礼拝説教 2013年11月17日

「なにを学ぶか」
 聖書 ルカによる福音書13章1〜5 (旧約 ヨナ書3:10)

1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。
2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。
3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。
5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」



 今週土曜日は、森祐理さんをお招きしてのチャペルコンサートを開催します。
 私が、コンサートによる伝道というものに目が開かれたのは、今から10年以上前のことになります。前任地である富山二番町教会が、市街地再開発事業に伴い移転新築した時に、初めてコンサート伝道をすることにいたしました。それまでは、伝道集会と言えば、伝道講演会や伝道礼拝ばかりをしてきました。しかし伝道講演会をしても、新しく教会に来られる人は、2〜3人とか、10人未満でした。
 それで、せっかく新しい広い会堂の教会が建ったのだから、新しい試みにチャレンジしようということになり、コンサートをすることになりました。そして誰を招いてするかというときに、もちろんそれはクリスチャンのミュージシャンでなければ伝道になりませんので、いろいろ考えたのですが、私が人づてに森祐理さんのことを聞いていたので(当時はまだ日本キリスト教団の教会では森祐理さんのコンサートをする教会はほとんどなかったのですが)、もとNHKの歌のお姉さんでありクリスチャンであるということで、初めてコンサートを教会で開くことにしたのです。
 当日は、全部で240名の人が集まり、そのうち新来会者は100名を超えました。そして森祐理さんが、文部省唱歌などの童謡や、ゴスペルソングなどを、ご自分の証しを交えて歌われ、主を証しするすばらしいコンサートとなりました。そして、そのコンサートによって初めて教会に来られた人の中から、4名の人が洗礼を受けました。そのうちの3名はご家族で、最初にお母さんと小学生のお嬢さんが洗礼を受け、次にお父さんが洗礼を受けられました。またもう1人はサラリーマンの男性が洗礼を受けたのですが、なぜコンサートから教会に通うようになったのかということについてうかがうと、それまで彼は、悪い夢に毎晩うなされていたのだそうです。ところが、コンサートに来た日からぱったりと悪い夢を見なくなった。それで驚いて教会の礼拝に通うようになったのだということでした。
 今週のコンサートでも、主のわざが現れるように祈りたいと思います。また今回は、事前に入場整理券を配布しませんでした。ですから、どれだけの人が訪れるのか全く分かりません。ガラガラとなるのか、それとも入りきれない人がでるほど来るのか、分かりません。これも主が必要な人々を招いてくださるようにお祈りいたしましょう。

因果応報か

 さて、今日の聖書に入ります。「ちょうどそのとき」という言葉で今日の聖書個所は始まっています。この前のところでイエスさまは、今がイエスさまを信じる時であり、イエスさまを信じることによって神さまと和解すべきであることをお話しなさいました。ちょうどその時、イエスさまに、あることを知らせに来た人々がいたということです。
 その、あることというのは、「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」ということであったと書かれています。ピラトというのは、後にイエスさまに十字架の判決を下したポンテオ・ピラトのことです。ローマ帝国のユダヤ総督です。この出来事が、具体的にどんな事件を指しているのかははっきり分かりません。しかし「いけにえ」というのは、エルサレムの神殿で神さまに献げる羊などの動物のいけにえのことです。おそらく、ガリラヤ地方のユダヤ人の中にローマ帝国に反抗する人たちがいて、その人たちがエルサレムの神殿にやって来て神を礼拝するためにいけにえを献げている時に、総督であるピラトの命令で、殺されたということかもしれません。
 ユダヤを支配しているローマ帝国の総督ピラトが、そのような残虐なことをした、そうして死んだ人たちがいたとイエスさまに報告したのです。
 するとイエスさまは、「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」とおっしゃいました。そして続けて、「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」とおっしゃったのです。
 シロアムの塔というのは、エルサレムにシロアムの池というのがあり、そこに塔が立っていたのでしょう。その塔が倒れで18人の人が死んだという事故も、記録には残っていないようですが、そのような事故があったのでしょう。
 いずれにしても、ピラトがガリラヤ人を殺したという事件についてイエスさまは、「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか」と言われ、シロアムの塔が倒れて18人が死んだ事故については、「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか」とおっしゃっています。つまり、多くの人々は、そのような災難に遭った人々は、他の人たちよりも罪深いからそういう災難に遭って死んだのだと思っていたということがわかります。すなわち、そのような目に遭った人々は、何か悪いことをしたからそのような災難に見舞われたのだと、多くの人々は考えていたのです。
 このような考え方は、一般に「因果応報」と言われます。あるいは「バチが当たった」と言われることもあります。

イエスによる転換

 ですからそのような考え方は、なにもこの時のユダヤ人だけの考え方ではありません。日本でも昔から言われてきたことです。例えば、何か悪い病気にかかると、いろいろな宗教が近づいてくるという経験をされた方もいるかと思います。また、いろいろなことを言う人もいます。例えば、「先祖のまつり方が悪い」とか、「家の方角が悪い」とか、「水子供養をしなければならない」、あるいは「何かのたたりである」というようなことです。人間、何か困っている時にそのようなことを言われると、なんだかそんな気がしてくるものです。
 それに対してイエスさまは、そのような因果応報的な考え方について、いずれも「決してそうではない」と言われました。違うと言われるのです。しかしここで注意しなければならないのは、そのような因果応報的な考え方は、バカバカしいことであると一笑に付された、ということではありません。なぜなら、罪を犯したから神の罰が与えられるということは、旧約聖書にも出てくるからです。
 例えば創世記19章では、ソドムの町の滅亡のことが書かれています。ソドムの町は、悪と不法に満ちていたので、神の罰によって滅びました。また申命記28章を見ると、神に聞き従わない場合に臨む呪いについて書かれています。その中には、疫病が臨むことや、作物が実らないことが言われてます。あるいは、歴代誌下26章を見ると、ユダのウジヤ王が、祭司しか入ってはならない神殿の聖所に入って香を焚こうとしたため、主に打たれて重い皮膚病になったということが書かれています。
 そのようなことがありますから、イエスさまが「決してそうではない」とおっしゃったのは、因果応報とかバチが当たると言うことはバカバカしいから「決してそうではない」とおっしゃったのではないことが分かります。
 ではなぜ「決してそうではない」と言って、この災難に遭った人々が特に罪深いからそういう目に遭ったのではないと言われたのでしょうか?
 それはこの言葉をおっしゃった方、すなわち、イエス・キリストがお出でになったことによって、そのような因果応報的なこと、あるいはバチが当たったということが、断ち切られたということに他なりません。もっと言うならば、イエスさまが十字架にかかってくださることによって、罰や呪いから解放されたのです。すなわち、それらの罰や呪いは、イエスさまが代わりに十字架で負って下さったのです。ここではまだイエスさまが十字架にかかられる前ですが、そのことがすでに予言として言われているのです。
 ヨハネによる福音書には、そのことをよく表している出来事が書かれています。ある日イエスさまと弟子たちが歩いていると、生まれつき目の見えない盲人がいました。弟子たちは、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」とイエスさまに尋ねました。つまり、弟子たちもまた因果応報であると考えていたのです。
 それに対してイエスさまは、このようにお答えになりました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」‥‥そうおっしゃって、そのことを証明するかのようにして、この人の目を見えるようになさったのです。イエスさまによって、因果応報の世界から解放されているのです。

悔い改める

 しかしここで喜んでばかりいられません。今日の聖書個所に戻りますが、イエスさまは、両方の事件、事故について、いずれも「決してそうではない」とおっしゃったあと、「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」とおっしゃったからです。ピラトによって殺されたガリラヤ人、そしてシロアムの塔が倒れて死んだ18人だけが罪深かったというのではなく、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」のであると。
 たしかに、権力者によって殺されようと、塔が倒れて下敷きになろうと、確かにそんな死に方はしたくはないかもしれませんが、考えてみれば、いずれ私たちも確実に死ぬわけです。病気で死ぬのかもしれない、事故で死ぬのかもしれない、それは誰にも分かりませんが、いずれ皆死ぬことには違いありません。この「滅びる」という言葉には、「なくなる」とか「消滅する」という意味があります。消えてなくなってしまう、という意味にもなります。確かにそれは事実です。
 しかしイエスさまのおっしゃった言葉をもう一度読んでみましょう。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。‥‥これは言い換えれば、「悔い改めなさい」という招きの言葉でもあります。「悔い改める」‥‥これは世間一般には「反省する」という意味で使われます。しかしこの原文のギリシャ語では、「心を変える」「考えを変える」「人生に於ける考え方の根本を変える」という意味です。反省して、「もう致しません」と言って誤るというのではなく、心を変えるんですね。これまでの歩みではダメだと知って、変えるわけです。
 そしてまたこの言葉には、「立ち帰る」という意味も含まれています。神さまの所に立ち帰るということになります。神さまの所に立ち帰る。しかし神様は、この私たちを受け入れて下さるのでしょうか?「同じように滅びる」この罪深い私たちを、神さまは受け入れて下さるのでしょうか?
 それはイエスさまによって受け入れて下さるのです。因果応報を、呪いを、神の罰を、イエスさま自らが十字架にかかって、私たちの代わりに引き受けて下さった。そのイエスさまを信じることによって、神のもとに立ち帰ることができるのです。そのイエスさまと共に歩んでいくことが、心を変えることであり、根本から変えるということです。そのような道が私たちに与えられていることを感謝します。


(2013年11月17日)



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