礼拝説教 2013年12月8日

「成長する神の国」
 聖書 ルカによる福音書13章18〜21 (旧約 創世記15:5〜6)

18 そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。
19 それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」
20 また言われた。「神の国を何にたとえようか。
21 パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」



森祐理さん病状

 11月23日に当教会でコンサートをしていただいた森祐理さんが、当教会でのコンサートのあと声が全く出なくなってしまったということは先週申し上げました。そして皆様にお祈りを呼びかけさせていただきました。そして、先週メールをいただきました。それによりますと、声が出なくなってから八日目にわずかに声が出始め、その後少しずつ話しもできるようになったそうです。しかし、大学病院で検査をした結果、左声帯に血腫が見つかったそうです。この状態で無理をすると、それがポリープとなってしまう恐れがあり、そうすると手術をしなければならなくなるそうです。それで当分の間は引き続き、何も声を出さないでいることになったそうです。そしてこのようにメールに書いておられました。
 「またこのような中にあっても、主の平安に包まれていますことは、驚くばかりの恵みだと存じます。どうぞ主の道具として、賛美の働きを継続することができますよう、続いてお祈り頂ければ感謝に存じます。」
 祐理さんがふたたび声を取り戻し、主を証しする器としてふたたび用いられるようになるように、祈り続けたいと思います。

二つのたとえ話

 本日は、イエスさまが二つのたとえ話をなさっています。「からし種のたとえ」と「パン種のたとえ」と呼ばれるものです。いずれも短いたとえ話です。そして、いずれも神の国をたとえています。そしてこの二つのたとえ話に共通しているのは、いずれも大きくなるということです。

からし種のたとえ

 まず、からし種のたとえ話のほうから見てまいりましょう。ここでは神の国が、からし種に似ているというのです。これはたいへんな驚きです。なぜなら、からし種というのは非常に小さな種だからです。ここでいわれているからしは、クロガラシと呼ばれる種類のからしだそうです。イスラエルのみやげ物のからし種を見ると、だいたいゴマの半分くらいの大きさしかありません。
 神の国がそんなに小さなものに似ているというのですから、これを驚かないでいられるでしょうか。だいたい神さまという方は、宇宙万物をお造りになった方です。宇宙といえば、あまりにも広大で果てもないほどです。それを造られたのが神さまです。その神さまの国が、吹けば飛ぶような芥子種に似ているとはいったいどういうことでしょうか?
 しかしここでは、その芥子種が成長して大きくなることに注目させています。「成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る」と。空の鳥に食べられる小さな種が、その空の鳥を宿すほどになる。実際、クロガラシは成長すると2〜3メートルになるのだそうです。そのように、小さな小さな種が、大きな木になる。その光景を思い浮かべさせておられると言えます。

その意味は

 さて、このたとえはいったい何を言わんとしているのでしょうか?
 まず、神の国とは、神さまを信じる者がいる国のことです。神の国ですから、神を信じない者はそこにはいません。まことの神を信じる者の国が神の国です。そして新約聖書は、イエスさまと共に神の国が来たことを教えています。そうすると、その神の国は、最初イエスさまの弟子たち、とくに12使徒から始まったと言えるでしょう。そして、イエスさま昇天後、ペンテコステの聖霊降臨の時120人の人々がいました。それが最初の教会でした。それから二千年。いま世界の人口は、約70億人いるそうです。私が子どもの頃は、20億人といっていましたから、急激に人口は増えています。そして、そのうちキリスト教徒の人口は約3分の1だそうです。すなわちだいたい23億人ということになります。たった12人で始まった神の国が、今や23億人です。確かに小さな小さな芥子種が、大きく成長しているのを知ることができます。
 私は牧師となっての最初の任地である能登半島のW教会で、このことを実感しました。W教会は、私が赴任したとき、礼拝出席者は平均10名でした。いちばん少ないときは5人でした。しかも街は人口がどんどん減っていました。都会に出て行ってしまうのです。しかも強力な仏教と神社が多く建っていました。ある人は、そのうちW教会は人がいなくなって閉鎖されるに違いないと言いました。確かに現実を見るとそのように予想できたでしょう。しかし、聖書はなんと言っているのかが私の関心事でした。すると聖書はどこを読んでも、教会が小さくなるとは書いていませんでした。むしろ今日の個所のように、吹けば飛ぶような芥子種が、大きく成長して木になるということが書かれています。ですから私は、聖書のほうを信じることにしました。信じられなくなるときは祈りました。結果は、聖書の言葉の方が真実であったことが分かりました。
 だから、日本の伝道も全く同じであると信じることができるのです。「日本ではキリスト教は増えない」という人がいます。しかしそれは人間の言葉です。聖書はそうは言っていません。聖書の言葉に希望があります。そのように、この芥子種のたとえは、キリストを信じる神の国が、わずかの数であったものが、多くの人々を養うほどに成長することを約束しています。神の国は、神を信じる者の国ですから、そのことを信じることによって、この言葉もまた真実となるのです。
 次に、神の国は私たち一人一人の心の中で小さい種から始まるということです。
 私自身にとって、最初は神の国というもの、聖書や信仰というものはつまらないものに見えました。そんなことはどうでもよいことのように思えました。しかし今や、神さまなしに、キリストなしに生きていくことができません。神さまが、この私のようなどうしようもない人間でも愛してくださり、必要なものを与えてくださり、助けて下さ瑠方であることを知りました。そしてイエスさまが、私の主人であることを知りました。これは、他の何物にも代えがたいことです。そのように、神の国は、私たち一人一人の心の中で成長し、木に鳥が巣を作るように、わたしたちを養い、住まわせてくれる者となることを約束しています。

パン種のたとえ

 次にパン種のたとえを見てみましょう。パン種というのは、前回パンを作ったときの小麦粉で練ったパン生地を取っておいたものです。当時は、今のようなドライイーストというような便利なものはありませんでしたから、小麦粉を発酵させるためにそのようにしたのです。ですから新しくパンを作るときに、そのパン種を小麦粉に混ぜて練る。祖すると発酵して生地が膨らむわけです。
 これも大きくなることにたとえています。しかし、先の芥子種と比べて明らかな違いがあります。それは、芥子種のほうは芥子種自身が成長して大きな木になるのですが、パン種のほうは新しい生地の中に溶け込んでしまって見えないということです。パン生地は確かにふくらみますが、パン種はその中に混ざっていて、パン種があることすら分かりません。しかし、パン種は確かに全体をふくらませます。
 毎週日曜日の夜、NHKの大河ドラマ「八重の桜」を楽しみに見ている方も多いことでしょう。先週の放送では、八重と徳富猪一郎らが見まもる中、新島襄がついに亡くなってしまいました。新島襄が同志社を日本最初の私立の大学にするために運動していて、その過労がたたったということでした。新島襄はキリストの伝道者として多くの教会の設立や、伝道者の養成に尽くしましたが、同時にドラマで描かれているように、教育を通して社会に貢献することを考えていました。今日の多くのキリスト教主義学校も同様です。それは、直接的にキリストを伝道する者ではないかもしれませんが、キリスト教精神に基づく教育によって、社会全体によい影響を及ぼそうとするものです。それは言わばパン種のように、見えない形で、社会に豊かな影響力を発揮しようとするものです。そしてそれは実際に、神さまによってそのように用いられていると思います。
 またもう一つご紹介したいのですが、本日は12月8日です。すなわち、太平洋戦争が始まった日です。今から72年前のこの日、日本海軍はハワイの真珠湾を攻撃し、アメリカとの戦争が始まりました。それは無謀で絶望的な戦争でした。日本軍が優勢であったのは最初だけで、アメリカの本格的な反攻が始まると、日本軍は一挙に劣勢に立たされました。そして、太平洋の島々で、多くの若い兵士たちが命を落としていきました。
 私の先輩に、大橋弘先生という隠退牧師がいます。ある時、先生の書かれた『夕あり朝あり』という本をいただきました。その中に、あるエピソードが書かれていました。それは田中静雄さんという人の話です。田中さんはかつて陸軍南方軍総司令部第7飛行師団の特攻隊員だったそうです。そして終戦後のジャワ島で捕虜収容所生活を経験し、焦土の東京へ戻りました。クリスチャンです。
 その田中さんが、大橋先生に次のようなお話を聞かせてくれたそうです。戦争中、南方のある島にいた時、アメリカ軍の総攻撃を前にして、田中さんの属する飛行師団が島から撤退することになったそうです。将校や兵士はみな飛行機に分乗できた。ところが田中さんの操縦する飛行機が満員で、看護婦の乗る余地がなかった。そこで看護婦を置いていこう、ということになったそうです。その時、茂木始という一等兵が、私は乗らなくてもいいから、ぜひ看護婦を乗せていってくれと頼んだそうです。そして茂木一等兵は残り、代わって看護婦を押し込めるようにして田中さんの操縦する飛行機は飛びました。そして、その後の茂木一等兵の消息は不明のままだということです。その南の島で亡くなったのでしょう。
 田中さんは涙を流し、何度も目に手をやりながらこの話をしたそうです。そして、「茂木さんはクリスチャンでした」と言ったそうです。これは全く知られていない出来事だと思います。一人の看護婦に代わって、砲弾の降り注ぐ島に残る‥‥。一人の看護婦に代わって、自分が死ぬ。それは世の中にとって、小さなことかも知れません。しかしこの無名の小さな出来事は、私たち一人一人の代わりに十字架で死んで下さったキリスト・イエスさまを証ししていないでしょうか。そして確かに神の愛を証ししていないでしょうか。この殺伐とした人間社会の中に、確かに神の愛の現れていることを証ししています。亡くなった一人の命は見えなくなりましたが、そこに表された神の愛が、この世の中に静かな影響を及ぼしているのに違いありません。

 これら二つのたとえ話は、いずれも人間の力によって大きくなるのではありません。芥子種では、芥子種自身の中に大きく成長する力がすでに宿っているのであり、パン種のほうは、パン種自身の中にすでにパン生地を大きくふくらませ豊かなパンにする力が隠されているということです。すなわち、神の国は、それ自身の中に大きくなる力が宿っているのです。わたしたちはそれを信じることが求められています。わたしたちが信じた時に、この逗子の町においても神の国は成長します。そして私たち自身の中で成長していきます。このことを信じたいと思います。


(2013年12月8日)



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