礼拝説教 2014年1月19日

「招かれた人」
 聖書 ルカによる福音書14章15〜24 (旧約 サムエル記上2:7〜8)

15 食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。
16 そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、
17 宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。
18 すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。
19 ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。
20 また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。
21 僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』
22 やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、
23 主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。
24 言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」




     神の国のたとえ

 引き続き、安息日の食事の席での出来事です。あるファリサイ派の議員の家に招待されたイエスさまは、その食事の席についておられました。先週はその席で、「へりくだる」ということについてイエスさまがお話しなさったのでした。そのお話しを聞いたある人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったことから始まります。神の国で食事をする。‥‥永遠の天の国で、主と共に食卓につく。たしかに幸せなことです。これ以上幸せなことはないと言っていいでしょう。
 しかし、問題は、誰でも死んだあと自動的に神の国に行くのではないということです。創世記の最初に書かれているように、人間は神に背いて罪を犯しました。自ら、命の源である神に背を向けたのです。そして命を失いました。苦労して人生を歩み、そして死ぬことになったのです。その人間を救うために、神はイエスさまをお遣わしになりました。もちろん、イエスさまがそのためにお出でになったということは、この席にいる人は誰も分かっていないわけです。
 そのままでは誰も救われない。神の国の食事の席にあずかれない。それで、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」というこの人の言葉は、たしかにその通りであるということになります。
 しかしそこでイエスさまが、またたとえをお話しになりました。それがこの「盛大な宴会」のたとえです。
 「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き」と語り始められています。「ある人」というのは、神さまのことをたとえています。つまり、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った人に答えて、イエスさまは、神の国の食卓にあずかることのできる人は、どういう人か、というお話をなさったのです。そういうことで、このたとえ話を見てまいりましょう。
 「ある人が」というのは神さまのことをたとえています。「盛大な宴会」を催そうとしました。「盛大な」という言葉は、ギリシャ語で「メガ」という言葉になっています。メガは、メガトン級、メガバイトの「メガ」です。メガトン級の宴会と言えば、ものすごく盛大な宴会というイメージが湧きます。当時の宴会というものは、あらかじめ招待する人に声をかけておき、当日になって呼びに行くというのが普通だったようです。この宴会も同じのようです。あらかじめ多くの人を招待していて、当日になってしもべを遣わして招待者を呼びに行かせました。ですから、すでにごちそうの準備がしてあり、準備万端整って、召し追懐に呼びに行かせました。

     異常な展開

 ところがここからおかしなことになっていきます。招待しておいた人たちが、次々に断ったというのです。「畑を買ったから見に行かなければならない」、「牛を買ったので調べに行かなくてはならない」、「妻を迎えたばかりなので行くことができない」‥‥そのようにして皆断ったというのです。ちょっとあり得ないような話しです。メガトン級の宴会ですから、大勢の人が招かれていたはずです。誰も彼もがそのようにして断ったという。あり得ません。
 しかし前にも申し上げましたように、イエスさまのたとえ話には必ずと言っていいほど、「おや、おかしいぞ?」という点があります。きょうの所で言えば、まずここがおかしいと言えます。例えば、「家族が亡くなったから」というのなら分かります。しかし、「畑を買ったから」とか「牛を買ったから」とか、「妻を迎えたばかりなので」というのは、人を馬鹿にしたような理由です。なぜなら、前もってこの日は宴会に招かれているわけです。しかも「出席」の返事をしているわけです。それなのに当日になって、そのような理由で断るとは、失礼にもほどがあります。
 これは要するに、この人たちにとっては、大宴会に招かれたことなど二の次、三の次の予定だということです。また自分を招いてくれた宴会の主催者も、この人たちにとってはたいして大事な人ではないということになるでしょう。
 さて、すると今度は宴会の主催者である主人が異常な行動をとります。招待しておいた人たちが誰も来ないと知ると、腹を立てます。そして、しもべに命じます。「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。」‥‥こんなおかしなことがあるでしょうか。主人の友人でもなければ知人でもない、全く関係のない人々を集めて来いというのです。招待していた人たちが来れないのなら、宴会を中止してもよいはずです。いや、普通なら腹を立てつつも、そうするより他にないでしょう。しかしこの家の主人は、関係ない人を引っ張ってきてでも、宴会をしようとする。
 さらにそれにとどまりません。まだ席が空いているという報告を受けた主人は、さらにしもべに言います。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」‥‥! いくらなんでも、やり過ぎではないかと思われます。もう誰でもよいというのです。とにかく無理にでも人々を連れて来てくれと言うのです。あり得ないことをする主人です。異常な行動という他はありません。
 しかしここで浮き彫りになってくることがあります。それは、この家の主人の目的です。それは、招待しておいた人たちと共に楽しく過ごそうというのが目的なのではなく、ともかく大宴会をすることが目的であるということです。なにが何でも大宴会を開きたいのだ、という主人の強い意志が、強烈なまでにクローズアップされます。

     神の国

 さて、イエスさまはこのたとえ話をなさいました。盛大な宴会は何をたとえているのかと言えば、「神の国」のことをたとえていると言えます。神の国、天国が、この盛大な宴会にたとえられているのです。宴会というのは喜ばしいものです。神の国の主人である神さまが、招待客と共に喜ぶという、喜ばしいたとえです。
 さて、それではこのお話しの「招かれていた人たち」というのは、誰のことを指すのでしょうか?
 一つには、ユダヤ人、すなわちイスラエルの民を指すと言うこともできます。イスラエルの民は、旧約聖書の神の民、神から選ばれたアブラハムの子孫です。旧約聖書はそのイスラエルの民を舞台に書かれています。しかしそのイスラエルの民が、イエスさまが来られたとき、拒絶し、十字架にかけてしまった。イエスさまが、神の国に招くために来られたとすれば、そのイエスさまを拒絶してしまいました。まさに、大宴会に招待されていた人々なのに、いざとなると「畑を買ったから」「牛を買ったから」「結婚したばかりだから」という、あり得ない理由で失礼にも断ったところにそれが現れています。‥‥約束通り、キリストを送られたのに、それを拒絶した。それはそれぐらいあり得ないことだというのです。
 では急きょ招かれた「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」とは誰のことを指すのでしょうか?
 これらの人々は、神の罰を受けた、あるいは神の祝福から漏れていると思われていた人々です。ヨハネによる福音書の9章に、生まれつき目の見えない人が、なぜ目が見えないかということについて、本人か、その両親が罪を犯したのだと人々が思っていたことが書かれていますが、そのように思われていたのです。それだけではなく、社会福祉の整っていない時代のことですから、体が不自由であるということは、働くことができない。だから物乞いをして生きるしかありませんでした。貧しかったのです。
 その人たち自身、どんなに苦しんだことでしょうか。貧しい、あるいは体が不自由である‥‥そのことによって、「自分たちは神から呪われているのではないか?神さまから見捨てられているのではないか?」と思って苦しんだことでしょう。その人々がまっ先に、連れて来いと言われている。それはあたかも、貧しかったこと、あるいは体が不自由であるということが、神が見捨てられたのではないのだということが強調されているかのようです。まず神さま御自身がその人たちをいたわろうとしておられることが伝わってきます。
 次に、まだ席があまっていると聞いた主人は、「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」としもべに言いつけました。だれかれ構わず連れてきて、とにかく宴会の席を満杯にしてくれと。
 これらはいずれも、予定していなかった人々です。まさに私たちのことです。私たちは神の民でもなかったし、神の国に入れていただける立派な人でもなかった。神の国に入るなんの資格もなかったのです。しかし、この家の主人である神さまが、とにかく家をいっぱいにしたいという強い意志をお持ちで、それゆえに神の国に引っ張られているということです。私たちはその神の恵みによって救われたのです。

     神の国を求める

 しかしここで考えてみなければなりません。それは、貧しい人、体の不自由な人、そして、通りや小道にいた無関係だった人々も、断ることもできるということです。無理にでも呼ばれても、「いや、私は宴会に行きたくありません」と答えたとしたら、そこまでです。ただ、貧しい人々は、ふだんごちそうなど食べたことがないでしょうから、盛大なこの宴会に招かれたら、たいていの人は「ぜひ行きたい!」と言うでしょうけれども。しかし、通りや小道を歩いていた人は、中には、「私はけっこうです」と答える人もいることでしょう。
 ここで言えることは、神の国は、求める人が入ることができるということです。求めない人についてはどうすることもできません。ごちそうも、満腹ならば食べたいとは思わないでしょう。それと同様に、神を求めない人に、いくら神さまの恵みを説いても、遠慮すると言われるだけでしょう。いずれにしろ、神の国には、神を求め救いを求める人が連れて来られるということです。

     招かれた人

 そう考えると、このたとえ話は、単に神の民であったイスラエルが退けられて、私たちが救われるという話しではないことが分かります。私たちは、「もうイエスさまを信じて洗礼も受けたのだから、それで良い」ということで終わってしまってはなりません。教会生活が長く続いて、信仰がマンネリ化してしまって、神さまを求めなくなってしまっているとしたら、このたとえ話の、宴会の招待を受けておきながら後になって断った人々と同じことになってしまうでしょう。そうすると主人が言うことでしょう。「あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」と。
 神を求め続けるものでありたいと思います。神の国に入れていただける資格は何も無いけれど、ただイエスさまの十字架によって神の国に招かれています。その招きに、日々応えていく者でありたいと思います。わたしは、もっと神さまのことを知りたいのです。もっと神の恵みを求めたい。神さまの新しい奇跡を見たいのです。皆さまと共に求めて行く者でありたいと願っています。


(2014年1月19日)



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