礼拝説教 2013年12月15日

「狭い戸口」
 聖書 ルカによる福音書13章22〜30 (旧約 イザヤ書59:1〜2)

22 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。
23 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。
24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。
25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。
26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。
27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。
28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。
29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」



マンデラ氏の追悼式典

 先週10日に、12月5日に亡くなった南アフリカ共和国の人種差別撤廃運動の指導者であり、大統領も務めたネルソン・マンデラ氏の追悼式典がおこなわれました。世界各国から首脳が参列しました。ところがその式典で、各国首脳の弔辞の手話通訳がデタラメであったことが話題となっています。どうやら手話などできない人が手話通訳をしたというのですから、信じられないような話しです。そのことに寄せて、ある牧師が Facebook というインターネットサイトで、次のようにコメントしていました。「マンデラ氏のお葬儀で手話通訳に立った人の通訳はデタラメであったと伝えられていまず。このことは人ごとではありません。み言葉の通り良き管とならせてください。」
 私はその通りだと思いました。私は説教を語るためにここに立っているわけですが、それは神の言葉である聖書を説き明かすことです。すなわち、自分な勝手な考えをここで語ってはならないわけで、聖書で神さまが言おうとなさっていることを聴き取り、その通りに語らなければなりません。それがその牧師の言うところの「良き管とならせてください」という言葉の意味です。襟を正されるような思いがいたしました。

救われる者は少ないのか

 さて、今日の聖書は、ある人が「主よ、救われるものは少ないのでしょうか?」とイエスさまに尋ねたことから始まっています。「救われる」というのはどういう意味かというと、28節のイエスさまの言葉から分かるように、神の国に入るということです。
 その問いに対して、イエスさまは直接、多いとか少ないとかはおっしゃっていません。その代わりに、「狭い戸口から入るように努めなさい」ということをおっしゃっています。これは何かはぐらかされたようなお答えに聞こえます。「救われるものは少ないのでしょうか?」と質問されたのに、それには直接答えない。そして「狭い戸口から入るように努めなさい」という言葉は、詳しく言うと「あなたがたは、狭い戸口から入るように努めなさい」という意味になります。
 「救われるものは少ないのでしょうか?」という質問は、多いか少ないかということを聞いているわけです。教会の牧師をしているというと、よく聞かれることは、「教会には何人ぐらい来られるんですか?」というような質問です。教会に来る人というのは、多いのか少ないのか、どれくらいなのか‥‥ということがやはり気になるのでしょう。やはり人間というものは、そこに行く人が多いと安心するというようなところがあるのだと思います。例えばラーメン屋さんの前に人が並んでいたりする。そうすると、並びたくなるというのが心理ではないでしょうか。多くの人が並んでいるから、きっとこの店は美味しいのだろうと思うわけです。スーパーでも、閑散としているスーパーより、人がごった返しているスーパーのほうが、安くて良い品物が置いてあるに違いないと思ったりします。だから人が多い方が安心感がある。
 他人の動向が気になるんですね。それに対してイエスさまは「あなたがたは」と、他人がどうのこうのではなく、あなた自身の問題であると語られているわけです。

狭い戸口

 「狭い戸口から入るように努めなさい」。これと似ている個所が、マタイによる福音書の山上の説教の中にもあります。そちらでは「狭い門から入りなさい」となっています。しかしこのルカ福音書のほうで「戸口」となっている単語も、「扉」とか「門」という意味もありますので、同じことです。すなわち、神の国への入口である扉のことを指して言っておられるのです。そして「努めなさい」という言葉は、競技する、一心に努力する、奮闘する‥‥という意味がある言葉です。
 そうするとイエスさまが続けて「言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」とおっしゃっていることと合わせて読むと、何か大学受験の「狭き門」というものを思い浮かべるの方が多いのではないでしょうか。多くの受験生が難関の大学合格を目指して、一心に努力奮闘するというように。しかし実力がないと「入ろうとしても入れない」。そのように受け取るでしょう。
 しかし実はここはそういう意味ではありません。「入ろうとしても入れない」というのは、倍率が高くて競争に負けては入れない、というのではないのです。ここは未来形になっておりまして、「入ろうとして求めることになるが、入れない」という未来のこととしておっしゃっておられるのです。すなわち、今、入ろうとするのではない。やがて、その時になって入ろうとする。でもその時では、入ることができない。そういう人が多いということになる。‥‥そういうことをおっしゃっているのです。
 なぜ、未来のその時になるとは入れなくなるのか?‥‥それは、その家の主人によって戸が閉められてしまうからだと、おっしゃいます。戸が閉められてしまうときが来る。だから、その時になって入ろうとしても、入れないのだというのです。
 このことを考えると、有名なノアの大洪水の物語を思い出します。創世記6章からのところです。‥‥主なる神は、人の悪が増し、神を信じず、悪いことばかりしているので地上から人間を一掃しようとなさいました。しかしただノアだけは主のあわれみを得て、巨大な方舟を作るように主から命じられました。ノアは主が命じられた通り、家族と共に陸上に大きな船を作り始めました。ほかの人々は、洪水が来ることなど誰も信じず、ノアを笑いものにしたことでしょう。そしてノアが方舟を完成させ、主が命じられた通り、家族と、そしてあらゆる動物と共に箱船に入ったとき、主が方舟の戸を閉められました。それから、40日間に渡って今まで無かったような大雨が降り、地上は水没してしまいました。‥‥
 ノアを笑いものにしていた人々は、大雨が降り続いて洪水が始まったとき、初めて事の深刻さを知ったことでしょう。そしてノアの箱舟に入りたいと思ったことでしょう。しかしその時はすでに神さまによって箱船の戸が閉められていました。
 今日のお話でも、家の戸がいつまでも開いているのではない。その家の主人が閉めるときが来る。このたとえ話では、家の主人は神さまということになるでしょう。神の国の扉は、いつまでも開いているのではないというのです。閉められる時が来るというのです。閉められてしまうと、入ろうとしても入ることができなくなるというのです。

狭い戸口とは?

 だから、イエスさまは「狭い戸口から入るように努めなさい」とおっしゃいます。狭い戸口とはなんでしょうか?‥‥なぜ「狭い」と言われているのでしょうか? あまりにも狭すぎて、このからだが入るかどうか分からないからでしょうか?
 ここでわざわざ「狭い戸口から入りなさい」と言われているということは、他にも扉があるということでしょう。そちらは広い、大きな扉なのです。そしてそちらがなぜ広い扉なのかと言えば、そちらから入る人が多いからだということになるでしょう。みんなそちらから入ろうとするのです。そのことを広い扉だとすれば、イエスさまが「狭い戸口」とおっしゃる時、それはあまり多くの人が入ろうとしないから、狭い戸口と言われていると言えるでしょう。
 私の初任地、W教会のことを思い出します。W市は人口3万人ほどの町でしたが、お寺、とりわけ浄土真宗のお寺は市内にたくさんありました。しかもみな境内地は広いし、建物も立派でした。また大きな神社が2つありました。お葬式は寺でなされ、多くの人が集います。また、厄年になると男性は1年間、仕事もそっちのけで神社に詰めて、年に何度もあるお祭りの責任を持ちます。
 そういう町の中で、W教会は、狭い境内地に建つ古びた小さな建物で、付近の民家のほうが立派な建物であるほどでした。まさしく見栄えのしない、頼りになりそうもない、ここで言うところの狭い戸口そのものです。教会に集う人もわずかです。一方でお寺や神社には多くの人々が出入りする。そういう教会におりました時、この世の目で見れば、W教会というものは消えてなくなりそうに見えました。しかし消えてなくならなかった。それはなぜか。それは、そこにまさしくイエス・キリストがおられたからです。
 その時のことを考えると、今日の聖書でイエスさまが言っておられる「狭い戸口」というのは、まさにイエス・キリストその方のことであると思います。この聖書のイエスさまがお話になっている時も、やはりイエスさまという方は狭い戸口であったに違いありません。確かにイエスさまの回りには、多くの群衆が集まっていました。病気を癒してもらいに大勢の人が来ました。イエスさまの教えに耳を傾けていました。しかし、イエスさまが十字架にかけられた時は違いました。多くの人がイエスさまを見捨てて去って行きました。そういう意味で、やはりイエスさまは狭い戸口でした。十字架という全く見栄えのしない、人々が呪う死刑台だったからです。
 しかしそれはまさに神の国の戸口となりました。扉です。十字架で命を捨てられたイエスさまが、神によってよみがえらされ、天に上って行き神の右の座に着かれた。神の国への道を開かれたのです。その、イエス・キリストという「狭い戸口」から入りなさいと、招いておられるのです。

私たちは

 今日もまた教会の礼拝に集う人々は、世の中から見たら多くありません。やはりそういう点でも狭い戸口です。しかし主イエスは、その「狭い戸口から入りなさい」と言われているのです。扉が閉められてしまう前に。
 私も若い頃は、人生は長い。ゆっくりすればよいと思ったものでした。しかし今になってみると、人生は短いと思います。私たちの人生は非常に短い。「いつか神を信じることをしよう」などと言っている間に終わってしまいます。その「いつか」という時がふたたび訪れるとは限りません。
 また、私たち教会に集っているものはどうか。もう狭い戸口から入ってしまったのだから、関係のない話しでしょうか。そうではありません。日々、狭い戸口から入ろうとする。あまり皆が見向きもしないこと、あるいは目に見えない方、聖霊と共におられるキリストと共に歩む。それが私たちにとっても狭い戸口であるとも言えるでしょう。私たちも、キリストを信じていると思っていながら、熱くもなく、冷たくもなく、キリストのさらにまさった恵みを知ることがないまま、人生を終わってしまうということになりかねません。
 狭い戸口から入ろうとする。さらにキリストの恵みを求めようとして歩みたいものです。「狭い戸口から入るように努めなさい」。はじめに申し上げたように、この「努めなさい」という言葉は、競技する、一心に努力する、奮闘する‥‥という意味の言葉です。これは励ましの言葉です。キリスト共に歩む、日々キリストにすがって、キリストに従って歩む。それは、多くの人が見向きもしない、狭い戸口かもしれません。しかしイエスさまは、そのようにして歩みなさいと、励ましておられます。


(2013年12月15日)



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