礼拝説教 2013年10月6日

「心のありか」
 聖書 ルカによる福音書12章32〜34 (旧約 イザヤ書51章6)

32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」



K兄

 先週日曜日にA姉の葬式をK市にて執り行ったばかりですが、先週月曜日にK兄が天に召されました。そのことを携帯電話で知らされたのは、月曜日の午後4時過ぎで、ちょうど私が関西学院大学との会合を済ませたばかりの時でした。K兄は、その会合が終わるのを待っていてくれたのでした。
 K兄は多発性骨髄腫という癌の一種を患っておられました。余命1〜2年と宣告されたそうですが、先週まで13年間生きられました。昨年初めまでは、土曜日の会堂清掃の奉仕も欠かすことなく来ておられました。葬儀でもご紹介しましたが、当教会の創立60周年記念証言集に次のようなことを書いておられます。
 「私はこの病気を通して神の偉大な力と恵みを強く感じました。」そして、良い主治医が与えられたこと、生存率1〜2年と言われていたのが、病状が軽減してきたことなどを挙げられ、そして「私に病気を通してより人生について深く考える時を与え、病める人たちへの共感を持つことができるようになりました。若しこのことがなければ私は健康馬鹿で一生を終わっていたかもしれません」と書いておられます。
 治る見込みのない病気を抱えながらの闘病生活はたいへんであったと思いますが、その中にも主の恵みを見出しておられます。困難や苦しみの中にさえ、主の恵みを見出すことができる。ここに信仰のすばらしさがあるかと思います。

富のある所に心もある

 34節でイエスさまは、「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」とおっしゃいました。この「富」と日本語に訳されている言葉は、「宝の箱」という意味があります。口語訳聖書では「宝」と訳されていました。そのように、富とは、宝であり財産であり、値打ちのある大切なもののことです。それはお金であり、金銀宝石であり、お宝です。そして、その宝のあるところに、「あなたがたの心もある」とおっしゃいます。
 このことで思い出すのは、昔ヒットした映画「マルサの女」です。「マルサ」というのは脱税を摘発する国税捜査官のことです。その中で、女優の宮本信子扮する捜査官が、あるラブホテルの脱税の調査に乗り出します。変装したり、捨てたゴミを拾ったりして証拠を集めていきます。そして、やはりこのラブホテルが脱税をしているに違いないということになり、ある朝、抜き打ちで捜査官たちが社長の家の家宅捜索に踏みこみます。
 ところが、いくら捜しても、現金とか銀行の通帳とかの証拠が発見できないのです。捜査官たちは、次第にあせってきます。家の主人は、「脱税などしていない。秘密の通帳などない。」ととぼけているだけです。しかし、ある捜査官が、その社長である家の主人をじっと見ているのですね。すると、その社長が、ちらりと本棚のほうに目をやったのです。それを捜査官は見逃さなかったのです。本棚に仕掛けがあるに違いないとにらんで、その本棚を調べる。すると、そこに仕掛けがあって、本棚がじつはドアになっていて、本棚の奥に隠し部屋が発見されるのです。そこに、山のような金塊が見つかるのです。こうして、脱税が摘発された‥‥というストーリーです。
 社長が、チラリと本棚に目をやった。本棚のほうに目を向けなければ、この社長の脱税の証拠も見つからなかったわけです。しかし、やはり、見つかるのが心配で、チラリと見てしまったのです。‥‥なぜ、チラリとでも見てしまったのか? それは、彼の心がその奥の部屋の金塊にあったからです。「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」。まさにその通りであると言えましょう。

天に富を

 マルサの女では、脱税をしていた社長は、自分の家の隠し部屋に富を積んでいました。そこに金塊を積み上げることが彼の関心事でした。またこのイエスさまのお話しのはじめの所、16節からのイエスさまのたとえ話に出てくる金持ちの人は、自分の財産を蓄える倉を建てることに心がありました。そこにできるだけたくさんの穀物や財産を蓄えることが関心事でした。
 それに対してイエスさまは、33節で「富を天に積みなさい」とおっしゃっています。さて、「富を天に積む」というのはどういうことでしょうか?‥‥たとえ話に出てきたお金持ちの人のように「富を倉に積む」ということなら分かります。また、マルサの女のように、富を隠し部屋に積むというのなら分かります。あるいは、銀行に富を蓄えるということなら分かります。しかし、「富を天に積む」というのは具体的にはどういうことでしょうか?
 その言葉の前に、「自分の持ち物を売り払って施しなさい」という言葉があります。自分の持ち物を売り払って施してしまうことは、倉を建てて蓄えたり、隠し部屋を作って蓄えることとは全く逆のことです。たとえ話のお金持ちの人は、食べたり飲んだりして自分が遊んで暮らすために蓄えたのです。しかしそれを施してしまえば、せっかく蓄えたものがなくなってしまいます。せっかく安心して楽しく過ごすために蓄えたものが、施してしまったら、何のために蓄えたのか分からなくなってしまう。
 しかし、それは天に富を積んだのだと言われるのです。貧しい人に施しをする。あるいは、神さまの御用のために献げる。‥‥そうすると、当然自分の手持ちのものは少なくなります。しかし、それは天に富を積んだことになるのだと言われます。天に富を積んだと言っても、それは神さまがお金を喜ぶという話しではありません。神さまの求めるものは愛です。心です。
 インドのカルカッタの町で、貧しい人たちを救うために生涯をささげたマザー・テレサ。彼女がノーベル平和賞をもらって帰ってきたときのことでした。ある夜、ドアベルが鳴りました。マザー・テレサがドアを開けると、1人の男の人が寒さに震えて立っていたそうです。そしてその男の人はこう言ったそうです。「マザー・テレサ、あなたが大きな賞をお頂きになったと聞いた時、私も僅かですが何かさし上げたいと思い立ちました。これが今日私が(働いて)もらったすべてです。何卒、お受け取り下さい」。それは、たしかに僅かでした。でも、彼の持ちものすべてだったのです。マザーは、「それは、私にとってノーベル賞以上の感動を与えてくれました」と言っています。(『マザー・テレサ 愛と祈りのことば』、PHP研究所。1997.2.6、44頁)
 神さまへの愛、隣人への愛、それが天に富となって蓄えられるということです。

神が養ってくださる

 先週の個所で、イエスさまは、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」(22節)とおっしゃいました。「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」(31節)とおっしゃいました。それは、神さまが烏を養ってくださっているのだから、あなたがたも養ってくださる、だから心配しないで神の国を求めなさいと言われたのでした。
 自分で自分の生活のことをすべて心配しなければならないとしたら、やはり倉を建てて財産を蓄えることが目標となるでしょう。しかし神様が養ってくださるのだとしたら、必要以上に心配することはなくなります。いざとなったら神さまが必要なものを与えて下さる。自分のことで精いっぱいという状態から解放されて、神さまのために、そして隣人のために心を向けても大丈夫だということになります。

小さな群れよ

 32節で、イエスさまは「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」とおっしゃいました。
 私は、最初の任地である能登のW教会で、この御言葉にずいぶん励ましを受けました。W教会は、大正時代の創立で、私が赴任したときは創立75年ほどでした。浄土真宗の仏教と、大きな神社を中心とした神道の因習の強い土地でした。その上に、人口がどんどん減っている土地でした。洗礼を受けても都会に出て行ってしまうのです。ですから、長い間伝道がなされてきましたが、教会員は十数名という小さな教会でした。
 まだ駆け出しの伝道者であった私は、一体何をすればよいのか分かりませんでしたし、見ず知らずの土地での圧倒的に少数のキリスト者ということで、たいへん心細く思ったこともありました。そのようなときに、この御言葉が神の言葉として響いてまいりました。当時の口語訳聖書では次のようになっています。
 "恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。"‥‥この地にも神の国をくださる、神の国が現れる。それが父なる神の御心である。だから必ず教会は成長するのだ、と励まされました。
 逗子教会はどうでしょう。今、現住陪餐会員は164名です。それに対して逗子市の人口は、5万8千人あまりだそうです。逗子市内のすべての他の教派の教会員を合わせても、ちゃんと教会生活を送っているクリスチャンは千人いるでしょうか。W市よりもクリスチャンの割合がが一桁ほども多いとは言え、世間から見たら全然少ない数です。本当に小さな群れです。日ごろの生活を送っていても、まわりには教会とは関係のない方のほうが圧倒的に多いことでしょう。なにか、キリストを信じる信仰生活を送っているということが、普通ではないことのように思われることも多いでしょう。
 しかし主は言われます。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。‥‥この世に神の国が到来するのは、父なる神さまの御心です。この世のすべての人がイエスさまを信じて、神の国の住人となるのが神の御心です。私たちは、少し先に神の国へと導かれました。私たちの隣人の救いのために、主イエスを信じるようになるために、喜んで仕えていく者でありたいと思います。


(2013年10月6日)



[説教の見出しページに戻る]