礼拝説教 2013年11月10日

「時を見分ける」
 聖書 ルカによる福音書12章54〜59 (旧約 コヘレトの言葉3:1〜11)

54 イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。
55 また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。
56 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
57 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。
58 あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。
59 言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」



召天者記念礼拝

 召天者名簿を見ながら、逗子教会でも多くの人が信仰生活を送って天に召されていったことを思いました。そして、命のつながりということを思いました。今、確かにこの私という人間が存在しています。しかし確かにわたしがここに生きているということは、私の両親がいるから私が生まれたわけです。そしてその両親は、もうこの世にはいない祖父母がいたから生まれたわけです。そのように、もうすでにこの世にはいない、とっくの昔に亡くなったご先祖様がいたから、今私は生きているわけです。
 そしてこのことは、教会も同じです。今、逗子教会で、私たちがこのように礼拝をし信仰生活を送っている。これは、私たちが誰かを通してキリストの福音を伝えられたから、信じて教会につながっているわけです。そして私たちに福音を伝えた人は、またその前の世代の人たちから伝えられたはずです。そのように考えていきますと、教会がここに存在しているということもまた、既に亡くなって天に召された方々がいたからこそ、私たちはキリストを知って信じるようになったわけです。そういうキリストの命のつながりというものを思います。
 そのキリストの福音というものは、最初から何も変わっていません。何も変わらない神の言葉であり、同じ福音が命となって脈々と今日に伝えられているということを、感慨深く思わされました。

天気を見分ける

 今日の聖書個所で、イエスさまは最初に天気を見分けることについて話し始められています。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。」(54〜55節)
 日本でもそうですが、イスラエルでも普通は雲は西から東へ動くようです。だから、西の空に雲が出てくると、雨が降るということが分かる。日本にも、「夕焼けだから、明日は晴れる」という言い方があります。もっとも、北陸にいますと、このことが通用しません。特に晩秋から冬は、一日のうちでもめまぐるしく天気が変わります。夕焼けになったかと思えば雨やあられが降ってくる。かと思えば虹が出る、ということになります。しかしそれでも、今ごろになると、「今年の冬は雪が多いか少ないか」ということが日常の話題となります。そして、モズのはやにえが高い位置にあったから、今年は雪が多いだろう、と見分けたりします。
 そのように日本では、まず天気のことを話題にするのが日常会話ですが、それはイスラエルでも同じようです。なぜ天気のことが気になるかと言えば、お天気が農業やその他の仕事、また生活に影響を与えるからです。雨が降れば農作業や、外での仕事は難しくなるし、買い物に出かけるににも天気は大切です。それで、天気のことが話題となり、どこのテレビ局でも天気予報がなされることになります。

時を見分ける

 さて、続けてイエスさまはおっしゃいました。「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
 「時を見分ける」とはどういうことでしょうか? 今がどういう時で、これからどのような時となるのかを見分ける。しかしこれはいったい何を指しているのでしょうか? その前にイエスさまは、人々に向かって「偽善者」とおっしゃいました。これは日本語ではかなり厳しい言葉に聞こえます。根は悪いのに、善人ぶっているというような意味で、人々を断罪しているようにも聞こえます。しかし、これはギリシャ語では、そのような意味ではありません。これはギリシャ語では、「役者」「俳優」という意味です。つまり、演じているのです。
 では何を演じているというのでしょうか?‥‥ここではまず、神を信じるということについて演じているということが言えるでしょう。それは信じてもいないのに信じている振りをすると言うよりも、当時の宗教指導者たち、つまりファリサイ派や律法学者の教えた通りの宗教を演じているということだろうと思います。それは本当の信仰ではない。しかし教えられたとおりに演じているに過ぎない。また、生きるということについて演じているとも言えるでしょう。どうやって生きたらよいのか。何を支えとして生きたらよいのか。そういったことについて、みんなが生きているように生きている。演じている、誰かが書いた台本通りに演じている役者となっていると。
 どうすれば、演じるのではなく、本当の自分になれるのか。そんなことを思わざるを得ません。どうしたら束縛から解放されて、本来の自分になれるのか?
 そこでイエスさまは、「今の時」ということをおっしゃっています。「どうして今の時を見分けることを知らないのか」。この「今の時」とはなんでしょうか?‥‥これはここでは、イエス・キリストが来られた、この時ということです。

時がある

 時ということについてもう少し考えてみましょう。そこで、「コヘレトの言葉」の3章1〜11節を読んでいただきました。「コヘレトの言葉」という書物は、昔は「伝道の書」と言いました。正確には、「伝道者の書」という意味です。ここには、すべてのことには、定められた時があるということが語られています。2節では、「生まれる時、死ぬ時」が定められていると述べられます。確かにその通りです。私たちは、生まれる時を選ぶことができませんし、死ぬ時を選ぶこともできません。自分ではどうすることもできません。
 そうして読んでいくと、何もかもが定まっているという。まるで運命のように思えてきます。そうすると、どうせ何をしても無駄であり、結局はすべてがどうすることもできない定めとなっているというふうに思えます。あきらめと絶望が生じるのみのように思えます。
 しかしこの聖書は、そんなことを教えているのではありません。そんなことで終わりだとしたら、それは聖書でなくても教えてくれることです。この一見何もかもが運命であり、人間にはどうすることもできない束縛された者のように思われる人生であるけれども、その中に生きる私たちが、神に結びついた時に、そこから自由になれるということです。
 神は永遠を思う心を人に与えられました(11節)。私たちは「時」に縛られています。どうすることもできません。しかしその私たちが、神様に結びついた時に、時の束縛から自由となることができます。それは、永遠というものが時を超えているからです。神だけが永遠であり、その永遠の神を信じた時に、私たちは時を超えることができると言えます。

仲直り

 57〜59節では、「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」とおっしゃり、そしてたとえが語られています。「あなたを訴える人」がいた。役人の所に行って裁判を受ける前に、その人と仲直りするように努めなさい、と。確かにその通りです。牢屋に入れられる前に、相手の人と仲直り、言い換えれば和解をするべきでしょう。
 これは、神様と和解するべきだとおっしゃっているのです。私たちが神さまに対して罪を犯している。そのままでは有罪となり、裁きを受けることになります。だから裁きを受ける前に神様と仲直りをしなさい、和解をしなさいということです。しかし、いったいどうやって和解をしたら良いのか。それがイエスさまの十字架によってということです。神と私たちが和解するためにイエスさまは来られ、十字架にかかられました。

いつが時?今が時!

 聖書には、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(Uコリント6:2)と書かれています。イエスさまを信じる時、というのは、「今」であると言っています。「いつか」ではなく、今です。
 輪島教会にいたとき、72歳のご婦人がいました。彼女は戦前の女学校時代に友達にさそわれて、教会に初めて来ました。以来、60年間、洗礼を受けるわけではないが、教会に来たり来なかったりという形で出入りしていました。彼女は朝市通りで店を構えていました。その方が、ついに洗礼を受けるかどうかを考え始めました。そして私に聞きました。「俺みたいなもんでも、いいがかね?」‥‥その時彼女の心の中には、自分の犯してきた過ちや失敗が思い起こされていたことでしょう。自分のような者にも洗礼を受ける資格があるのか?‥‥それが彼女の最後の疑問でした。
 わたしは力強く、うなずきました。「大丈夫です。わたしみたいな者でも牧師になっているんですから」。それで彼女は洗礼を受けたのです。
 私たちは、イエスさまに従って行くのは、今はふさわしくない、と思う。しかしイエスさまから見たら、「今」が恵みの時、救いの日であります。それで、いつでも神を信じる「時」となったのです。イエスさまの十字架のおかげです。


(2013年11月10日)



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