礼拝説教 2014年1月12日

「逆転の法則」
 聖書 ルカによる福音書14章7〜14 (旧約 箴言6:16〜19)

7 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。
8 「婚礼に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、
9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。
10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。
11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。
13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。
14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」




     上座と下座

 本日の個所は、前回の個所の続きです。ある安息日の礼拝後、イエスさまは、あるファリサイ派の議員の人から食事に招待され、その人の家に入られます。そしてそこで、水腫を患っている人を癒されたというのが前回でした。その席で、招待された人たちが「上席」を選ぶ様子をご覧になって、イエスさまが「たとえ」を語られたというのが今日の個所です。
 「婚宴に招待されたら、上席についてはならない」と言われ、理由を語っておられます。しかしここで語られていることは、イエスさまに言われるまでもなく、多くの人が分かりきっていることではないでしょうか。「上席」「末席」とこの聖書では訳していますが、要するに「上座」「下座」のことです。上座に座るべきものではない人が、うっかり上座に座ろうものなら、あとからもっと偉い人が来て、席を譲らなくてはならない羽目になる‥‥ということを実際に経験された方も、この中にいらっしゃるだろうと思います。
 私が前におりました町では、このような席順というものがけっこう守られる所でした。もちろん、教会ではあまりうるさくないのですが、教会外の世間のちょっとした集まりなどでは、上座下座の席が重要なことでした。ですから、会が始まる前に、お互いに「どうぞ奥へ」「いえいえ、どうぞどうぞ」と、上座を譲り合ってしまって、なかなか始まらないということもよく経験しました。ある会合に、うっかり遅れてしまって、会場に着いてみるとすでに末席はみな座られていて、空いているのは正副会長の隣の席、ということもありました。それで私は焦って、末席に座っている方に、「私がここに座りますから、どうぞあちらにお座りください」と言って下座を譲ってくれるようにお願いしたのですが、「いや、ワシはもうここにすわっとる。あんたこそあちらにどうぞ」と言われて、上座に座る羽目になった時には、本当に居心地が悪くて困ったものです。それからは、会議には早めに行って、下座に座るように心に固く決めたものです。
 ですから、今日のイエスさまのたとえ話は、イエスさまから言われるまでもなく、みな分かりきっていることのように聞こえるわけです。特にイエスさまは、「婚宴に招待されたら」と言っておられますが、今日の披露宴では、お互いに上座を譲り合ってなかなか宴が始まらない、ということのないように、最初から席の所に名札が置いてあってそこに座るように指定されているわけです。
 それに今日のイエスさまのお話しのようにおっしゃられますと、みな変な遠慮をしてしまって、だれも上座のほうに座らなくなってしまうではないか、などと思います。礼拝堂には上座も下座もありません。なのになぜか、礼拝堂でさえも、後ろのほうの席から埋まっていく。それはおかしなことです。

     信仰のたとえ

 問題は、果たしてイエスさまは、この地上の世界のマナーのことを言っておられるのだろうか?ということです。もしそうだとしたら、イエスさまに言われるまでもなく、ここに言われていることは分かりきったことです。むしろ、今申し上げたように、余計なことをおっしゃるから、変に誤解されるのだと言いたくなる。しかしイエスさまが、そんなことを言いたいのだとは思えません。そもそも初めの7節に「彼らにたとえを話された」と言われているのです。つまり、これは「たとえ」なのです。イエスさまのたとえ話というのは、何度も申し上げているように、神さまのことを、この地上のものにたとえてお話になっているのです。
 そしてここでは何をたとえるためにこのお話をなさったのかと言えば、11節で結論がイエスさまご自身によって言われています。「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。神さまの前では、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められるのです。この点で見る時、12節からのもう一つ語られているたとえ話も、同じことを言っていると言えるでしょう。へりくだるということは、見返りを求めないということでもあるのです。

     高慢と謙遜

 高ぶる者とは何でしょう? 「高ぶる者」を直訳すると「自分自身を高くする者」という言葉になります。つまり、自分で自分を高くするのです。もちろん、それは見かけのことではありません。神さまは、人間の心を見られるからです。いくら見せかけが謙遜で自分を低くしているようでも、心の中が高慢であったらそれは高慢なのです。
 例えば、「私はあの人よりマシだ」と言う。これは他人を見下しているわけですから、高慢です。自分で自分を高くしている。あるいは「自分はもっと人から賞賛されるべき人間だ」「もっと人からほめたたえられたい」‥‥。
 しかし信仰の世界では、ほめたたえられるべきなのは自分ではありません。人間ではありません。主なる神さまがほめたたえられなくてはなりません。しかし人間というもの、この高ぶり、高慢というものからなかなか抜けられないものです。
 ところが、高ぶる、すなわち高慢とは、聖書では最大の罪なのです。先ほど、箴言6:16〜19を読んでいただきました。「主の憎まれるものが六つある。心からいとわれるものが七つある。驕り高ぶる目‥‥」と記されています。そこで一番最初にしるされているものが「おごり高ぶる目」です。「目は口ほどに物を言う」と言います。目は心を反映しています。相手の目を見れば、だいたいその人が高ぶっているのかどうかが分かります。おごり高ぶる目。それは主が憎まれるものであり、心から厭われるものだと聖書は言っています。
 そもそも、人間が命を失い、エデンの園から追放されたのはなぜだったでしょうか。創世記の3章です。エデンの園には、豊かな実を実らせる木がたくさん生えていましたが、そのなかの「善悪の知識の木」からは決して取って食べてはならない、食べると死んでしまうと命じられました。しかしある日、蛇に扮するサタンは、エバをそそのかして言いました。「決して死ぬことはありませんよ。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る者となることを神はご存じなのだ」(創世記3:4〜5)。
 サタンは人間の心の中にある、高慢の目をくすぐりました。「神のようになれる」。この驚くべき高慢をくすぶる言葉に、人間は乗せられてしまったのです。そうして神に背きました。罪を犯したのです。これが原罪です。そうして人間は命を失い、楽園を追放されました。苦しんで生きることとなりました。
 高慢の反対が謙遜です。謙遜とは、このたとえ話では「へりくだる」ということであり、自分を低くするということです。高慢によって人間はエデンの園を追放され、命を失い、喜びを失い、苦しんで生きる者となってしまいました。ですから、謙遜は、エデンの園の祝福を取り戻し、神の命を取り戻す道であると言えます。

     謙遜について

 大和カルバリーチャペルの大川牧師は、次のよう日本の中で書いておられます。「人は神に用いられるとき、必ずプライドを砕かれます。この法則を知らない人は用いられません。神に用いられる人で、プライドが砕かれる経験のなかった人は一人もいないのです。パウロは後で偉大な神の働きをしましたが、肉体のとげを持っていました。それはパウロが高ぶらないために必要であったのです」(大川従道、『現代における聖霊行伝〜千名礼拝うらおもて』、マルコーシュ・パブリケーション、1995年、p.96)。
 使徒パウロは、新約聖書に収められている27文書のうち、13の文書を書いた人であり、「異邦人の使徒」と呼ばれた世界宣教者で、多くの奇跡を行いました。人間とは高ぶりやすい者です。自分を通して神の奇跡が現れ、自分が福音を宣べ伝えると次々と人がキリストを信じるようになる。そうすると、いつの間にか高ぶってしまって、「自分は大した者だ」と思いやすいのです。それで主は、パウロが高慢にならないように、何か書かれていないので分かりませんが、ある病気をお与えになりました。それが肉体のとげです。(Uコリント12:7)「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです」とパウロは語っています。
 また、前にもご紹介した、私が最も衝撃を受け、心から敬服した本である、アンドリュー・マーレーの『謙遜』の中で、マーレー先生は次のように書いています。「私が今までの信仰経験を振り返るとき、あるいはこの世にあるキリストの教会を見るとき、イエスの弟子として明白に認められる特質としての謙遜が求められていることがいかに少ないかを知って驚きあきれる。」キリスト教会の中でさえ、最もたいせつな徳目である謙遜ということが説かれることがいかに少ないかということを指摘しています。
 またこのようなことも書いています。「謙遜への神の招きは、教会において、あまりにも軽視されています。それは、その本当の性質と重要性がほとんど理解されていないからなのです。それは、私たちが神のみもとに携えて行くあるものではありません。あるいはまた、神が私たちにお授けになるあるものでもないのです。それは、単に、私たちが全く取るに足らない者であるとの意識です。それは、神がすべてのすべてであられることを私たちが悟ったときもたらされるのです。」(アンドリュー・マーレー著、松代幸太郎訳、『謙遜』1976年版、p.11)
 私自身、謙遜ということを知らなかった時には、神さまの御業(みわざ)を見ることもあまりできませんでした。

     神の恵みを見るためには?

 私たちが神さまの恵みを見るには、そして喜びの中に生きるには、自分を低くしなければなりません。その謙遜とは、イエスさまにおいて見られるものです。
(フィリピ2:6-9)「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」
 十字架の低さまで低くなられたからこそ、イエスさまは復活され、高く上げられたと書かれています。私たちは、自らを低くしなければ、神の奇跡を見ることはできません。高慢になると、神の恵みが見えなくなるのです。
 逆に自分を低くすると、感謝ということが分かってきます。
 私が北陸にいる時にいろいろ教えられた、隠退教師の井上良彦先生の書かれた本に、次のような話が載っておりました。‥‥“ある母親と子どもがおりました。夜子どもが寝る時に、親子で一緒にお祈りをして寝る、そういう習慣がありました。ある日その子どもが「お母さん、今日はお祈りすることない」。そうするとこの賢いお母さんは、「そう、それじゃあね、神さまにいろいろ御礼を言って休みましょう。」そこで子どもは素直に御礼を言い始めました。「神さま、今日は誰々ちゃんと遊ぶことができてありがとうございました。今日は美味しいごちそうがあってありがとうございました。暖かい着る物があってありがとうございました。幼稚園に行ってお絵かきをしました。うまく描けた。ありがとうございました」、そんなふうにいろいろなことを言いだした。そうすると小さい子どもですけれども、もういくつもいくつも出てくるんです。そのうちその子どもは声をあげて、「お母さん、神さまって素晴らしいね」って。”
 「神さま、なぜなにもしてくれないのか!」ではなく、当たり前のようなことを一つ一つ感謝する。それも自分を低くすることであると思います。そうすると神さまの恵みが見えてくるんです。その根底には、イエスさまの十字架があります。「こんな私のような者のために、キリストが命を捨ててくださった」のです。「こんな私のような者のために」というところが大切です。感謝しかありません。


(2014年1月12日)



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