礼拝説教 2013年9月1日

「恐れて恐れない」
 聖書 ルカによる福音書12章1〜7 (旧約 列王記上18:16〜18)

1 とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。
2 覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。
3 だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」
4 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。
5 だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。
6 五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。
7 それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」



恐れてはならない

 イエスさまは、4節で「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」とおっしゃいました。ものすごく強烈な言葉です。一度聞いたら忘れられないような言葉です。私たちはいろいろのことを恐れます。それに対してイエスさまは、「体を殺しても、それ以上何もできない」とおっしゃいます。
 「体を殺しても、その後それ以上何もできない者ども」というのは人間のことです。これは、この前の個所の最後のところ、イエスさまとファリサイ派、及び律法学者との会話によって、ファリサイ派と律法学者たちが、イエスさまに対して激しい敵意を抱き、イエスさまを捕らえる機会を狙っていたということと関係しています。つまり、イエスさまが迫害をされるようになる。そしてやがて、イエスさまの弟子たちも迫害をされるようになる。そのことを見越しておっしゃっていると言えます。

偽善に注意

 1節から見てみましょう。イエスさまの所におおぜいの群衆が集まってきました。そしてその群衆を前に、弟子たちにお語りになったのがきょうの聖書個所です。イエスさまはまず「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」とおっしゃいました。そしてそのファリサイ派の人々のパン種とは何かというと、「偽善である」と言っておられます。
 パン種というものは、前回パンを作ったときの小麦粉を練ったものを一部残しておいたものです。そのパン種の中には、酵母菌がまざっています。そのパン種を、新しく小麦粉を練ったものに混ぜると、酵母菌が発酵してふくらみます。そのように、少しの分量で全体を大きく膨らませる、すなわち大きく変えてしまうことを言います。
 イエスさまはここで、偽善がファリサイ派の人々のパン種であると言っておられます。偽善という言葉は、ギリシャ語では「演技」とか「芝居」という意味です。芝居というものは、その役を演じるわけです。そのように、ファリサイ派の人々は、立派な宗教家、敬虔な信仰者を演じているのだというのです。
 実際はそうではないのに、いかにも敬虔な信仰者を演じている。なぜそんなことをするのでしょうか?‥‥それは人からの評判を気にしているからでしょう。人から、「さすがはファリサイ派の先生。立派な人だ。」「律法をきちんと守っている」「すばらしい」‥‥そのように人々から見られたい、言われたい。それが、立派な宗教家を演じる動機になっているわけです。それで、11章27節からの個所のように、ファリサイ派の人々は外見をよく見せようとしていた。しかし心の中は、全然清くない。それが偽善というものです。
 そのように、偽善者というものは、自分がほめたたえられることを求めます。しかし信仰はそれとは全く正反対のものです。信仰者は、自分がほめたたえられることを求めるのではなく、ただ神さまがほめたたえられることを願い求めます。「この私のようなどうしようもない罪人を救ってくださったイエスさまはすばらしい!」と告白するのが信仰です。
 そもそも、偽善は神さまの前には全くムダです。2節で「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」と言われていますが、いくら見かけだけ自分をよく見せよう、神を信じているように見せようと思っても、神さまにはお見通しです。「暗闇で言ったこと」も、小声で本音をささやいたつもりでも、屋根の上で大声で言い広められるほどに、神さまにとっては同じことであり、神さまは心の中までお見通しです。
 だから私たちは、偽善ではなく、本音の信仰で生きるしかありません。「不信仰な私をお助けください」と神さまに申し上げ、助けを求める以外にはありません。

恐れるべきお方

 そして続けて最初に申し上げた、4節の言葉をおっしゃいます。「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」。
 イエスさまは、ここでまず「友人であるあなたがたに言っておく」とおっしゃっています。先生から弟子に命令する、と言うのではありません。弟子たちを「友人」とおっしゃってくださる。先生として弟子たちに語るのと、友として友に語るのとでは、ずいぶん違うように思います。会社の上司が部下に言うのと、友達に語るのとでは全然違うでしょう。そしてここでイエスさまは弟子たちに対して、「友」としてお語りになっている。つまりそれは、友人として、親しげに心から本音を言っておられるということでしょう。
 ですから、「体を殺しても、それ以上何もできない人たちを恐れる必要はないんだよ」というような感じでしょうか。親しみを込めておっしゃっているのです。イエスさまが迫害されて十字架につけて殺される。そしてやがて、弟子たち、そして教会が迫害にさらされることになる。しかしそれを恐れる必要はないとおっしゃっているのです。
 しかし私たちは、体を殺されることを恐れます。体を殺されるということは、死ぬということです。それを私たちは普通、もっとも恐れます。ですから、私たちを殺そうとする人々を恐れます。「恐れるな」と言われても、やはり恐れます。
 しかし今日の聖書をよく読むと、すべてのものを恐れるなとおっしゃっているのではないことが分かります。5節です。=「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」 それは神さまのことです。神さまを恐れよとおっしゃっています。この神さまを恐れることによって、体を殺そうとするものを恐れる必要がなくなるというのです。神さまを恐れることによって、すべてのものについて恐れる必要はなくなると言ってもよいでしょう。
 この「恐れる」という言葉ですが、日本語では「恐怖」の「恐」、「恐ろしい」という字が使われています。しかし日本語で「おそれる」と言った場合には、「恐ろしい」という意味の「恐れる」と、もう一つ、「畏敬の念を抱く」、または「畏れかしこむ」の「畏れる」という字があります。こちらの場合は、「恐怖」ではなく、「畏敬の念を抱く」という意味になります。ここのギリシャ語の単語を見ると、両方の意味が含まれています。つまり日本語では、「恐ろしい」の恐れると、「畏敬の念を抱く」の畏れるの二つの意味がありますが、ギリシャ語では一つです。だからどちらともとれます。
 そのようなことを踏まえて言えば、ここでは、本当に私たちが畏れるべきお方である神さまを畏れ敬うならば、私たちが畏れていることも畏れる必要はなくなる。そういうことをおっしゃっていると言えます。逆に、私たちが本来恐れなくてもよいものを恐れているのは、本当に畏れ敬うべきお方である神さまを恐れ敬っていないからだということになります。

死を恐れない

 「殺したあとで、地獄に投げ込む権威を持っておられる方」。たしかにそれこそ本当に恐ろしいことであるに違いありません。しかし同時に、体が死んだあとに、永遠の神の国に迎え入れてくださるのもまた神さまです。
 先週、長崎の教会とキリスト教関連遺産が、ユネスコの世界遺産の暫定リストに追加掲載が決まったニュースが報道されていました。江戸時代、日本でもキリスト教が激しく迫害されました。長崎は多くのキリシタンの殉教者を出した地であり、また迫害をくぐり抜けた隠れキリシタンの地でもあります。戦国時代に、一番初めにキリシタンとなった大名は、今の長崎県の大村藩主の大村純忠です。それで長崎県に、多くのキリシタンが生まれました。しかしやがて徳川幕府の時代となり、キリスト教は激しく迫害されることとなりました。
 1657年、島原の乱が終わって18年しかたっていないとき、「郡(こおり)くずれ」と呼ばれる事件が起きました。郡村にキリシタンがいるという密告があり、それをもとに付近の村も含めて608名のキリシタンが逮捕されました。そして結局、打ち首になったものが411人、牢屋で死んだ者が78人、永牢20人、踏み絵を踏んで赦免となった者が99人ということになりました。
 あまりに大勢のキリシタンを打ち首にしたために、大量の返り血を浴びた首切り役人が、ため息をついて、「キリストは救い主だと言うが、自分も救わなかったぞ。お前たちはどうして踏み絵をして助かろうとしないのか。もうイヤになった、助けてくれ」と言いました。すると一人のキリシタンが、「お役人様、私たちが踏み絵をしないで処刑されるのは、天国があることと、復活があることを皆さまに知らせて、皆さまもイエス様を信じて、天国に行ってもらいたいためなのです」と言って首を差し伸べたということです。(田中菊太郎著、『キリシタン殉教の道を辿る』、マルコーシュ・パブリケーション刊)
 私たちのこの日本で、かつてこのように、イエスさまがおっしゃったとおりに、「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れ」ずに、永遠の天国を証ししていった多くのキリスト者がいました。

一羽のスズメさえも

 私たちは、江戸時代のキリシタンの殉教の話しを聞くにつれ、「ああ、自分はそこまでの信仰が無い」と思うのではないでしょうか。「私はやはり体を殺そうとするものを恐れる」と思うのではないでしょうか。その本音を無理にごまかせば、偽善者となってしまうでしょう。
 私は、キリシタンが信仰を捨てずに殉教していったのは、そのキリシタンたちが偉かったと言うよりも、主が彼らの信仰を守ってくださったからだと思います。その信仰は聖霊の業であり、神さまのなさった奇跡です。そしてその同じ聖霊なる神さまが、私たちにも働いていてくださっていることを信じたいと思います。
 「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と主はおっしゃっています。5羽のスズメが、200円程度で売られていた。それは生き物と言うより、安い商品です。スズメが一羽、死のうが生きようが、誰も気にも留めません。それぐらいどうでもよいのがスズメ一羽です。しかしそのスズメ一羽でさえも、神さまは覚えておられる。命を与えて、ちゃんと導いてくださっている。
 そしてイエス様は、この不信仰で弱い私たち一人一人が、スズメよりもまさっているとおっしゃってくださるのです。実を言うと、私は、時々「スズメのほうが自分よりもまさっている」と思うことがあります。なぜなら、スズメは悩むことなく、文句を言うこともなく、精いっぱい生きているように見えるからです。だから、自分よりもスズメのほうが価値があるとさえ思うのです。スズメが生きても死んでも、誰も気にも留めないのと同じように、この自分が生きようが死のうが、世の中から見たら何の関係もないでしょう。そうすると、スズメも自分も似たようなものだと思います。
 しかしイエスさま、そして神さまから見たら違うと言うことです。神さまから見たら、驚くことに、この私というもののほうが、スズメよりもまさっている、価値があるとおっしゃるのです。そして、神さまは、私たちの髪の毛一本までも数えてくださっているとおっしゃるのです。それぐらい心に留めていてくださる、と。御子イエスさまの命に代えても惜しくはないのだと!
 私たちはそのように神さまによって愛されています。こんな私、私たちのような者が愛されているのです。その神さまが、私たちの恐れを取り除いていってくださるのです。「私は神さまによって覚えられている」と言うことを心に留めて歩む一週間でありますように!


(2013年9月1日)



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