礼拝説教 2013年10月20日

「目を覚ましている」
 聖書 ルカによる福音書12章35〜48 (旧約 レビ記24:2〜3)

35 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。
36 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
37 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。
38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。
39 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。
40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
41 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、
42 主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。
43 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。
44 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。
45 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、
46 その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。
47 主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。
48 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」



佐藤彰先生

 先週の火曜日、清水ヶ丘教会で開かれた神奈川教区の伝道協議会に行ってきました。当教会からも何名か参加されました。「伝道協議会」というと、会議か何かと思いますが、そうではなく伝道講演会でした。講師は、前にもこの礼拝でご紹介した福島第一聖書バプテスト教会牧師の佐藤彰先生でした。同教会は、深刻な事故を起こした福島第一原子力発電所の最も近くにある教会でした。
 同教会は、戦後アメリカ人の宣教師によって開拓された教会で、1980年に佐藤彰牧師が着任してから成長を続け、この田舎の小さな町々に4つのチャペルを持ち、教会員が二百名以上集うまでになりました。そこまでに佐藤先生はじめ教会員の祈りと心血がどれほど注がれたことであろうかと思います。ところがその教会が、2年前の3月、大震災とそれに続く原子力発電所の事故で、避難を余儀なくされたのです。誰が生きているのか死んでいるのかも分からない。着の身着のままで、逃げて行ったそうです。食べる物もなく、お腹をすかして避難していった。ご本人自身、現実のものとは思えず「映画を見ているようだった」とおっしゃっていました。
 最初は会津に逃げ、次に米沢の教会が受け入れてくれて、家を失い、仕事を失った数十名の教会員が一緒に避難しました。そして東京の奥多摩で、ドイツ人宣教師が経営している施設を提供してくれて、そこで約1年間の共同生活を送られました。これらの出来事は、本では読んでおりましたが、実際にお話をうかがうのとでは大違いで、涙なくしては聞くことができませんでした。
 しかし同時に先生は、あいだあいだに聖書の御言葉を示され、そのものすごい試練の中にも神さまの多くの恵みがあったことを語られました。その中で先生は次の聖句を示されました。
 (Tペテロ4:12)「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。」‥‥この御言葉を先生は出席者に一緒に読むように言われました。心にジーンと響いてきました。そして聖書の御言葉が、想像を絶する苦しみ、悲しみの中で、迫力を持って生きてくるものであることが分かりました。先生の講演のDVDを買いましたので、何かの機会にご一緒に見たいと思います。

キリストの再臨

 本日は、イエスさまがたとえを交えながらお話しされています。これらのことは一体何を話しておられるのかというと、いわゆる「キリストの再臨」のことです。この世の終わりの時に、キリストがふたたびこの世においでになる。聖書の歴史に終止符が打たれるときです。40節で「人の子は思いがけない時に来るからである」とおっしゃっています。この「人の子」というのがイエス・キリストのことを言っているのであり、すなわちこれがキリストの再臨のことをおっしゃっているわけです。
 世の終わりというと、非常にセンセーショナルな印象を受けますが、例えば私たちの人生の終わりがあることは誰でも知っていることです。ですから、私たちのこの世の人生が終わることに置き換えて考えても分かりやすいかもしれません。そのキリストの再臨の時を、どのようにして迎えたら良いのか、ということをお話しなさっているのが今日の個所です。
 それでイエスさまが、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」とおっしゃっています。これはたとえ話です。「主人が婚宴から帰ってきて戸をたたく時」に、と言われています。当時の婚宴というのは、今日の結婚式と披露宴のように、数時間で終わって帰ってくるというものではありませんでした。何日も続きました。ですから、いつ何時に家に帰ってくるかということは、しもべには分からないことでした。しかしここでイエスさまは、主人がいつ帰ってくるか分からないから眠っていなさいというのではないのです。主人がいつ帰ってくるか分からないから目を覚ましていなさい、腰に帯を締めてともし火をともしていなさい、ご主人様が帰ってきた時にすぐに迎えることができるようにしておきなさい、と言われます。
 そうすれば、主人は逆に僕たちのために帯を締めて給仕をしてくれるというのです。‥‥しかしまさか、主人がしもべのために給仕をしてくれるというのは、いくら何でも大げさなことだと思います。だいたい、しもべというのは奴隷ですから、主人のために容易をしておくのは当たり前のことであると言ってもよいでしょう。ですから、いくらしもべが起きて主人が帰ってくる用意をしておいたと言っても、そんなことは現実にはあり得ないでしょう。おかしなたとえ話です。
 しかし、イエスさまのたとえ話には、「おや、おかしいぞ?」というところにお話のポイントがあるのです。ここで言えば、主人がしもべのために給仕をしてくれるという点です。奴隷のために主人が給仕をしてくれるなどと言うことはあり得ない。しかし実に、あり得ないほどに主人は喜んでくれる。それほどに、主人が帰ってくる時のために腰に帯を締め、ともし火に火を灯して待っている、目を覚ましていることが求められていると言ってよいでしょう。
 そしてさらに言うならば、この主人が給仕をしてくれるという出来事は、天国での盛大な晩餐会のことを指しているのかもしれません。

目を覚ましているとは?

 さて、このたとえ話は、一体何を言おうとなさっているのでしょうか?‥‥40節で「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」と主は言われます。「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」と言われます。すなわち、イエスさまがふたたびこの世においでになる時に、目を覚ましてイエスさまを迎える準備がしてあるということです。
 では、目を覚まして腰に帯を締め、ともし火をともしてイエスさまを迎える準備をしてあるとは、どのようなことを言うのでしょうか?‥‥いつも立派な行いをしていろということでしょうか? いつも礼拝をしていなさいということでしょうか? いつも愛に満ちた行動をしていなさいということでしょうか?
 先週、私はおもしろくないことが起こって、腹を立てたということがありました。その時、私の心の中ではイエスさま、神様のことなどどこかに行ってしまっていました。もしその時、キリストが再臨されたらどうでしょうか? あるいは、自分の命が終わりを迎えていたとしたらどうでしょうか?‥‥腹を立て、神様のことなどどこかに行ってしまっている。あるいは、人の悪口を言っている。あるいは、テレビのお笑い番組を見て笑い転げている‥‥。あるいは、仕事に没頭している時は神様のことが頭にないかもしれません。もしそのような時にキリストが再臨されたら‥‥
 私たちが主を礼拝している時にキリストが再臨されたとしたら、申し分ないでしょう。しかし今述べたような状態の時にキリストが再臨されたとしたら、ちょっとタイミングが悪かった、ということになるのでしょうか? 天国に連れて行っていただくことはできないのか? 天国の晩餐会の食卓にあずかることはできないのでしょうか?

罪人の救い

 イエスさまの弟子たちのことを思い出します。イエスさまの弟子たちは、イエスさまが十字架にかけられるために捕らえられた時、皆イエスさまを見捨てて逃げて行きました。ペトロは3度もイエスさまのことを知らないと言って見捨てました。ですから、皆、天国に入れてもらう資格のない人たちです。
 ところが十字架で死なれたイエスさまがよみがえられて、弟子たちの所に来られた。まさに、イエスさまを見捨てたのですから、そこに復活のイエスさまが来られたというのは驚くべきことですが、まことにまずいことに違いありません。イエスさまを見捨てる前であったら良かったかもしれませんが、イエスさまを見殺しにしてしまったような弟子たちですから、合わせる顔がありません。ところが復活のイエスさまが来られた時、まさしくそれがイエスさまであることを知って弟子たちは喜びました。まるで、幼子が、親が帰ってきたのを無条件で喜ぶかのように。ご自分を見捨てた弟子たちを赦し、再び弟子として世界に遣わすために来られたイエスさまを喜んだのです。
 弟子たちは自分たちの弱さ、罪深さを知りました。自分の身を守るためには、イエスさまさえも見捨てるという弱さ、罪が自分にあることを知りました。それゆえ、そんな自分たちを救ってくださるイエスさま抜きには生きられないことを知りました。それで、復活のイエスさまが来られた時、喜んだのです。
 「こんなどうしようもない私を、どうか救ってください」‥‥そのように言うことしかできない自分があります。しかしそのように言うことしかできない私たちを、イエスさまは迎え入れてくださる。神の国へと連れて行ってくださる。その時、キリストの再臨は喜ばしいこととなります。
 このあと歌う讃美歌、旧讃美歌の174番はキリストの再臨のことを歌った讃美歌です。その3節をご覧下さい。‥‥「‥‥主よ、よくこそましましけれ、ハレルヤ、祝いのむしろに、いざつかせたまえ」。‥‥再臨のイエスさま、主よ、よく来て下さいました。ハレルヤ。どうか私を、祝いの宴席に着かせて下さい。‥‥そのように歌っています。キリストは、今日再臨されるかもしれません。明日、再臨されるかもしれません。いつ来られるか分かりません。あるいは私たちは、きょう地上の生命を終えるかもしれません。いずれにしろ、いつキリストがふたたび来られても、私たちは罪人であることには違いありません。いつでも罪人なのです。
 しかしこんな罪人の私たちをも、赦し、天の国へ迎え入れて下さるイエスさまがおられる。それゆえに、「主よ、よくこそましましけれ、ハレルヤ」と言うことができるのです。いつでもこの主イエス・キリストにすがることができる、心からすがることができる。それゆえ、今、キリストが再臨されても良い。このことが、主人であるイエスさまが来られる準備ができていると言えます。

教会として再臨を待つ

 41節ではペトロが「主よ、このたとえは私たちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」とイエスさまに尋ねています。そしてイエスさまが、また別のたとえを語られました。「私たち」というのは弟子たちです。それはやがてペンテコステの日に、教会となります。ですから、これは教会のために語られていると言っても良いでしょう。
 このたとえでも、主人がある僕に家の管理を任せて出かけます。ところが管理を任せられた僕は、主人の命令に忠実ではなく、下男や女中を殴り、食べたり飲んだりして酔っ払っていました。‥‥主人の意思に反して、まさにこの家を私物化してしまったのです。この僕が教会であるとしたら、教会の与えられた使命はなんでしょうか?‥‥それは伝道です。この世のすべての人をキリストのもとに招くということです。
 残念ながら、この世の教会の中にも争いが生じるのを、私はいろいろなところで見てきました。このたとえのように、殴るということはなくても、分裂や争いが生じる。そして、なぜそのような争いが生じるのかという大きな原因の一つに、伝道という使命にその教会が一致できないということがあります。伝道という使命を忘れて、内輪だけで人間の思いが優先されているうちに争いや分裂が生じ、教会が小さくなっていく。そういう例をいくつも見てきました。
 今日の聖書は、私たちの目を、終わりの日、キリストの再臨の時へと目を向けさせます。私たちにとって、終わりの日は、滅びの日なのか、それとも救いの日なのか。どちらなのか?‥‥そこを考えさせます。「こんな私が救われるはずがない。」まさにその通りです。しかし、救われるはずのないこんな私を救ってくださるのがイエスさまです。それゆえ、キリストの再臨という時を、希望を持って待つことができます。


(2013年10月20日)



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