礼拝説教 2014年1月5日

「イエスの手」
 聖書 ルカによる福音書14章1〜6 (旧約 サムエル記下22:17)

1 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。
2 そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。
3 そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」
4 彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。
5 そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」
6 彼らは、これに対して答えることができなかった。



安息日の癒し

 「安息日のことだった」と書かれています。今日の教会のように、ユダヤ教の会堂でも午前中に安息日の礼拝が行われ、それが終わった後のことです。イエスさまは、食事のために「ファリサイ派のある議員」の家にお入りになりました。「ファリサイ派の議員」というのは、「会堂長」のことかもしれません。会堂で行われる礼拝の説教者を食事に招待するということはよくあったことのようです。ですから、イエスさまも会堂の礼拝で、聖書朗読と説教を頼まれ、そのあとファリサイ派の議員から昼食に招待されたのでしょう。
 ファリサイ派というのは何度も出てきましたが、当時の民衆の宗教指導者です。旧約聖書のモーセの律法(神の掟)を守ることについて人々に指導していました。そしてイエスさまと対立しているのもこの人たちでした。特に安息日の守り方について、イエスさまと対立していました。
 安息日は、旧約聖書の律法の代表である十戒の中に定められています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(出エジプト記20:8)。そして安息日には、何の仕事もしてはならず、休まなくてはならないと定められています。そしてファリサイ派にとっては、病気を癒すということも、治療するという仕事を行うことになるから安息日にはしてはいけないのでした。それは神に背くことだと見なされました。もちろん、イエスさまの場合は、薬を塗ったり手術をしたりという形で病気を癒すのではなく、おどろくべき神の奇跡によって癒されるのでしたが、それすらも彼らの目には、治療をしたという仕事として見なされるのでした。

どう違う?

 今日の出来事も、今までも何度か出てきたような、イエスさまが安息日に人を癒されたことについての意見の相違があります。「何か全く同じような出来事がちょっと前にもあったな」と思われた方も多いと思いますが、その通りで、この前の章である13章10〜17では、やはり安息日に会堂で、イエスさまが18年間も病の霊に取りつかれて苦しんでいた女性を癒されるということがありました。それに対して会堂長が、苦情を述べたということがありました。また6章6〜11では、安息日に、イエスさまが手の萎えた人の手を癒されました。
 いずれも安息日にイエスさまが癒しをなされ、そしてそれが安息日にしても良いことなのかどうかということをめぐって問題となっています。いったいなぜ同じような話しが、この貴重な福音書のページを割いて書き記されているのでしょうか? それぞれどこが違っているのでしょうか?
 まずそれぞれの病気や障害が違っています。その他に、イエスさまがファリサイ派や会堂長に行った言葉を比較しますと次のようになります。6章の手の萎えたの癒しでは、律法学者とファリサイ派の人々に対して、「安息日に許されていることは善を行うことか、悪を行うことか」と問いました。
 13章の18年間も病の霊に取りつかれて腰が曲がったままの女性の時は、「あなたたちはだれでも、安息日にも羊やロバを解いて水を飲ませに行くではないか」と言われました。
 そして今日の個所では、「安息日に病気を治すことは律法で許されているかいないか」と、神の掟である律法に照らして許されているかいないかと、もうこれはストレートに問うておられます。そして、自分の息子や牛が井戸に落ちたら、安息日でも引きあげてやるだろうと言って、安息日にこのように病気を癒すことは当たり前であることをおっしゃっています。
 こうしてみると、いずれも安息日が喜びの日、素晴らしい日になったということが分かります。そしてイエスさまの病気の癒しは、もちろん神さまの奇跡ですから、神が定めた安息日に神が奇跡で人を癒されたのであり、それは神がなさったのだから善いに決まっているということです。すると、安息日の出来事の繰り返しは、人間の本当の安息は、神さまのところにあり、イエスさまのおられる所に本当の安息があることを、強調していると言えるでしょう。

イエスの手

 本日の出来事は、招待されたところに「水腫」を患っている人がいたと書かれています。水腫というのは、皮膚の下、あるいは体の中に水がたまる病気を総称して言っているようです。この人は、このファリサイ派の人が、イエスさまが安息日に癒しをするかどうか試そうとしてここに呼んでいたのかもしれません。あるいは、イエスさまが弟子たちと一緒に連れてきたのかもしれません。どちらの考え方もあるようです。
 そしてファリサイ派の人たちが様子をうかがう中、イエスさまは「安息日に許されていることは善を行うことか、悪を行うことか」と言われました。これは詳しく言うと、イエスさまが「答えた」となっています。つまり、ファリサイ派たちの、イエスさまに対する無言の問いに対して答えておられるのです。
 そしてイエスさまは、水腫の人の手を取り、病気を癒してお返しになりました。それ以上この人を好奇の目にさらさないようにされたのだと思われます。
 さて、イエスさまはこの病気の人の手を取って病気を癒されました。そこで本日は、イエスさまの手に注目したいと思います。ルカによる福音書の中で、イエスさまの「手」がどのように使われているのかを順を追ってみたいと思います。
(4:41)"日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。"
(5:13)"イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。"‥‥この場合は、けがれた病であるとされて決して誰も触れることがない、また恐れられていた伝染病であったハンセン病の患者さんに対して、イエスさまはまず手を触れられ、そして癒しを宣言なさいました。そうして癒されました。
(7:14)"そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。"‥‥これはある貧しいやもめの一人息子が死んで、イエスさまはその葬送の列に近づかれ、棺桶に手を触れられたのです。そうしてこの若者は生き返りました。
(8:54)"イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。"‥‥これは会堂長ヤイロの一人娘が死んだ時のことです。
(9:47〜48)"イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」"
(13:13)"その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。"
(24:39)"「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」"‥‥これは、十字架で死なれたイエスさまが、よみがえられた日に、弟子たちの集まっているところに姿を表された時のことです。イエスさまは弟子たちに手を見せられました。その手はどうなっていたことでしょうか?‥‥十字架に張り付けにされた時の釘の痕が開いていたはずです。そしてその釘の痕は誰のために開いたのだったでしょうか?‥‥私たちを救うためです。
(24:50)"イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。"‥‥昇天の時。

 これらのイエスさまの手をご覧下さい。そこに共通しているものは何でしょうか? イエスさまの手は、どういう時に使われているでしょうか? 何のために使われているでしょうか? 一言で言えば、共通するのは、「愛の手」であるということです!イエスさまの手は、いつも愛のために使われています!
 一方、その他の登場人物はどうでしょうか? これもるかによる福音書で出てくる「手」という文字で探してみます。
(20:19)"そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。"
(22:21)"しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。"‥‥これは最後の晩餐の時のことです。
 この二つが出てきます。これらの手は、どういう手でしょうか?‥‥イエスさまを殺すための手です。自分たちのねたみのゆえに、そして欲望のために、イエスさまを殺すための手です。しかし、イエスさまの手は、愛するための手です。何という大きな違いでしょう。

愛するための手

 私が信徒になったかならないかの頃、時々出かけて行ったアメリカ人の宣教師の先生は、ある時このようにおっしゃいました。「手は愛するためにあります。」 手は愛するためにある。‥‥私はひどく感銘を受けました。それまで「愛し合いましょう」というような言葉は幾度となく聞いてきました。しかし「手は愛するためにあるのです」という言葉を聞いた時、「愛しなさい」という言葉よりも、より実感を持って伝わってきました。
 イエスさまの手は、愛するためにある。そして私たちの手も、愛するために作られたのです。自分の手は、盗むためにも、殺すためにも、だますためにも、人を傷つけるためにも使うことができます。しかし、私たちの手は、愛するために与えられている。神さまは、私たちが神を愛し、隣人を愛し、また自分を愛するために手を与えて下さいました。今、私の手は何のためにつかっているだろうか。そんなことを考えざるを得ません。
 イエスさまの手は、私たちを愛するための手です。そしてその手のひらには、私たちを救うために十字架につけられた時に開いた釘の穴の跡が開いています。そしてその手を私たちに差し出して、神のもとに来るように招いていてい下さいます。


(2014年1月5日)



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