礼拝説教 2013年8月25日

「責任と謙遜」
 聖書 ルカによる福音書11章45〜54 (旧約 イザヤ書59:16)

45 そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った。
46 イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。
47 あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。
48 こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。
49 だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』
50 こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。
51 それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。
52 あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」
53 イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、
54 何か言葉じりをとらえようとねらっていた。



福島訪問

 先週、教団の教師委員会のメンバー4人で、福島県の浜通りと中通りの教会をお訪ねしてきました。震災のあと私が福島県の教会に行くのは、これで3回目となりました。ご存知の通り、福島県は、あの大地震と津波の被害のみならず、福島第一原子力発電所の事故に伴う放射能の災害に見舞われました。そして今なお、多くの人々が放射能への不安を抱えながら生活しています。
 昨年、当教会がバザーの収益金の一部をおささげした南相馬市の鹿島栄光教会と原町教会も伺ってきました。教会員が数名の鹿島栄光教会は、新会堂が完成していました。原町教会でも、幼稚園を守りながら歩んでおられました。そして今回初めて、避難指示解除準備区域にある小高伝道所と、帰還困難区域にある浪江伝道所に行くことができました。いずれも原発事故以来、住民が避難を余儀なくされて、誰も住んでいない区域です。教会も撤退を余儀なくされました。
 小高伝道所は幼稚園を併設していましたが、もちろん無人で扉は閉められ、園庭は草が生い茂っていました。さらに原発に近い浪江伝道所に行きました。そこは「帰還困難区域」にあるので行くことができないと思っていたのですが、原町教会の朴先生が、事情を話して役場で許可をもらえば行けるだろうとおっしゃったので、行ってみることにしました。車で町役場のあたりまで来ると、警備員に止められました。事情を話すと、役場で許可をもらってくださいということでしたので、役場に入って区域内に入る目的と、入る人の氏名を書き、通行証というものをもらいました。(これです。)
 そして1キロほど車で行くと、浪江伝道所がありました。十字架が高く掲げられた鉄塔があり、小さな平屋建ての建物がありました。草が生い茂っていました。持参していた線量計を見ると、2.2μsv/hと表示されました。かなり高い放射線量でした。建物の前には、教会の案内板が立っていて、礼拝などの案内と開始時刻が記されていました。たしかにここで礼拝が行われていたのです。あの震災の前までは。周辺には民家が建っていますが、人っ子一人いません。この地で、今までにどれだけの福音伝道の祈りと情熱が注がれてきたのかと思うと、胸が痛む思いでした。ふたたびこの地に人が住めるようになり、人々が戻ってきて、教会の礼拝が再開される日は来るのだろうか。来てほしい。そんな思いでした。
 ある教会をお訪ねしたときは、信徒の方が「来てくれてうれしい」とおっしゃいました。福島が見捨てられるのではないか。そういう不安があるようです。私たちはフクシマのことを覚え続け、祈り続けたいと思います。

律法学者に対して

 さて、本日の聖書ですが、本日は律法学者に対するイエスさまの言葉が中心となっています。律法学者と言い、前回のファリサイ派と言い、当時のユダヤ人の宗教の先生です。前回は、食事の前に身を清めなかったイエスさまについて不審に思ったファリサイ派の人に対して、イエスさまがその誤りを指摘なさいました。あなたがたは、自分の外見は清めようとするが、心の中は強欲と悪意に満ちている、神の御心を行おうとしていないと。それを聞いていた律法学者たちが、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」とイエスさまに言ったところから、今日の個所が始まります。
 実際、ファリサイ派と律法学者は密接な関係にありました。律法学者の多くがファリサイ派であったとも言われています。ですから、今イエスさまがファリサイ派の人たちについて厳しいことを言われたのを聞いて、自分たちのことをいわれているように思ったのでしょう。この「侮辱」という言葉は「恥をかかせる」という意味があります。人々の先生である自分たちに恥をかかせるつもりでしょうか、と言ったのです。
 するとイエスさまは、「恥をかかせてスマン」とおっしゃったかと思えば、全く逆でした。彼らの問題点を指摘なさったのです。曰く、「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。」
 「負いきれない重荷」とは何でしょうか?‥‥これは厳しい戒律のことを言っています。律法学者(律法の専門家)は、その名の通り、旧約聖書の律法の専門家です。律法の代表が「十戒」です。つまり神さまの掟の専門家です。そして律法学者は、何か律法を研究するだけではなくて、その律法の守り方を教えていた人です。例えば、十戒に「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という掟があります(出エジプト記20:9)。そこでは、1週間のうち七日目が安息日であって、何も仕事をしないで休まなければならないと定められています。これは、1週間のうち1日は休んで良いのだ、ということです。自分が休むだけではなく、家族も奴隷も家畜も休ませなければならないと定められています。こうしてすべての人が、休むことができるという喜びの日でした。
 しかしそこで律法学者は、仕事をしてはならないという神さまの命令の、「仕事」とは何かということを考えました。そして安息日にしてはならない仕事を決めていきました。そうすると、だんだん安息が安息ではなくなってきました。例えば、今までの所で言うと、ルカによる福音書の6章には、安息日にイエスさまの弟子たちが麦畑を通りかかり、その麦の穂を摘んで手で揉み、殻を吹き飛ばして食べたことがありました。するとファリサイ派の人たちが、それは安息日にしてはならないことだと言いました。‥‥つまり、麦の穂を門で殻を吹き飛ばすという行為が「仕事」に相当すると彼らは言ったのです。
 こうなると、なんだかおかしなことになってきます。神さまは本当にそのようなことを言われたのかなあ、という感じです。
 また、やはり安息日にイエスさまが片手の萎えた人の手を癒されました。それを見て、律法学者とファリサイ派の人々は、イエスさまに敵対するようになりました。人の手を癒すというのは仕事であるというのです。しかしイエスさまは、奇跡によってその人の手を癒されたのです。奇跡とは神さまのわざのことです。しかし律法学者によれば、それは神に律法に反することでした。神さまのなさったわざなのに、神さまの掟に反しているという。‥‥ここに律法学者とファリサイ派の矛盾があります。
 つまり彼らは、神の律法を守ろうとするあまり、こまごまとした多くの規則を作り上げ、それに違反することが罪であり、神さまに背くことだとしたのです。そして律法学者は、それが罪であるかどうかを判定したのです。そうなると、安息日一つをとっても、本来は喜びと感謝の日であるはずのものが、喜びどころか、堅苦しい、息苦しいものとなっていきました。神さまの律法に違反しないかと、いつも心配しなければならなくなりました。そうすると神を信じる信仰が重荷となっていきました。

重荷を負わせる

 またイエスさまは、「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない」と指摘しておられます。今申し上げたように、多くの規則を作り上げ、それを守るように人々に重荷を負わせるが、自分たちはその重荷にあえいでいる人を助けようともしないと。罪を犯す人に罪人というレッテルを貼る。しかしその罪人である人が、罪を犯さなくても済むように助けようともしない。人を裁くばかり。自分たちは、罪人ではなく正しいと思っている。一体何者か、というわけです。
 しかしこれは教会にとって他人事ではありません。ともすると教会も、やたらと世間の人を裁くことになりかねないからです。ある地方のキリスト教主義学校が、学生たちの修養会をしました。そしてその修養会の講師に、ある教会の牧師を招きました。するとその牧師は講演の中で、「罪、罪」ということばかり言ったそうです。なるほど、たしかに聖書を理解するためには自分の「罪」ということが分かる必要はあります。だからその先生は、あなたがたがどんなに罪人であり、大きな罪があるかということを口を酸っぱくして言ったのでしょう。
 私はあとからその学校の先生からそのことを聞きました。そしてその先生は、「あの牧師は二度と講師として呼ばない」と言っていました。修養会で、学生たちは暗く沈み込み、惨憺たるものとなってしまったそうです。それでは福音どころではありません。人を裁くのは簡単です。ましてや、未信者を裁こうとすれば、まだ真の神さまを信じていないのですから、いくらでも裁くことができるでしょう。しかしそれではイエスさまがおっしゃるように、「自分では指一本もその重荷に触れようとしない」。教会が、やたらと世間を裁こうとするのなら、それと同じです。
 伝道とは、人を裁くことではなく、裁かれるような人を救いに導くことです。その裁かれる人には、私たちも入っていることを忘れてはなりません。

責任をとる

 50節でイエスさまは、「こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる」とおっしゃっています。
 預言者は、神の言葉を告げる人です。神さまが遣わした人です。しかし今までに、多くの預言者が殺されてきました。神の言葉を告げる人を、迫害し、殺してきたとおっしゃっています。そして、あなたがたも同じであると。神さまの言葉をねじ曲げ、都合の悪いことは聞かない。それどころか、今までイスラエルの民が預言者を迫害してきたように、神さまの言葉に背いてきた。その責任を「今の時代の者たちが問われる」とおっしゃっています。神さまの言葉に背いてきた責任を、この時代の者たちが問われると。イエスさまのこの時代に。
 その責任はどうやってとられたのでしょうか? 神の言葉に背き続けて来た責任を、誰がどのようにとられたのでしょうか?  驚くべきことに、それはこのことをおっしゃったイエスさまご自身がとられたのです。十字架にかかって。人々が神さまに背き続けて来た、その罪の責任を、イエスさまご自身が十字架にかかって神の罰をお受けになりました。
 イエスさまに誤りを指摘されて、ファリサイ派と律法学者は、「自分たちが間違っていた」と悔い改めたのかというとそうではありませんでした。53〜54節に書かれているように、イエスさまを捕らえるために血眼になっていきました。すなわちイエスさまは、十字架の死を覚悟の上で、真実をおっしゃったのです。彼らの罪さえも、十字架で負われます。イエスさまは、神の御子として、人々の罪を、そして私たちの罪を罰することのできる方でした。しかしイエスさまは、逆に、私たち人間の罪の罰を代わりに受けてくださったのです。低くへりくだって。これがキリストの謙遜です。

福音

 たしかに私たちも罪人です。だから神の御心に背く「罪」を指摘されたら、ほとんど無限に罪があります。いくらでも私たちには罪があります。「罪、罪」と言われても仕方がありません。 「教会へ行く前は喜んで行ったのに、帰るときは暗い顔になって帰った」というような話しを聞いたことがあります。たしかに、律法学者で止まっていたら、そうなるでしょう。罪を指摘されるばかりで、救いがありません。
 しかしその責任はイエスさまが十字架で取ってくださいました。私たちの罪の重荷は、イエスさまが代わりに負って下さいました。ですから私たちは、「教会へ行く前は暗く沈んでいたのに、帰るときは喜んで帰路に着いた」ということになって良いのです。私たちは罪人です。しかしイエスさまによってそれは赦されました。だからイエスさまを信じるところに、喜びと感謝があります。


(2013年8月25日)



[説教の見出しページに戻る]