礼拝説教 2013年9月22日

「先見の明」
 聖書 ルカによる福音書12章13〜21 (旧約 創世記10:14)

13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」



遺産を分けて

 迫害ということについてイエスさまがお話になっているところでした。イエスさまを信じて弟子となったために迫害される。イエスさまは「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」とおっしゃいました。たいへん緊張感あるお話しです。そのようなときに、イエスさまのお話しを聞いていた群衆の中から一人が声を挙げました。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。迫害とに関わる緊張感ある信仰の話をしておられたのに、これはまたいっぺんに世俗のことに引き戻されたような言葉です。
 遺産。それは往往にして、それまで仲の良かった兄弟同士が、ひどく争い、いがみ合うようになりかねない問題です。この人は、親が死んだあと、おそらくお兄さんが遺産を独り占めにしてしまって、自分に分けてくれないのでしょう。しかしそれにしてもなぜこの人は、イエスさまに対して遺産をめぐる争いの仲裁をしてくれるように頼んだのでしょうか?‥‥まず、当時ユダヤでは、自分の尊敬するラビ(聖書の先生)に、このような遺産の調停を依頼するということはよくあったようです。イエスさまも、ラビの一人であるとみなされていたようですから、この人がイエスさまに仲裁を頼むのは特におかしいことではないと言えるでしょう。
 しかし、なぜこの緊迫したお話しをなさっているときに、この人は頼んだのか。それは、ここまでのイエスさまのお話しを聞いていて、イエスさまに非常な権威のあることを感じ取ったからではないでしょうか。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。誰を恐れるべきか教えよう。それは、殺したあとで、地獄に投げ込む権威を持っている方だ」とおっしゃったイエスさま。そのようなイエスさまのお話しを聞いていて、この地上にはない圧倒的な権威をイエスさまが持っておられるのを感じたのでしょう。そしてその権威をもって、兄を説得してもらえば、兄もいうことを聞くに違いないと思ったのではないかと思います。

イエスの答え

 すると、イエスさまは「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」とお答えになりました。これはまことにつれないお答えのように聞こえます。「そんな問題には関わりたくない」ということでしょうか。あるいは、「そんな俗世間のことなどどうでも良いのだ」ということでしょうか?
 もしそうだとしたら、私たちはイエスさまのお名前で祈ることの多くがムダになってしまうでしょう。私たちは、この世の中で生きているので、この世の中のことで悩みます。いろいろと困ることが起こってきます。そういう時に、イエスさまのお名前によって神さまに祈るのではないでしょうか。
 私も、高校生の時は「大学受験に合格させて下さい」と言って真剣に祈りました。クリスチャンの社長と一緒に仕事をしていた時は、「仕事を回して下さい」と祈り、「事業が発展するように」と祈りました。神学生の時は、「生活に困らないように助けて下さい」と祈りました。また結婚のことも祈りました。病気になれば「癒してください」と祈りました。そのような生活の一つ一つについて、私たちは神さまに祈ります。ですから、もしイエスさまがこの時、「遺産を分けてくれるように兄弟に言って下さい」という求めについて、「そんな俗世間のことなどどうでも良いのだ」という意味でお答えになったのだとすれば、私たちが祈っていることの多くがムダになってしまうでしょう。
 しかし、イエスさまがそのようなことをおっしゃったのではないことは明らかです。なぜなら、イエスさまは、私たちの生活の隅々のことまでご存知であり、心配して下さる方であるからです。また、聖書には例えば次のようなみことばがあります。‥‥(フィリピ4:6)「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」‥‥自分で思いわずらうのではなく、なんでも神さまに祈り願いなさい」と言っています。

貪欲

 ではイエスさまは、なぜ「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」とおっしゃったのでしょうか。
 イエスさまは続いて人々におっしゃいました。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」(15節)。
 これは、何かこの人に追い打ちをかける言葉のようにも聞こえます。兄弟に遺産を分けてくれるように頼んだこの人が、「貪欲」であるというように言っておられるように聞こえます。いったい、遺産を分けてくれというのが、どうして貪欲なのか?
 そこでこの「貪欲」と日本語に訳されている言葉に注目してみます。ギリシャ語学者の織田昭先生によれば、実はここで「貪欲」と日本語に訳されているギリシャ語は「プレオネクシア」というのですが、日本語に訳すことが難しい言葉だそうです。だから「貪欲」という言葉をあてる他なかったそうです。「貪欲」というと、飽くなき強欲という感じがしますが、ここは言ってみれば、「心が一つの問題に囚われて、その一つの問題や苦痛が自分のイメージ通りに取り去られるまでは満足できないで、『私ほど不運な者があろうか!』と思い続ける執念のような欲求」であるということです。
 すなわち、「その一つのことしか見えない」ような欲求不満のことを言っているということだそうです。そう考えると、イエスさまが、ここでいわれた意味が分かってまいります。「強欲」というイメージのある日本語の「貪欲」とは違うのです。例えば、遺産のことに執着してしまって、そのことしか見えなくなっているような欲求です。
 もう神さまのことも見えなくなってしまっている。そのような人に対して、神さまに目を向けさせようとなさっているのが、ここのイエスさまです。だからイエスさまは、この「遺産を分けてくれるように兄弟に言って下さい」と頼んだ人のことを「貪欲」だと言って非難されたのではありません。遺産を分けてもらいたいという気持ちは分かるが、そのことだけに心が行ってしまって、神様が見えなくなってしまっている。‥‥そのことをイエスさまは、忠告するためにおっしゃったと言えるでしょう。
 そのように「貪欲」という言葉を解釈すると、イエスさまが言われた意味が見えてきます。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」

たとえ話

 そして続けてイエスさまは、たとえ話をなさいました。このたとえ話自体は、分かりやすいものです。「ある金持ち」と言われていますから、最初からこの人はお金持ち、資産家だったのです。そしてさらに豊作となりました。だから彼が考えたように、今ある倉を壊して、もっと大きい倉を建て、そこに穀物や財産をしまえば良いというのは、誰でも考えそうなことです。さらに、たくさんの蓄えができたのですから、彼がひとりごとを言ったように、「食べたり飲んだりして楽しめ」というのも普通のことでしょう。もっともわたしたちの多くは、そんな多くの蓄えがないわけですから、そういうことができないだけであって、もし私たちにもばく大な蓄えができたとしたら、同じように言うでしょう。
 しかし神さまは、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われたというのです。「愚か者」であると言われるのです。一体この金持ちの、どこが「愚か」なのでしょうか? 何が間違っているのでしょうか? 誰でも彼と同じことをしたいと思うのではないでしょうか?
 彼の言ったことを少し丁寧に見てみますと、この聖書には翻訳されていませんが、実は、「わたしの」「わたしの」という言葉が繰り返し出てくるのです。17節では「わたしの作物」、18節では「わたしの倉」、そして「わたしの財産」という具合です。すなわち、彼にとってはすべて「わたしの物」なのです。神さまのものではない、「わたしの物」!
 先ほど「貪欲」ということについて説明しましたが、まさに自分のことしか見えていない、自分を楽しませる欲望だけに執着しているのです。すべては自分のものです。そして、自分を休ませ、楽しませてくれる物は、自分の財産であると言っている。神さまが休ませ、神さまが平安を与えてくれるのではなく、自分の財産であると。だから彼にとっては、命も「わたしのもの」だったことでしょう。しかし、今夜この人の命が取り上げられたときになって、初めて、命が神さまのものであることが分かることでしょう。そして、すべては神さまから与えられたものであったことが分かるでしょう。「わたしの物」だと思っていたが、そうではなかった。実は神さまのものであったことが。
 「先見の明」という言葉があります。この金持ちは、大きな倉を建てて長年食べていくことのできる蓄えをため込んだのですから、先見の明があるように見える。しかしそうではなかったのです。本当の先見の明とは、神さまを信頼することであるということです。
 もし命が神さまのものであると信じていたとしたら、今夜私たちの命が取り上げられても大丈夫です。神さまの所に戻されるのですから。しかし、自分の命は自分のものであると思っていたら、どうでしょう。死んだら私たちはどうすることもできません。自分の命を自分で救うことができません。

神の前に豊かに

 最後に主イエスは言われました。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」 さて、「自分のために富を積む」ということの意味は分かります。このたとえ話の金持ちがそうです。しかし「神の前に豊かになる」というのはどういうことでしょうか?
 ここの「神の前に」という言葉は、「神に対して」とか「神に向かって」という意味があります。神さまのほうを見ているんです。それに対して、このたとえ話の金持ちは、「わたしの物」「わたしの財産」と、全部自分のものであって、自分しか見ていない。‥‥神さまのほうを見ているのか、それとも自分ばかり見ているのか、ということになります。
 メソジスト教会の創始者であるジョン・ウェスレーは、できるだけ節約し、最大限に与えることがモットーでした。ウェスレーがオクスフォードにいた頃、年額30ポンドの収入があったそうです。(そのころの1ポンドが、現在のどれほどの額になるのか私は知りませんが。)彼は28ポンドで生活し、残りの2ポンドを寄付しました。収入が年額60ポンド、90ポンド、そして120ポンドと増えても、彼は相変わらず28ポンドで生活し、残りを寄付に回したそうです。(ウィリアム・バークレー注解)
 これは神さまの前で豊かになることの一つの例でしょう。それに対して、神さまの方を向いておらず、自分を富ませることだけに執着している。それを神さまは「愚か者」と言われるのです。
 昨日の「ローズンゲン」の聖句は、詩編139編17節が選ばれていました。それはダビデの詩でした。それを読んだとき、まさに今日のこの礼拝の聖書個所が思い起こされました。‥‥(詩編139:17)「あなたの御計らいは、わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。」 ダビデは、自分の歩みを振り返った時に、神の御計らいがいかに多かったか、神さまのお守り、恵みがいかに多く与えられたかを思い起こしています。私たちも、私たちの気がつかない神さまの恵みがいかに多く与えられてきたかを数えなくてはなりません。
 私たちは、この世で生活しているので、いつの間にかこの世の考え方に押し流されてしまい、神さま抜きで物事を考えてしまい易いのです。神さまの方を向いて、神さまの招きに答えて生きる。神様からいただいた恵みを、神さまにお返ししながら歩んでいく。そのことへと招かれています。


(2013年9月22日)



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