礼拝説教 2013年8月4日

「幸いな人」
 聖書 ルカによる福音書11章27〜32 (旧約 ヨナ書3:3〜10)

27 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」
28 しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」
29 群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
30 つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。
31 南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。
32 また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」




 本日は、日本キリスト教団の暦で「平和聖日」です。今から68年前の8月に、多くの人々の命が失われた長い戦争が終わりました。わたしの最初の任地である輪島教会の、もう天に召された男性信徒の方は、戦争の話しになると、ニューギニアで戦死した自分の双子のお兄さんのことを涙を流しながら話されたものです。遺骨もまだ見つかっていないと言って。私はその涙を見たときに、紙きれ一枚で軍隊に召集され、戦場に赴き、日本から遠いニューギニアのジャングルで死んだ若い命を無駄にしてはならないと思いました。
 国の指導者が進路を誤ると、多くの人の命が失われることになります。私たちは、国の政治を司る方々が、くれぐれも間違った選択をしないように祈り続ける必要があると思います。

さいわいな人

 さて、今日の聖書に入ります。前回は、「汚れた霊」についてイエスさまが教えられたことが書かれていました。今日はその続きです。イエスさまがそれらのことをお話しされたところ、ある女性が声を張り上げて言いました。「なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は!」
 これはイエスさまのことを尊敬し、ほめたたえてて言った言葉に違いありません。おそらくこの女性も子供を持つ母親であるに違いありません。子を持つ母として、我が子が自立して成長することは最大の喜びの一つと言えるでしょう。さらに我が子が、立派な人になり、人々に尊敬されるような人になったとしたら、それはもうすばらしいことだと思えるでしょう。
 今、世界水泳選手権が開かれています。先週も、銀メダルを取った日本人選手のことが話題となっていました。そしてその選手が泳いでいるときに、それを地元の人たちといっしょにテレビの前で見ているお母さんの様子があとから放映されていましたが、お母さんは我が子が泳いでいるあいだ、ずっと目をつぶって手を合わせて祈っているようでした。その気持ちはよく分かります。マスコミも、お母さんに取材し、注目を集めます。お母さんにとっては、どんなに息子が誇らしいことでしょう。
 それと同じように、この女性はイエスさまについて、このような方を育てたお母さんは、何と幸せなことだろうと声をあげたわけです。するとイエスさまがそれを聞いておっしゃいました。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」

さらに幸いな人

 ちょっと横槍を入れるようですが、このやりとりを文語訳聖書で読んでみます。
 まず女性が声を挙げて言った言葉です。  「幸福(さいわい)なるかな、汝を宿しし胎、なんじの吸ひし乳房は」。
 するとイエスさまがこう答えられます。  「更に幸福なるかな、神の言を聴きてこれを守る人は」
‥‥いかがでしょうか。すなわち、この女性が「さいわいなるかな」と感嘆の声を挙げたのに対して、イエスさまは「さらにさいわいなるかな」と、まるでかけ合いのように声を挙げておられるのです。つまり、イエスさまは女性の言った言葉を否定なさったと言うよりも、それよりももっと幸いなのが「神の言葉を聴いて守る人だ」とおっしゃったと言えます。
 私がここでこだわるのには理由があります。それはこのルカによる福音書の最初のほう、イエスさまのお母様となったマリア様が、聖霊によってイエスさまを身ごもるという受胎告知の場面のことです。天使から受胎告知をされたマリア様は、親戚のエリサベトの所に行きました。エリサベトはバプテスマのヨハネを宿していました。そのエリサベトの所にマリア様が行ったとき、エリサベトが聖霊に満たされて言いました。「あなたは女の中で祝福された方です。」(ルカ1:42)
 そしてマリアも言いました。「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」(ルカ1:48-49)
 このように、イエスさまを宿し、イエスさまを育てたマリア様について「幸いな者」と呼ばれています。だから28節のイエスさまの言葉は、「なんと幸いなことでしょう」と声を挙げた女性の言葉を否定しているのではありません。もっと幸いなのだとおっしゃっているのです。幸いな人であるマリア様よりも、更に幸いなのだと。それが「神の言葉を聞き、それを守る人である」ということです。神の言葉を聞いて守るということが、そんなにも幸いなことなのだとおっしゃっているのです。

御言葉を守れないわたしたち

 本日は平和聖日だと申し上げました。しかし人類の歴史の中で、戦争が絶えたことがないというのが現実です。さらに「キリスト教は戦争ばかりしてきた」と言われることがあります。信じられないようなことですが、たしかに歴史を見ると、中世の十字軍に代表されるように、決してウソとは言えません。また、「キリスト教国」と呼ばれる国々が、多くの戦争をおこなってきたことも事実です。これは聖書の教えと照らしてみると、本当は考えられないことです。ご存じのように、イエスさまのもっとも有名な教えの一つは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)ということです。また、「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)とおっしゃいました。さらに、「七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18:22)と教えられました。
 これらいくつかの言葉をひろってみても、もしこのイエスさまの言葉を聞いて守るならば、どう考えても戦争などになりっこないと思います。世界の人口の3分の1はキリスト教徒だそうです。世界最大の宗教です。その世界の3分の1を占めるキリスト教徒が、もし本当にイエスさまの言葉を「聞いて守る」のであれば、戦争はこの地上から激減することでしょう。もしイエスさまの教え、「敵を愛しなさい」「赦しなさい」という御言葉を守り、やられてもやり返さないならば、そのようになることでしょう。世界は平和になるでしょう。しかし、キリスト教徒と呼ばれる人々が、イエスさまの教えをちゃんと守らないから平和にならないのです。
 私は、何か他人を批判したり、政治家を批判したいのではありません。今挙げたのは一つの例です。わたしたちは、他人を批判する前に、自分自身を省みなければなりません。「では、自分はイエスさまの教え、聖書の教えを聞いて守っているだろうか?」と。自分は、敵を愛しているだろうか、自分にイヤなことをいう人を赦しているだろうか、その人のために祈っているだろうか、自分はやられたらやり返さないだろうか‥‥そう考えていくと、実は自分自身が神の御言葉を守っていないことが分かってきます。
 有名な聖書の言葉に、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(1テサロニケ5:16-18)というものがあります。皆さんよくご存じだと思います。これをとっても、自分自身はどうでしょうか。
 「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人たちである」。イエスさまがおっしゃっているのですからそのとおりでしょう。しかし、わたしたちは主の御言葉を聞いても守れない。守ることができないのです。それが私たちが罪人であるということです。

神の言葉を聞いて悔い改める

 29節を見ると、さらに多くの人々がイエスさまのところに集まってきたと書かれています。その人々は、イエスさまに何を求めて集まってきたのか。イエスさまの言葉は痛烈です。「今の時代の者たちはよこしまだ」。なぜならば、「しるし」を欲しがるばかりだという言われます。「しるし」というのは、イエスさまがキリスト、救い主である証拠ということです。奇跡と言っても良いでしょう。そういうものを欲しがるけれども、神の言葉を聞いて守るということをしない。それは私たちも同じようなところがあります。
 しかしここでイエスさまは、一つの道を指し示しておられます。私たちを裁いて終わりなのではありません。希望を与えておられます。それが、続けて言われている旧約聖書の「ヨナ」のことと「南の女王」のことです。ヨナのこととは、先ほどヨナ書を読んでいただきました、その個所です。ヨナの物語全体を今解説している時間はありません。読んだことがない人は、ぜひあとで読んでいただきたいと思います。要点だけ申し上げますと、ヨナは紆余曲折のあと、ヨナが行きたくなかった外国であるアッシリアの首都ニネベに行って、神さまが言えとおっしゃったとおりのことを言って回りました。「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」と。
 外国です。違う宗教を信じている人たちです。ヨナがそんなことを行って回って、誰も聞かないだろうと思ったら、予想に反して、ニネベの町の人々は上は王様から下は庶民に至るまで、ヨナの言葉を聞いて悔い改めたという出来事が起こりました。
 それから「南の国の女王」とは、シバの女王のことで、列王記上10章に書かれています。シェバというのは、今のエチオピアのことだと言われています。シェバの女王は、イスラエルのソロモン王が神さまから知恵を賜ったと聞いて、はるばるやってきました。エチオピアからイスラエルまでは、当時としてはずいぶん遠くて困難な道のりだったと思います。それは当時のイスラエルから見たら、まさに「地の果て」でした。しかしシェバの女王は、主がソロモンに与えた知恵の言葉を聞くためにやってきて、そして主をほめたたえて帰って行きました。
 この二つのことをイエスさまは挙げられました。一つは、ヨナの言葉を聞いて悔い改めたニネベの町の人々です。もう一つは、ソロモンから神の言葉を聞こうとしてはるばるやってきた、南の女王のことです。ソロモンから御言葉を聞くためにはるばるやってきた南の女王は、ソロモンにまさる。ヨナから神の言葉を聞いて悔い改めたニネベの町の人々は、ヨナにまさる。すなわち、ここで、「神の言葉を聞く」ということと「悔い改める」という二つのことがクローズアップされています。それが非常に尊いこととされています。それは、イエスさまを宿して生み、育てたマリア様よりも幸いだと、イエスさまがおっしゃってくださるのです。だからこれ以上に幸いなことはないはずです!
 私たちは、神の言葉を聞いて、悔い改めるということが、そんなにも幸いなことであるということを、知る必要があります。

聖霊に期待

 神の言葉、イエスさまの言葉をなかなか守ることのできない私たちです。しかし、だから救いようがないというのではありません。神の言葉を聞くということ、そして悔い改めること。悔い改めというのは、神の言葉、聖書の言葉をまじめに聞こうとしなければ悔い改めようと言うことにならないでしょう。逆に、神の言葉、聖書の言葉をまじめに聞こうとしたならば、おのずと悔い改めに導かれます。
 悔い改めても、なかなか自分の力では改まりません。何度でも同じ過ちを犯します。しかし聖書で言う悔い改めとは、この罪人である私たちひとりひとりを、聖霊のお力によって改めていただくよういのることです。私たちが新しい人に変わるということは、私たちの力ですることではなく、聖霊なる神さまの働きによることです。ここに希望があります。
 これらの言葉をおっしゃったイエスさま。そのイエスさまが、私たちを見捨てないで、十字架に行ってくださった。こんな私たちでも救うためです。このあとの聖餐式は、そのことをあらわしています。神の言葉を聞くこと、そして悔い改めてイエスさまにおすがりすることへと招かれています。そこに希望が与えられていることを感謝します。


(2013年8月4日)



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