく来たんだから、何かごちそうしてくれるのか?」ということになるでしょう。実際に、呼び集めたのですから、ごちそうを出して宴会でもしたのかも知れません。すると、1ドラクメ以上の出費となってしまいます。これではいったい何のために見つけたのか、分からなくなってしまうでしょう。

     異常な喜び

 この2つのたとえ話は、いずれも主人公の異常なほどの喜びにポイントがあると言えます。それはだいぶ大げさに見えるほどの喜びです。しかしこれは、天の国のたとえです。一人の罪人が悔い改めた時に、私たちの常識を越える喜びがあるとおっしゃっているのです。天の御使いの間にそんなに大きな喜びがあるのだと。

     キリストを信じることの喜び

 ある女の人がいました。彼女は、いつも苦虫をかみつぶしたような顔をしていました。人の家のうわさが好きで、それを言いふらしたりしていました。しかし近所の人は、何か変なことを言われると嫌なので、表面的にはその人と普通につきあっていました。
 ところが、その人が人間関係のトラブルで、苦しむという出来事が起こりました。そんなときに、あるクリスチャンに誘われてキリスト教の映画を見ました。それで教会へ通うようになったのです。やがて彼女はイエスさまを信じ、洗礼を受けてクリスチャンとなりました。
 わたしが久しぶりにその人に会った時、まるで別人のようになっていました。あの苦虫をかみつぶしたような顔は、柔和で平安な顔に変わっていました。そして彼女は言いました。「イエスさまを信じるようになって、うれしい」と。これはまさに奇跡でした。 一人の人間がイエスさまを信じて、こんなにも変えられるということが。奇跡です。私は、天において御使いたちの間に大きな喜びがあるということが、ちょっと分かりました。天国において、神さまと、イエスさまと、天使たちの間にどんなに大きな喜びが、私たちの常識を越えるほどの、大げさとも言えるほどの喜びがあったのか、少しだけ分かったように思いました。

罪人とは誰のことか?

 さて、罪人が悔い改めると、悔い改める必要の無い99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある(7節)とおっしゃっていますが、私たちは見失った1匹の羊でしょうか、それとも99匹の羊のほうでしょうか?‥‥言い換えれば、私たち一人一人も悔い改める必要があるのか、それとも悔い改める必要の無い正しい人なのか、ということです。
 私たちプロテスタント教会のルーツである、マルチン・ルターが宗教改革を開始したのは、1517年に「95箇条の提題」というものを張り出したことによります。その第1条は次のようになっています。‥‥「わたしたちの主であるイエス・キリストが『悔い改めよ』と言われた時、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。」
 すなわち、私たちは、「悔い改めの必要のない99人の正しい人」ではありません。私たちもまた悔い改めが必要な、迷い出た1ぴきの羊であるということです。私たちは、神さまから離れやすいのです。神さまのことを忘れやすい。その心の向きを神さまのほうに向けることが悔い改めです。そのとき、たとえ話を語られたイエスさまの言葉が私たちにとっても真実となります。10節「このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」私たちが悔い改めれば、そんなにも大きな喜びが天にあるということです。私たちは、自分自身が悔い改め、また身近な人々が悔い改めて神を信じるようになるように、祈る者でありたいと思います。


(2014年2月2日)



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