礼拝説教 2013年11月3日

「地上の火」
 聖書 ルカによる福音書12章49〜53 (旧約 ヨシュア記24:14〜15)

49 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
50 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。
51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。
52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
53 父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」



戸惑う私たち

 本日のイエスさまの言葉は、私たちが戸惑うようなことが語られています。
 まず49節で「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と主はおっしゃいました。さらに、51節では「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と語られます。そして53節では「父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、姑は嫁と、嫁は姑と、対立して分かれる」と言っておられるのです。これらの言葉は、私たちが持っているイエスさまのイメージとは、ずいぶんかけ離れた言葉のように聞こえます。
 イエスさまは、平和のないこの世の中に、平和を持たすために来られたのではなかったか? 争い、憎み合い、ねたみや怒りが渦巻くこの世の中に、愛とゆるしを説くために来られたのではなかったか?‥‥そんな疑問が湧いてきます。
 先ほどクリスマスのことを申し上げましたが、二千年前にイエスさまがお生まれになった夜、野宿をしていた羊飼いのところに、神の天使が遣わされてイエスさまの誕生を知らせました。その時、天の大群が現れてこう言ったとルカによる福音書の2章に書かれています。‥‥「いと高き所には栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ」
 そのように、イエスさまの誕生は平和の到来を告げるものであったはずです。それなのにきょうの聖書でイエスさまは、それと反対のことをおっしゃる。一体これはどういうことかと、いぶかしむことになります。

地上に火を投ずる

 さて、ここでイエスさまが言われていることは一体何か。まず「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」とおっしゃっています。
 このことについては、たしかに洗礼者ヨハネもイエスさまのことについて、ルカ3:16〜17で「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」‥‥と言っています。
 ここで言う「火」とは、何のことを言っているのでしょうか? 聖書では、火はいろいろなところで出てきますが、きょうのところではイエスさまは、「地上に火を投ずる」とおっしゃっています。それまでは火がついていなかった所に、火を投ずる。そうするとどうなるか?‥‥例えば今この建物の中に火が投げ込まれたとしたらどうでしょう。火がついて燃え出すことでしょう。そして燃えて灰になってしまうでしょう。
 そのように、火は神の裁きを表しています。実際、旧約聖書の創世記19章を見ると、神を信じないで悪が満ちていたソドムとゴモラの町が、主のもとから降ってきた硫黄の火によって滅びてしまったということが書かれています。それは神の裁きの火でした。そのように、火は神の裁きを表します。とくにここでは、世の終わりの最後の審判のことを指していると言えます。

イエスの受けなければならない洗礼

 「しかし」とイエスさまはおっしゃいます。50節「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」 すでに火が燃えていたらと願う。しかし、と。すでに世の終わりの神の裁きが来ていたとしたら、罪と悪にまみれていたこの世界は平和になっていたことでしょう。罪人が皆滅ぼされて、平和になっていたことでしょう。しかしその時は、誰一人として残っている人はいないことでしょう。なぜなら、聖書によれば、私たち人間はみな罪人だからです。みな、神に対する不信仰、そして愛がない。だからみな罪人です。だから、皆その神の裁きの火で焼き尽くされてしまって、誰も残っていないでしょう。
 人間が一人も生き残らないのですから、たしかに平和になったには違いありませんが、人間が一人もいない。それでは神様が世界をお造りになったことが無意味になってしまいます。
 そこで先ほどのイエスさまの言葉が出てくるわけです。「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」
 イエスさまがひどく苦しまれるという。なぜそんなに苦しまれるのでしょうか? それはイエスさまが私たちを愛しておられるからです。私たちを愛しておられるので、私たちが神の裁きの火で滅びてしまうことから、何とか救おうとされるからです。神を信じない、罪人である私たちが滅びることを善しとされず、何とか救おうとされるから苦しまれるのです。
 愛とは苦しみを伴います。なぜ愛が苦しみを伴うかというと、それは他人が滅びるのを放っておけないからです。愛がなければ、他人のことで苦しみません。他人が苦しもうが、滅びようが知ったことではないからです。しかし愛があると、苦しみます。放っておけないからです。
 例えば、それは子どもを持つ親の気持ちに似ています。子どもが成長して行って、やがて悪の道に染まったとしたらどうでしょう。悪いことばかりするようになったらどうでしょう。普通は親は、たいへん苦しむと思います。なぜならそれが我が子であり、愛しているからです。放っておけないからです。これが他人の子どもならば、どんなに悪くなっても苦しむことはないでしょう。特に愛しているわけではないからです。
 そのように、愛があるから苦しみます。イエスさまが、「わたしはどんなに苦しむことだろう」とおっしゃっている言葉に、私たちは胸が痛みますが、それは実は、この私たち罪人を救うために、苦しまれるということです。そして、「受けねばならない洗礼がある」というのは、いわゆる洗礼のことをおっしゃっているのではなくて、ここでは、十字架のことを指しているのです。
 私たちを愛するがゆえに、何とかして救おうとひどく苦しまれる。そして、私たちが火で滅ぼされる代わりに、イエスさま自らが十字架で死なれる。私たちに代わって罪の罰を受けられ、滅びて下さる。そして私たちが代わりに救われる。‥‥その十字架にイエスさまは向かっておられるのです。そのお言葉がこれです。

分裂

 そして51節からの所に行きます。ここでは、イエスさまは、平和ではなく分裂をもたらすために来たとおっしゃっています。最初に申し上げたように、たいへん理解に苦しむお言葉です。イエスさまこそ、真の平和をもたらすためにこの世に来られたのではなかったのか? それなのになぜ? 家族の中でさえも対立するとは?
 これは次のように理解したら良いでしょう。すなわち、イエスさまは、この世の人々を愛し、真の平和を与えるために来られました。しかし、人々がそれを信じたかというと、そうではありませんでした。かえってイエスさまを捕らえて十字架にかけてしまいました。イエスさまがわざわざ対立や分裂をしようとしたのではありません。しかしイエスさまを信じなかった人々が、イエスさまを排除し、十字架に追いやったのです。つまり、結果として対立や分裂が生じたのです。
 それと同じように、イエスさまを信じた人も、イエスさまに従って行こうとした時に、身近な人たちから、あるいは家族からさえも、誤解をされ、対立が生じ、あるいは迫害をされるということになる場合があるということです。
 私が前任地の教会に赴任した時、最初に洗礼を受けたのは男性でしたが、家族がキリスト教に反対する中で洗礼を受けられました。「教会に行く」というと、「なぜそんな所に行く?」と言って迫害される。彼も、その家のお婿さんという弱い立場なので、強く出ることもできない。それで、教会に行く時は、家族に内緒で教会の礼拝に来ておられました。だからと言って、彼は家族のことなどどうでも良いと思っていたのではありません。私も彼も家族の救いのために祈っていました。 しかし家族が反対するからと言って、信仰をやめることなど彼にとってあり得なかったでしょう。真の神とキリストを知ってしまったからです。
 前にもお話しした、富山新庄教会を開拓伝道した亀谷凌雲先生は、もと浄土真宗の住職でした。父親のあとを継いで、寺の住職になる前に、亀谷先生は、キリストの伝道者である金森通倫先生の説教を聞いて感銘を受け、心がキリスト教に傾きます。ちなみに、金森通倫は、今放映しているNHKの大河ドラマ「八重の桜」の中でも、熊本バンドの一員として登場していました。亀谷先生はその後、家を継いで浄土真宗大谷派の寺の住職となるのですが、ついにキリストを信じるに至ります。阿弥陀如来の真の姿は、キリストであるということを見出すに至る。そして住職を辞め、人生の大転換をして、キリストの伝道者となる道を歩み始めます。妻は泣き崩れ、母親は狂わんばかりに反対したそうです。しかし亀谷先生の決意は変わることがなかった。そして洗礼を受けて、聖書学校に学び、伝道者の道を歩み始めたのです。やがて妻も洗礼を受けてキリスト者となった。そして、母親も亀谷先生の話しに耳を傾けるようになったと言います。
 亀谷先生もまた、好きで家族と対立したわけではありません。ほんものの神に出会ってしまったから、道を進んだのです。そして家族を捨てたのではありません。その家族をも救って下さるキリストの愛を信じて進んでいったのです。

ヨシュアの信仰

 きょう読んだもう一個所の聖書、旧約聖書のヨシュア記の個所は、モーセの後を引き継いで、イスラエルの民を約束の地に導いたヨシュアの言葉です。ヨシュアはイスラエルの人々に向かって言いました。‥‥あなたがたは、真の神さまである主に仕えなさい。しかしもし主に仕えたくないならば、自分の好きな神様を拝みなさい。「ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」
 これは信仰告白の言葉です。「わたしは主を信じ、主に仕えます」。たとえ家族が反対し、周りの人々が神を信じなくなり、世の中のすべての人が神を信じなくなったとしても、「わたしは主を信じます」と言う。たとえ、イエスさまを信じる者が世界で自分1人になったとしても、「わたしは信じます」と言う。そこから新しく始まるのだと思います。それは決して自分勝手になって、まわりの人と対立するのではありません。家族を愛し、周りの人々の救いを願って、キリストに従って行くのです。


(2013年11月3日)



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