礼拝説教 2013年9月29日

「悩む代わりにすべきこと」
 聖書 ルカによる福音書12章22〜32 (旧約 創世記22:7〜8)

22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。
23 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。
24 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。
25 あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
26 こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。
27 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
28 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。
29 あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。
30 それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。
31 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。



A姉

 先週25日の水曜日に、東京で療養生活を送っておられたA姉が天に召されました。96歳でした。当教会の60周年記念証言集に、A姉の証しも掲載されています。その中で、A姉がどうして教会に連なるようになったかということについて、次のようなことを書かれています。
 Aさんは教会のすぐそばに住んでおられたそうですが、あるとき豪雨によって水かさの増した川に息子さんが落ちて、行方不明になってしまったそうです。ちょうどご主人は海外に出張中で、子どもを守れなかった責任を感じ、苦しんで自殺を思い立ったりしたそうです。ラジオでこの事故が放送されたことで、いろいろな宗教が勧誘に来たそうです。このようなことになったのは先祖のたたりであるとか、あなたが罪を犯したためであるとか言うそうで、ますます責められているように感じたそうです。
 そんな時に、証言集では、Nさんが訪ねて来てと書いてありますが、木曜日にご遺族から伺ったところでは、当時の宮崎繁一牧師が、「あなたが罪を犯したのではなく、先祖のたたりでもない。教会に行って、知らなくてもよい。ただ神さまにお祈りしなさい。そうすれば安らぎが与えられる」と言われたそうです。それは、ヨハネによる福音書9章3節で、生まれつき目の見えない人に向かってイエスさまがおっしゃった言葉に基づくものです。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」 そしてAさんは、それ以来逗子教会に連なったと書かれています。先祖の罪も、私たちの罪も、すべてイエスさまが十字架にかかって背負って下さいました。私たちは、そのイエスさまによって罪を赦されたのです。

物があっても無くても

 聖書に入ります。この前の個所では、畑が豊作となったお金持ちのたとえがイエスさまによって語られていました。そこでは、物や財産がありすぎて、神さま抜きの人生を送ろうとしている人について語られていました。今日の個所では、反対に、ものも財産もなくて、心配のあまり神さまに心が向かない人について述べられています。
 これは、今日でも多くの人について言えることでもあるでしょう。この世のいろいろなことが心配で、神さまを信じようとしないということです。「今は、神さまを信じるなどと閑なことをしている状態ではない」「不安と心配で、神さまどころではない」‥‥例えばそういうようなことです。
 今日の聖書の22節でイエスさまは、「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」と言っておられます。注意しておきたいことは、「何を食べようか、何を着ようかと思い悩む」というのは、あれこれといろいろ食べる物がある中で「何を食べようか」と悩む、ということではありません。「今日のランチは、ラーメンにしようか、カレーにしようか、悩んでしまう」ということではないのです。「何を着ようかと思い悩む」というのも、「青い服を着ていこうか、赤い服を着ていこうか、悩む」ということではありません。そんな呑気な話しではないのです。
 ここで言われているのは、「お金がなくなって、食べる物がなくなってしまった。どうしよう」というような、ギリギリの状況のことを言っているのです。「一張羅の着る物がボロボロになってしまった。しかし新しい物を買うお金もない。どうしよう」というような状況です。そういうところに追い込まれたら、誰も思い悩まないではいられないでしょう。問題は、そのような状況の中でも、神さまを信じることができるか、ということです。私たちは神さまを信じても良いのか、ということです。もしそのようなギリギリの状況の中で、神さまを信じる意味がなければ、結局信仰は暇つぶしに過ぎなくなってしまうことでしょう。

何があなたを養うのか

 これらの問題は、言ってみれば「神さまを信じて、食っていけるのか?」ということだと言えましょう。神さまを信じるということが、単なる精神的な慰めなのではなく、私たちが生きなければならないという現実に対して、力となるのかということです。それは私たち人間にとって、決定的な関心事です。神を信じることによって生きて行くことができるのか?‥‥この私たちの問いに対して、イエスさまは、大丈夫だとおっしゃっているのです。
 「烏のことを考えてみなさい」と主は言われます。神さまは烏を養ってくださっているというのです。烏は種も蒔かないし、刈り入れもしない、納屋も倉も建てない。でも神さまは烏に必要なものを与えて、生かしていてくださると。それなのになぜあなたがたは、もっと大きな倉を建てて蓄えることに人生を費やしているのか、と。
 カラスは、どこにでもいる鳥なのだなあと思います。イエスさまの時代のユダヤにもいた。今のこの日本にもいます。生ゴミをあさって、嫌われ者です。イエスさまの時代でも、カラスは穢れた鳥の中に入れられています(レビ記11:15)。そんな穢れた鳥とされ、嫌われ者のカラスでさえ、神さまはちゃんと生きることができるように配慮し、養っていてくださるというのです。ましてや、あなたがたは鳥よりも価値があるのだと、主イエスは言って下さいます。だから養って下さるのだと。だから思い悩む必要はない、と。
 これは、何かイエスさまが、思い悩まずに遊んでいなさい、怠惰な生活を送りなさい、と言っておられるのではありません。カラスはカラスなりに、いっしょうけんめい生きているんです。そのように、私たちもいっしょうけんめい生きています。しかし、いくらいっしょうけんめいがんばっても、どうすることもできないということがあります。人間にはどうすることもできない。その時、この言葉を語られたイエスさまを信じるならば、神さまが養って下さるということです。背後に神さまのご配慮を期待できるのだ、ということです。

何を見るのか

 イエスさまは、カラスを見よといわれる。野の花を見よといわれます。もちろん、いくらカラスを見てもカラスはカラスですし、野の花を見ても、それは単なる野の花です。ではイエスさまはここで何を見よとおっしゃっているかと言えば、烏や野の花の背後におられる方を見よ、とおっしゃっていることが分かります。
 イエスさまは、それらのものの背後におられる神さまを見ておられるのです。私たちは神さまを見ようとしているでしょうか? カラスを見たときに、私などは、「またゴミを散らかさないかなあ」と言って見てしまうのですが、カラスでもスズメでもけっこうです。こんな鳥さえも養ってくださる神さまを見なさいとイエスさまはおっしゃっているのです。そこらに勝手に咲いている野の花を生かし、きれいな花を咲かせてくださるのが実は神さまであり、その神さまを見なさいとおっしゃっているのです。
 もしそれらの背後に神様がいて、守っていて下さるのを見ることができるのならば、私たちの背後にも神さまがおられて、守っていてくださる。そういうことです。すべてのものの背後に神さまがおられて、導いてくださる。このことを信じることができれば幸いです。

神の国を求める

 そしてこれらの言葉を語られたイエスさまを信じるならば、神さまが養ってくださると約束してくださっています。わたしたちは、「生活が第一」と考えます。「神の国を求める」のは、生活の心配が無くなってから、と考える人が多い。しかしここでイエスさまは、順序を逆にしておられます。「まず神の国を求めなさい」と言われます。「では生活はどうするの?」という問いに対しては、「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」と約束なさっています。
 生きるために必要なものは、神さまが与えて下さるから、まず神の国を求めなさいと。だから、何を食べようか、何を飲もうかと思い悩んで心配する必要はないのだと。
 先日、友人の牧師からメールをもらいました。それは主の助けを証しするメールでした。彼のお母さんは遠くに一人で住んでいます。そのお母さんが倒れて入院したそうです。それはもう大丈夫だそうですが、認知症であることが分かったそうです。それで独り暮らしはとても無理ということになり、施設に入居することになりました。しかしどこの施設も入居の順番待ちですぐには入ることができない。しかし、退院の日は迫っている。といって、認知症のお母さんを独り暮らしに戻すことはできない。困り果てました。お母さんの入院している郷里の町に戻ったとき、彼は高校時代に祈っていた場所に行って神さまに祈ったそうです。
 その時、あることが祈りの中で示されたそうです。それは、「近くに、キリスト教の施設がある」「教会に電話してみなさい」‥‥ということだったそうです。それでさっそく母教会の牧師に電話すると、「ありますよ、すぐ近くです。施設長に電話しておきましょう」という返事だった。なんと、彼の実家から車で15分くらいのところに、教団関係の施設があることを知りました。それまでそんな施設があることを、全然知らなかったのです。「主が示してくださらなければ、絶対に知ることはできませんでした」と彼はメールに書いていました。早速、施設長に面会を申し込んだそうです。その施設長は牧師だったそうです。さらに、その施設には、かつてお母さんと一緒の教会にいた方も入居しておられた。さらに、母教会に籍を置くクリスチャンの職員もいたそうです。そして「ケアハウスが開くまで、ショートステイで待っていて下さい」と言われ、とりあえずショートステイに入ることができたそうです。そして、彼はメールに書いていました。「主が、何もかも備えてくださっていました。主の御名を崇め、恵みに感謝します。 」
 私はこの報告を読んで、私も主を賛美しました。主イエスはおっしゃいました。(31節)「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」 主の御名をほめたたえます。


(2013年9月29日)



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