礼拝説教 2013年11月24日

「とりなす人」
 聖書 ルカによる福音書13章6〜9 (旧約 出エジプト32:1〜14)

6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。
7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。
9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」



森祐理さんコンサート

 昨日は、森祐理さんをお招きしてのチャペルコンサートをいたしました。とてもすばらしいコンサートとなりました。歌ももちろん良かったのですが、祐理さんのあかしがまたすばらしかったと思います。いや、そのように申し上げては祐理さんも不本意でしょう。すばらしいのは主なる神さまであり、イエスさまですから。そのすばらしい主を証ししておられました。「ああ、本当にこの人はイエスさまにすがっているなあ」とあらためて思わされました。
 コンサートの中でもおっしゃっていましたが、実は祐理さんは何年かぶりに風邪を引かれたそうです。それで声がうまく出なくなってしまったそうです。それですべてを主にゆだねて祈ったそうです。私たちも、コンサートが始まる前に祈りました。そしてコンサートでは、私たちには全く違和感なく、きれいな歌声で歌っておられました。そしてコンサートの中で祐理さんは、「これは奇跡です」とおっしゃいました。
 祈りに無駄ということは決してありません。そのことをあらためて知らされました。そして祐理さんは、「イエス・キリストを信じて、一度も後悔したことはありません」と断言されました。皆さんはいかがですか? イエスさまを信じて後悔したことはありますか? ‥‥私も自問自答してみました。「後悔したことはあったかな?」そして答えは、「確かに無かった」ということでした。感謝であります。

実の成らないいちじくのたとえ

 今日の聖書で、イエスさまは一つのたとえ話をなさっています。それは、「実の成らないイチジクのたとえ」と呼ばれているものです。最初に「そして」とありますように、前のところの続きと言いましょうか、前の個所のことの説明としてこのたとえ話を語られたということになるでしょう。前の所では、「悔い改める」ということの大切さを教えておられました。悔い改めなければ滅びるのだと言われました。そして今日のたとえ話をなさっておられます。
 お話しは、極めて分かりやすいものです。しかし問題は、このたとえ話が何をたとえているのか、何のことを言っているのか、ということです。そのことを考えながら、もう一度丁寧にこのたとえ話を見てみたいと思います。
 ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておいたということから始まっています。ぶどうはイスラエルでは多く栽培されていた農作物です。ぶどうは、まず生のまま食べるために、そして干しぶどうにして保存用の食べ物となりました。さらに、ぶどう酒を作りました。そのような多くの役に立つ作物がぶどうでした。そしてまたイスラエルのような、乾燥地にも適している作物でした。ということで、多くのぶどう園が存在していました。ですから、このお話しを聞いている人々は、容易にそのぶどう園の光景を思い浮かべることができたことでしょう。そのように、イエスさまは人々に身近な素材を使って、たとえ話をなさいます。
 そしてそのぶどう園に、いちじくの木を植えておいたと言います。ぶどう園にいちじくの木、というのは何か変な感じがしますが、決して変ではないそうです。というより、このようなことはよくあったそうです。この当時のイスラエルでは、ぶどうは棚を作ってそこに枝を這わせるのではなく、地面にそのまま這わせるということも多かったようです。それはイスラエルの多くが乾燥地であるということから、そのようなことが可能であったということです。また、地面に枝を這わせるばかりではなく、立木に枝を絡ませるということもしたそうです。その立木としていちじくの木が植えられるということがあったそうです。いちじくは、甘い実が成りますので、そういう楽しみもあって、一石二鳥というわけです。

切り倒せ

 さて、そのようにしてぶどう園の主人はぶどう園にいちじくの木を植えました。ところが、このいちじくの木が実を結ばない。3年も実を捜しに来ているのに葉ばかりが茂って、全然実を結びません。それでぶどう園の主人は、園丁に言いました。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
 これは道理です。いちじくの木が実を結ばなかったのなら、それはもはやいちじくの木の用をなしていません。この主人は、いちじくの実を食べるためにいちじくを植えたのであって、その実がならなかったのなら、その木はもはやいちじくではなくても、松の木でも柳の木でも同じことになってしまいます。だからさっさと切り倒して、別のいちじくの木を植えればよいわけです。何も悩むことはない。それだけの話しです。
 そもそも、このいちじくの木は、植えてから普通実を結ぶまで成長してからでも、もう3年も実をつけていないわけです。そしてもし仮に、来年実を結んだとしても、すぐに実を食べることができるわけではありません。旧約聖書のレビ記19章23〜25によれば、実が成りだしてから3年間は食べることができないと律法で決まっていました。そして、4年目には食べることができるかと言えば、実がなり始めて4年目の実は、「主への賛美の献げ物となる」(レビ記19:24)と律法に書かれています。ということで、実際に来年実がなり始めたとしても、自分が食べることができるようになるには、さらに4年先、つまり5年後になるわけです。
 だいたい、どういうわけか本当に実の成らないいちじくの木というのもあるそうです。ですから、このぶどう園の主人が「切り倒せ」と園丁に命じたのは、もっともな話であり、誰もがそう思うのです。と、ここまでは何の疑問もなく話が展開していきます。

予想外の展開

 ところが、ここからがちょっと常識はずれの展開となります。主人に「切り倒せ」と言われた園丁は、予想外の答えをいたします。‥‥『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』
 もう1年待ってくれというのです。そして、肥料をやってみますというのです。これがあり得ない。なぜあり得ないかと言えば、私の恩師である清水恵三先生によれば、当時いちじくの木に肥料をやることなどあり得なかったからです。ぶどうにだって肥料をやらない。いちじくに肥料をやることなどなかったそうです。ところがこの園丁は、このいちじくの木に異常な執着を示します。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。」‥‥あり得ない。異常です。イエスさまのお話しを聞いていた人々も、誰もが「おかしい」と思ったことでしょう。皆それがおかしな行動であることを知っていました。
 そしてこの結果、このいちじくの木はどうなったのか、何も語られていません。園丁が言った言葉で終わっています。すなわち、このたとえ話は、結局いちじくの木はどうなったのか、ということが問題なのではなく、この園丁の異常な言動に焦点を当てていることが分かります。
 切り倒すことが当然であり、それが最も確実な方法であるに違いない。いつまでも実を結ばない木が土地を塞いでいることはもったいないことです。ところがこの園丁は、このいちじくの木に異常な執着を示し、「ご主人様、今年もこのままにしておいてやって下さい」と懇願します。「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」と言います。「そうすれば、来年は実が成るかもしれません」と訴えます。

あり得ない愛

 私たちにとって、これだけなら、ちょっと変わった話しだなあ、で終わりです。しかしこの実のならないいちじくの木が、いったい何を指しているのかを知ったときに、事情は変わってきます。このいちじくの木とは、誰のことなのか?‥‥もちろん、この時イエスさまのお話しを聞いていたイスラエルの民と言うこともできます。しかしそれではやはりこのたとえ話は他人事でしょう。
 このいちじくの木とは、誰のことなのか?‥‥それは、この私たち一人一人のことであることに気がつかなくてはなりません。実の成らないいちじくの木とは、このわたしのことであり、私たち一人一人のことである。このことを悟ったときに、このたとえ話は、実に味わい深いものとなります。
 そしてこのぶどう園の主人とは、神さまを指しています。神さまによって植えられたいちじくの木。すなわち、神さまによって命を与えられたのが私たちです。それなのに実を結ばない。‥‥神さまを信じない。神さまに従わない。私は神さまを信じているという人もいるかもしれません。しかし、では神さまの期待するような実を結んでいるか、神さまの期待するような人間になっているかと言われれば、そうとは言えない自分があります。
 ぶどう園の主人が言います。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか」‥‥当然です。ここで勘違いしてはならないのは、神さまは短気だと思ってはならないということです。もうすでに3年待ってくださったのです。この「3年」というのは、もちろん文字通りの3年ではありません。十分長い間ということです。十分長い間神さまは、私たちが実を結ぶように待ってくださったのに、いっこうに実を結ばない。だから切り倒せというのも当然です。
 そして園丁は、イエスさまのことを指していると言えるでしょう。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。」異常なほどにいちじくの木にこだわります。切り倒すのを待ってくださいと神さまに懇願いたします。「肥やしをやってみます」と、ただのいちじくの木に対して、あり得ないほどの愛を注がれます。
 私たちは、そのようにしてイエスさまによって、あり得ないほどの愛を注がれ、悔い改めるように、神さまの所に立ち帰るように、神を信じるように、神に従うように導かれているということです。あり得ないほどに、です。

園丁の十字架

 しかしこのたとえ話には厳しさもあります。主人である神さまが、実の成らないいちじくの木を「切り倒せ」と言っておられることがそうですが、園丁も最後には「もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言っています。まあ、ここまであり得ないほどに園丁であるイエスさまが尽くしてくださって、それでもだめなら仕方がない、と誰もが思うことでしょう。何にしても限度があるものです。
 しかし私は思います。ここまでイエスさまがして下さって、それでも悔い改めないのなら、滅びて仕方がないというのなら、このわたしは救われることがなかっただろうと。幼い時に命を助けてくださった神さま、その神さまをやがて捨て去って、愚弄し続けた私でした。それまでどれほど神さまは、私が悔い改めて神を信じるようになるのを待っていてくださったことでしょう。また、イエスさまが神さまにとりなしてくださったことでしょう。
 ですから、それでも悔い改めない私は、切り倒されて当然でありました。しかしそんな私が、切り倒されなかった。代わりに切り倒されたのは、イエスさまご自身でした。それがイエスさまの十字架でした。イエスさまが十字架にかかられ、この私が切り倒される代わりに、ご自分が切り倒されてくださったのでした。そのことが分かった時に、私はこのイエスさまによる以外は、救いはないと確信しました。
 ご自分の命をかけて、肥やしをやり、実を結ぶように導いてくださるイエスさま。この方が確かにいてくださいます。


(2013年11月24日)



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