礼拝説教 2013年8月11日

「輝くためには」
 聖書 ルカによる福音書11章33〜36 (旧約 ダニエル書6:11)

33 「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。
34 あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。
35 だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。
36 あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」



創立記念日

 逗子教会は1948年8月15日(日)午前10時に、現在の地で第1回主日礼拝をいたしました。牧師は宮崎繁一先生でした。教会の創立記念日は、礼拝を開始した日をもって定めるのが通例となっていますので、8月15日が当教会の創立記念日となります。奇しくも終戦記念日でした。
 教会を建てるとは、会社を作るとか、学校が創立されるということとはかなり違っています。教会を建てるということは、教会の建物を建てるということではありません。建物を建てるというのは教会堂を建てるということであって、教会を建てるということとは違っています。教会とは、主イエスを信じて礼拝するものの群れだからです。そして聖書によれば、教会はキリストの体です。(エフェソ 1:23)「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」とあるとおりです。
 そうすると、今から68年前にここに教会が建てられたということは、ここにキリストの体が現れたということになります。そういう画期的なことが始まった日が、教会の創立記念日です。この地にキリストの体が現れている。ここにキリストの体がある。この驚くべき恵みを感謝したいと思います。

灯火の話

 さて、今日の聖書ですが、イエスさまがたとえを語っておられます。まず33節です。‥‥「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入ってくる人に光が見えるように、燭台の上に置く。」
 このたとえは良く分かるのではないでしょうか。「ともし火」というのは、オリーブ油などの油を、ともしび皿というものに入れ、そこに芯を入れて火をともすものです。そしてともし火は、当時の家の中の唯一の照明道具でした。電気もランプもない時代です。人々は夜になると、ともしび皿の芯に火を灯し、燭台の上に置いて部屋の中を照らしました。電気の光などに比べようもないほど暗い明かりです。ですから、ともし火は、もっとも効率よく部屋の中を明るくできる位置に置かれた燭台の上に置きました。そのせっかくともしたともし火を、「穴蔵の中」や「升の下」に置く人は、だれが考えても、いないでしょう。そんなことをしたら、ともし火は何も照らすことができず、何の役にも立たないからです。だからそんなばかなことをする人は、たしかにいないでしょう。
 ではなぜこんなたとえ話をイエスさまはなさったのでしょうか?‥‥それは、そんな馬鹿なことをする人はいない、と私たちは思うけれども、その私たちが同じことをしているではないか、とイエスさまはおっしゃりたいのです。

目が灯火

 そして34節〜35節に行きます。「あなたのともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。」
 さて、ここを読むと何が何だか話が分からなくなるのではないでしょうか。家の中を照らすのがともし火であるとしたら、私たち自身のともし火は「目である」という。もう少し分かりやすく言えば、私たちの心の灯火は目であるということです。これはいったいどういうことでしょうか? なぜ「目」がともし火なのでしょうか? 目は光りません。それなのになぜ目がともし火なのか?
 そのところを考えてみましょう。まず、目というのは体の中でどういう器官でしょうか。目というのは、物を見る器官です。ではその、物を見る、ということはどうやって見ることができるのでしょうか?
 それは、光がその物体に当たって、それが反射して私たちの目に入って、物が見えるということだと思います。(私は科学者ではありませんので自信はありませんが、そういうことだと思います。)だから光がないと、真っ暗で、そこに物があっても見ることができません。光が物を照らさないからです。そのように、目は、光を捕らえて物を見ることができるわけです。
 そうすると、目は私たちの体にとって、光の窓であるということができます。すなわち、イエスさまが「あなたの体のともし火は目である」とおっしゃったとき、目がともし火となって光るわけではありません。しかし、目が外から入ってくる光を捕らえて、言わば光の窓となって、光を取り入れる。そうして私たちの中に光が差し込んでくるということになるだろうと思います。自分の目が光るのではなく、外からの光を取り込む。そうして目がともし火の役割をするということです。

目が澄んでいる濁っている

 「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」(34節)。「目が澄んでいる」というのはどういうことでしょうか。この「澄んでいる」という言葉は、「単純である」という意味があります。一つの物を純粋に見ているという意味になります。よく、子どもの目は澄んでいるといいます。それはもちろん、子どもの目が若いから肉体的に澄んでいるということではありません。疑うことを知らず、じっと見つめる。それを澄んでいるというのだろうと思います。そのように、私たちが一つの物を純粋に、単純に、じっと見つめる。ということになります。
 そして「あなたの体のともし火は目である」とおっしゃっていますので、私たちがともし火を見る、すなわち光を単純に純粋に見つめることによって、目が光の窓となる。目が体を照らすともし火となるということになります。その場合、私たちが見つめるともし火とは何のことでしょうか?‥‥それはキリストです。(ヨハネ8:12)「わたしは世の光である」とおっしゃいました。イエスさまが世の光です。すなわち、イエスさまを純粋な目で、単純な目で、澄んだ目でじっと見つめる。その時に、私たちの心の窓である目から光が差し込んできて、全身を照らす。そういうことをおっしゃっているのだということが、分かってまいります。
 逆に、「濁っていれば、体も暗い」(34節)。例えば、窓ガラスがホコリや泥で汚れていれば、十分に光が家の中に入ってくることができず、部屋の中も暗くなります。それと同じように、私たちの目が濁っていれば、十分な光が入ってくることができず、心も暗くなる。つまりそれは、キリストをちゃんと見ていないから、光が入らない。そういうことになるわけです。すなわち、キリストを澄んだ目で見ているのか、単純素朴な目で見ているのかどうか。世の光であるキリストを単澄んだ目で見ていれば、そのキリストを見つめている目を通して全身が明るくなるとおっしゃいます。心の中が照らされます。私たちが自分で自分を照らすことはできません。キリストの光を取り込むのです。

キリストの恵みを見る

 先週、知り合いの若い牧師から証しのメールをいただきました。それは、このたびその牧師夫妻に第一子の赤ちゃんが授かったのですが、それにまつわる証しでした。その牧師夫妻は、ある地方の教会に赴任しました。その町にも産婦人科の病院はあるのだけれども、どの病院がよいのか、知識を持っていませんでした。そうしているときに、2〜3年前から、彼の教会の近くで何かの建築工事が始まったそうです。それが何の建物なのか気に留めることもなかったそうです。
 そして、昨年秋に奥さんが妊娠をされた様子。それで産婦人科の病院を捜さなければならないことになりました。そのような中、外出をしていたら、あの建築工事がなされていた建物が目に入ったそうです。するとそれは産婦人科の病院でした。教会から車で1分という近いところにちょうど産婦人科の病院が建った。そして行ってみると、その病院の経営理念といい、病院長の姿勢といい、まったく彼ら夫婦の考えに合致するものであったそうです。
 それで彼は、こう述べていました。‥‥「これは、私たちが全く期待していなかった、驚くべき出来事でした。私たちは、この出来事の背景に、神様の存在と恵みを思わずにはいられません。「おめでたい人たちだな」と言われるかもしれませんが、この産婦人科医院は、私たちのために(もちろん、他の人々のためでもありますが)、神様が建ててくださったのだということを、本当に感謝しないではいられません。私たちが、助けを必要とする時、神様は、私たちが助けを必要とする前から、私たちの助けとなるものを備えていてくださる。私たちが知らないところで、私たちが気付かないところで、神様は確かに助けを用意してくださっている。この驚くべき恵みを、私たちは忘れません。この記録が証しとなって、神様の御栄光を現わすものとなるよう、私たちは願ってやみません。」
 みなさん。これは小さなことでしょうか?‥‥たしかに小さなことでしょう。また「そんなのは偶然だ」という見方もあるでしょう。しかし彼は、キリストを見ていました。だから、そこに神さまが自分たちの心配をご存じで、ちゃんと必要な助けを与えてくださったという恵みを受け取ることができたのです。光であるキリストを単純に見つめていたので、神さまのわざを見ることができたのです。喜びが与えられたのです。

ダニエル

 もう一個所、旧約聖書のダニエル書の中から読んでいただきました。バビロン補囚でバビロンに連れて行かれたダニエル。しかしダニエルは神を信じる祈りの人でした。バビロニア帝国が倒れて、メディア人のダレイオスが王となりました。ダレイオス王はダニエルを重んじました。すると、ダニエルのことを快く思わないライバルたちが、ダニエルを陥れようとしました。そして、ダニエルがユダヤ人であり、熱心に神を信じるものであることから、ダニエルの信仰によって罠にかけようとしました。
 ライバルたちは、1ヶ月間、ダレイオス王を神のように崇め、王だけを拝むという法律を作り、王に署名させました。王以外の神に祈りをするものはライオンの洞窟の中に放り込まれることとなりました。ダニエルは、そのようなひどい法律ができたことを知りましたが、家に帰るといつものように、自分の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際で、ひざまずいてまことの神に祈りと賛美を献げました。
 ダニエルが見つめていたものは、王でもなく、人々のうわさでもなく、主なる神さまでした。澄んだ目で神を見ていたと言えます。その結果、すばらしい証しが生まれました。

光は消えていないか

 36節を見ましょう。「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。」
 私の中が暗くなってしまっているのならば、それはキリストを見つめていないからです。澄んだ目でキリストを見る。そのキリストの光が私たちの中に入ってきて、全身を照らすといわれています。


(2013年8月11日)



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