礼拝説教 2013年8月18日

「外見と中身」
 聖書 ルカによる福音書11章37〜44 (旧約 詩編51:9〜12)

:37 イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。
38 ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。
39 主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。
40 愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。
41 ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。
42 それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。
43 あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。
44 あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」



ファリサイ派の家にて

 あるファリサイ派の人がイエスさまを自分の家に招待しました。ファリサイ派は、宗教指導者であり人々の信仰上の先生でした。しかしこれまでもファリサイ派は、安息日のことなどをめぐってイエスさまと対立してきました。ファリサイ派の多くは、イエスさまのことを快く思っていませんでした。
 しかしイエスさまは、このファリサイ派の人の食事の招待に応じて、その人の家に入って行かれました。私は、本当にイエスさまという方は、偏見も先入観もない方であるなあ、と思います。イエスさまは人を色メガネで見ません。招かれれば、誰の所へでも行かれる方であることが分かります。
 そうしてイエスさまはその人の家に入られましたが、食事の前にイエスさまが身を清められなかったので、そのファリサイ派の人は「不審に思った」と書かれています。
 ここで「身を清める」ということについて説明をしなければならないでしょう。身を清めるというのは、水で体を洗うことですが、この場合はおそらく手だけ、あるいは手と足だけを洗ったものと思われます。そうすると、おそらく多くの人は「外から帰ったらまず手を洗う」という衛生上の問題だと思うでしょう。だとすると「イエスさま、家に入るときは手を洗いましょう」と言いたくなるかもしれません。
 しかしこれは、衛生上のことを言っているのではなく、宗教上のことを言っているのです。つまり穢れを清めるということです。穢れを清めるというと、それは日本の習慣ではないかと思われることでしょう。たしかにそれは日本の習慣でもあります。そしてこれは、このかんの祈祷会のレビ記の学びでも申し上げたのですが、実におもしろいことに、「穢れ」と「清め」という考え方はユダヤ人と日本人に共通しているのです。
 例えば、旧約聖書のレビ記を読むと、死体に触れると穢れるということが書かれています。これは日本も似ています。日本の神道では死は穢れです。その他、祈祷会に出席しておられた方はご存じのように、どういった場合に穢れるかということは、旧約聖書のユダヤ教と日本の神道と非常によく似ています。それだけではなく、その穢れというものからどうしたら清まるのかということも似ている。旧約聖書、つまりユダヤ教では、水か塩を用いて清めます。これは日本の神道でも同じです。神社に行くと、境内に「手水舎」(てみずや・ちょうずや)と呼ばれる水をためた水盤があります。参拝者はそこで手を洗い、口をそそぎます。旧約聖書でも水で清まるのです。
 きょうの聖書の「身を清める」というのは、そのことを言っているのです。このファリサイ派の人の家には、穢れを清めるための水が用意してあった。しかし、イエスさまが穢れを清める水を用いなかったので不審に思ったということです。多くの日本人は、旧約聖書の民ユダヤ人と、アジアの東の外れの日本人は、似ても似つかない民族だと教えられてきたことと思います。しかし実はそんなことはありません。驚くほど似ていることがたくさんあります。しかしこのことは、またいつの日か取り上げることにしたいと思います。
 ともかく、ファリサイ派の人々は家に帰ったら手を洗って穢れを清めました。それは必ずしも旧約聖書の律法に定められていることではありません。律法では、例えば死体に触れて穢れた場合に、あるいは穢れた人に触れて自分も穢れたような場合に水で洗うことになっていました。しかしファリサイ派の人々は、律法を厳格に順守しようとするあまり、穢れたものに触れなくても、「もしかしたら自分の気がつかないうちに、穢れたものに触れたかもしれない」と思って、いちいち身を清めたのです。
 ところがイエスさまは、身を清めなかった。それで不審に思ったのです。民衆から尊敬され、「もしかしたらイエスこそメシアではないか」と言われていたイエスさまが、身を清めなかったからです。

外側と内側

 するとイエスさまがおっしゃったのが、39節からの所です。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」
 すなわち、ファリサイ派の人々は、外見はきれいにしようとするが、内側、つまり心の中はそうではないと、イエスさまはおっしゃいます。それは食器の外側はきれいにするが、内側は強欲と悪意に満ちているのだと指摘しておられます。たいへん厳しい指摘です。それは例えば、外出中に何か穢れたものに触れたかもしれないと言って家に入るときに身を清める。しかし心の中は穢れていっぱいだということです。
 さらにイエスさまは、42節で「薄荷や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしている」と指摘しておられます。これは、旧約聖書では収穫物の10分の1、飼っている家畜の10分の1は、神さまのものであり、神さまに献げるものと定められています。しかし詳しく言うと、収穫については、その年の穀物の収穫の10分の1を主に献げることは書いてありますが、今日の個所で言われている「薄荷や芸香や野菜」については律法に書かれていません。しかし、書かれていないけれども、それらの収穫の10分の1も神さまに献げる。つまり熱心なわけです。
 そしてその10分の1を献げることについては、イエスさまも「もとより、10分の1の献げ物もおそろかにしてはならないが」と、大切であることをおっしゃっています。だから10分の1を献げることは大切なことなのですが、しかし一方でファリサイ派の人々は、神のみ心をおこなうこと、愛についてはおろそかにしているではないか、と指摘しておられるのです。そのようなことについて「自分の内側は強欲と悪意に満ちている」と指摘しておられます。
 心の中が「強欲と悪意に満ちている」とは、言いすぎのようにも聞こえないでしょうか。特にファリサイ派の人々は、きちんと律法を守ろうとして10分の1を神さまに献げているのですから、「強欲」とはほど遠いようにも感じます。しかし問題は、ファリサイ派の人々が10分の1を献げるということが、いったいどういう動機からしているのかということです。そのことが43節で明らかにされています。会堂では上席を好み、広場では挨拶されることを好む、と。つまり心から神さまを愛して献げているのではなく、自分が人々から尊敬され、またほめたたえられるためにそうしているということです。そのことをイエスさまは見抜いておられるのです。だからイエスさまは、彼らについて「強欲と悪意で満ちている」と指摘しておられるのです。

悔い改めない人々

 そしてイエスさまは、彼らについて、非難し攻撃しておられるのではありません。42節〜44節に出てくる「不幸だ」という言葉は、「ウーアイ」というギリシャ語です。それは、「ああ」という悲嘆、悲しみを表す言葉であり、「何と悲しいことよ」「あなたたちのことを考えると、私の胸は張り裂ける」という意味です。つまりイエスさまは、ファリサイ派の人々の態度をご覧になって、悲しみ嘆いておられるのです。心配しておられるのです。もっと言えば、悔い改めをうながしておられると言えます。
 ところが、次回の53節を見ると分かるのですが、彼らは悔い改めない。悔い改めないどころか、逆にイエスさまを逮捕する口実を探そうとするのです。なぜでしょう。イエスさまが言っていることが、自分たちに当てはまらないのならば、ちゃんと反論すればよかったでしょう。「イエスさま、違いますよ」と。しかしそうではないのは、やはりイエス様が指摘しておられることが当たっているからでしょう。本当のことを言われ、しかもそれはとても恥ずかしいことだったので、反論もできず、また面目を失ったということで、逆上したのです。あくまでも見栄や体裁、つまり外見ばかり気にしていることが分かります。

外見と中身

 「杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」‥‥見かけは善人に見えるが、心の中はそうではない。そういうことは世の中にたくさんあります。見かけと中身が大きく違うと失望します。見かけもいかにも悪そうな人が、悪いことをすれば「やっぱりね」と思うわけですが、見かけが良さそうな人が悪いことをすると、「えっ!あの人が?信じられない」となるわけです。そしてその分失望も大きいことになります。
 教会も同じようなことを言われることがあります。教会というと、聖人君子のような人の集まりだと思っておられる方は、世間にはけっこういると思います。しかし実際に教会に来てみると、そうではない。それで失望してつまずくということがあります。もちろん、教会は聖人君子の集まりではないのですが、そのような期待をされているところがあります。
 私もかつて教会につまずきました。もちろん、私は子どもの頃から教会に通っていたので、教会が聖人君主の集まりではないことは知っていました。しかし親元を離れて大学に行って、そこで行ってみた教会で「こんなひどいことをいう人がいるとは!」ということでつまずいたわけです。もちろん、そのように思った自分も同じように罪人であるわけですが。その当時はそのことにまだ気がつかないで、つまずいたのです。「言っていることと、実際が違う」ということです。言行不一致に見えたのです。

言行一致の喜び

 ではどうすれば、外側と内側が一緒になるのか? 言っていることと実際が同じとなるのか?
 それは、ウソ偽りがないということだと思います。ファリサイ派の場合は、外側が清いけれども、内側が強欲と悪意で満ちているという、ウソがあったわけです。外側を清めておけば、神さまに受け入れられると思っていた。外見は、正しい人、立派な人に見せていました。装っていました。そして、律法を守れない人を「罪人」と呼んで見下していました。そして自分たちは罪人ではないように装っていた。しかしそんなことは、イエスさまにはお見通しです。
 私たちは、ウソ偽りなく「罪人」です。このことを認めざるを得ない。いくら外見をつくろおうとしても無理です。私たちは神さまの前に罪人です。このことを正直に認めなくてはなりません。もしかしたら、昔のわたしを知っている知り合いたちは、私を見て、「あいつが牧師をしているのか?」と不審に思うことでしょう。もしかしたら、そのことによって「教会も落ちぶれたものだ」と思われるかもしれません。また、私たちを見て、「それでもクリスチャンか?」という人がいるかもしれません。
 その時、私たちは何と答えるのでしょうか?‥‥「そうだ。これでもクリスチャンだ。こんな私のような罪人でも、イエスさまは弟子にして下さるのだから、ありがたいじゃないか」と言えるのです。「こんな私のような者でも、クリスチャンにしていただける。神の国に入れて下さる。ありがたい」‥‥こう言うことができます。そしてこれは、ウソ偽りのない事実です。なぜなら、こんな私のような者をも救うために、イエスさまは十字架にかかって下さったからです。この事実があるから、この私、私たちのような者でも救われるのです。ここに言行一致があります。罪人であることを素直に認めることができます。これはものすごくすばらしいことです。喜びです。これもウソ偽りありません。喜ぶべきことです。
 昨日の夕方、たまたま「マサカメTV」というNHKのテレビ番組を見ていました。すると、「カラオケがすぐに上達する方法」というのをやっていました。そして、歌をうたう声がよくない人が、一瞬にして良い声で歌うことのできる方法というのを紹介していました。私は「そんな方法があるのか?」と不審に思いました。その方法とは、笑いながら歌うのだそうです。実際テレビでは、お世辞にも良い声だとは言えない人が、笑いながら歌うと、響きのある味わいのある良い声に変わっていました。そのように、歌というものは、笑いながらうたうと良い音色になるのだそうです。
 私はその番組を見ていて、讃美歌のことを思いました。讃美歌は、神さまをほめたたえる喜びの歌です。それなのにつまらない顔をして歌ったら、それは賛美になりません。讃美歌をつまらなく歌ったら、それは外見と中身が違ってしまいます。外見は讃美歌であるはずなのに、中身は不平不満の歌、無味乾燥な歌ということになってしまいます。それでは、主の祝福が来ません。また、伝道にならないでしょう。
 讃美歌は、神さまを賛美する歌。神さまを喜び、ほめたたえる歌です。ですから笑いながら歌って良いのだということに気がつきました。そうするとそれが美しい響きとなって、神さまを本当にほめたたえるものとなるということに気がついたのです。そのことを、神さまは教えて下さったと思いました。
 もちろん、形だけ笑顔にしてもダメでしょう。それでは言行不一致となってしまいます。心から笑わなければ意味がありません。しかし感謝なことに、私たちは笑うことを許されています。この笑いは、「こんな私のような罪人でも救ってくださった。感謝!」という喜びの笑いです。イエスさまの十字架のおかげです。イエスさまによって喜ぶことができます。


(2013年8月18日)



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