礼拝説教 2013年9月15日/敬老祝福 教会学校との合同礼拝

「身を預ける」
 聖書 ルカによる福音書12章8〜12 (旧約 エレミヤ書15:16)

8 「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。
9 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。
10 人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。
11 会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。
12 言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」



敬老合同礼拝

 今日は年に一度の、教会学校との合同礼拝です。いろいろな年齢の人がここに集まっています。教会学校のみなさんから見ると、ひいおじいさん、ひいおばあさんぐらいの歳の方もいます。おじいさん、おばあさんの歳の方もいます。お父さん、お母さんぐらいの人もいます。お兄さん、お姉さんぐらいの人もいます。弟や妹ぐらいの人もいます。あかちゃんも‥‥います。
 学校には、こんなにいろいろな歳の人がいるでしょうか?‥‥いませんね。生徒はみなさんと同じぐらいの年齢の人ばかりだし、先生にも、おじいさんぐらいの人はいても、ひいおじいさんぐらいの人はいません。また、幼稚園・保育所の子供もいません。
 会社はどうでしょうか?‥‥いません。子どもはいませんし、おじいさんおばあさんもほとんどいません。小学生のみなさんが、「会社に就職させて下さい」と言っても、「おとなになってからね」と言われてしまうでしょう。
 そう考えると、教会というのはすごいところだと思います。赤ちゃんもいれば、幼稚園・保育所の子もいるし、小学生中学生もいるし、おじいさんおばあさん、ひいおじいさんひいおばあさんもいます。しかも皆一つに集まっています。どうして教会は、こんなにいろいろな人がいっしょに集まっていることができるのでしょうか?
 それは、イエスさまがおられるからです。イエスさまは、どんな人でも招いて下さるからです。そしてイエスさまは、どんな人にも友となって下さる方です。教会はイエスさまを中心とした神の家族です。

知っているのに知らないと

 今日の聖書は、いつものこの礼拝で読んでいるルカによる福音書の続きです。イエスさまが弟子たちに教えておられるところです。8節と9節をもう一度読んでみましょう。「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないという者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。」
 ここで言われている「人の子」とは、イエスさまのことです。私たちは、イエスさまによってここに集まっています。イエスさまのことを信じています。あるいは、信じようとしています。イエスさまのことが好きです。イエスさまが私たちを「仲間」にしてくださっています。本当にすばらしいと思います。ですから他の人たちの前で、「あなたはイエスの仲間ですか?」と聞かれたら何と答えますか?あるいは、「イエスって言う人知っている?」と聞かれたら?‥‥「そうですよ」、「知っていますよ」と答えるでしょう。知っているのに、「知りません」なんて答える人はいないでしょう。
 しかしです。もし、イエスさまの仲間だと分かったら、いじめられる、あるいは殺されるかもしれないとしたらどうでしょうか? 例えば学校で、誰かがいじめられているとします。そしてそのいじめられている子の仲間だというと、自分もいじめられるかもしれない。そういう時に、「お前も仲間か?」と聞かれたら、何と答えるでしょうか?
 イエスさまの仲間である、イエスさまを信じている‥‥そういうことが分かると、いじめられたり、もしかしたら殺されるかもしれない。もしそういうことだとしたら、どうしますか?「お前もイエスの仲間か?」「お前もイエスを信じているのか?」と聞かれたら、何と答えますか? 「そうです」と答えるのには、かなり勇気がいると思います。もしかしたら「知りません」と答えてしまうかもしれません。知っているのに、知らないと答えてしまうかもしれません。
 しかしここでイエスさまがおっしゃっているのは、「しかし人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」ということです。分かりやすく言えば、「イエスさまなんて知りません。仲間ではありません」と答えた人は、天国に行った時に、「あなたのことは知りません」と言われてしまうということです。出て行ってください、ということです。たいへん困ります。

イエスを知らないと言った弟子

 さて、実はイエスさまの弟子の中に、イエスさまなど知らないと言った人がいるのです。しかもイエスさまのいちばん近くにいた弟子です。イエスさまに愛され、イエスさまといつも一緒にいた弟子です。それは、ペトロです。そんな馬鹿な、と思いますか。ペトロはいつもイエスさまのいちばんおそばにいました。イエスさまを信じて、漁師の仕事を捨ててイエスさまに従ってきました。イエスさまに愛されていました。しかも、イエスさまが最後の食事を弟子たちと共にとった時、イエスさまは、ペトロが今晩イエスさまのことを3度も知らないと言うと、予告なさいました。するとペトロは、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」「あなたのためなら命を捨てます」と答えました。
 ところがです。本当にその夜に、イエスさまがその後逮捕されました。何も悪いことをしていなかったのにです。そして大祭司の家に連れて行かれました。そこでイエスさまが取り調べを受けている時です。イエスさまのことが心配になって後からこっそりついていったペトロも、大祭司の家の中庭にいました。ペトロのそばにいた人がペトロを指さして「この人もイエスと一緒にいました」と言いました。するとペトロは、「わたしはあの人(イエス)を知らない」と答えたのです。ペトロは、自分も捕まると思って怖くなり、そのようにウソを言ったのでしょう。イエスさまに、あんなに愛されていたのに、信じていたのに、「知らない」と!
 また少したって、他の人がペトロのことを「お前もあの連中の仲間だ」というと、またもやペトロは「いや、そうではない」と言ってしまいました。そしてさらに、別の人が、「たしかにこの人もイエスと一緒だった」というと、ペトロは「あなたの言うことは分からない」と言いました。するとイエスさまが予告したとおりに、夜明けを告げるニワトリが鳴きました。
 そのようにペトロは、イエスさまのことを3度も「知らない」「仲間ではない」と言ったのです。ですから、9節に書かれているように、天国に行ったときにペトロはイエスさまから、「あなたのことなど知らない」と言われて当然です。天国に入れてもらえないでしょう。
 そうしてイエスさまは十字架にかけられて、死んでしまいました。ペトロは、どんなにショックだったことでしょうか。取り返しのつかないことをしたと思ったことでしょう。自分がイエスさまのことを知らないと言ったまま、イエスさまにあやまる機会もなく、イエスさまが死んでしまわれたのです。

赦すイエス

 ところが、そのイエスさまが復活なさいました。十字架で死んで墓に葬られたけれども、よみがえられたのです。そして弟子たちが集まっているところに復活したイエスさまが来て下さいました。弟子たちは、イエスさまが捕まるとき、皆イエスさまを見捨てて逃げて行った人たちです。
 けれどもイエスさまは、「お前たちなんか、知らない」とはおっしゃいませんでした。「あなたがたに平和があるように」と、喜びの挨拶をして下さいました。そして弟子たちを赦してくださいました。そしてもう一度弟子にして下さいました。ペトロも赦されました。それどころか、教会のリーダーとなる大切な役割を与えてくださいました。
 そのように、イエスさまのことを「知らない」と言ったのですから、本当は今日の聖書に書かれているように、ペトロも他の弟子たちも、イエスさまから「知らない」と言われても仕方がないはずですし、神さまから見捨てられてもしようがないのですが、イエスさまは赦してくださったのです。
 それがイエスさまという方です。もし私たちが、友達から「お前なんか知らない。仲間ではない」と言われたら、どんなにショックでしょうか。もう絶交だ、と言うでしょう。しかしイエスさまは違います。私たちがイエスさまを見捨てても、「知らない」と言っても、どんなにひどいことを言っても、イエスさまは私たちを見捨てません。

聖霊によって

 そのイエスさまのところに私たちを連れて行ってくださるのが聖霊です。だから聖霊が大切なのです。聖霊などいらない、と言ったら、誰もイエスさまのところに連れて行ってくれません。聖霊は目に見えません。でも、いつも私たちのそばにいて下さいます。そして助けて下さいます。どんな時も私たちを見捨てません。だから私たちは、いつもイエスさまのお名前によって神さまにお祈りすることができるのです。


(2013年9月15日)



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