礼拝説教 2013年7月28日

「からの家」
 聖書 ルカによる福音書11章24〜26 (旧約 サムエル記上16:14)

24 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。
25 そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。
26 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」




悪霊について

 福音書を読んでおりますと、「悪霊」という言葉がたくさん出てきます。今日の聖書では「汚れた霊」となっていますが、これも悪霊のことです。今日の個所を読みますと、悪霊が人の中に出たり入ったりしている。何かちょっと不気味な感じがいたします。
 むかし「エクソシスト」というオカルト映画がたいへん話題になり、ヒットいたしました。私も見ましたが、ある少女に悪魔が乗り移って非常に不気味なことをし、また自分を傷つけるようにする。誰が見ても悪魔が乗り移ったと見える。それで、エクソシスト(悪魔払いをする聖職者)であるある神父がその悪魔と戦いを挑むという映画でした。
 悪魔や、その配下である悪霊が、もしそのような者であったとしたら、むしろ話は簡単です。ああ、「悪霊が取り憑いたな」ということが分かるからです。しかし本当は簡単なものではありません。Uコリント11:14には、こう書かれています。「だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです」。 「サタン」というのは悪魔のことです。つまり、それが悪魔であるのか天使であるのか、分からないようにして人間に近づいて来るとパウロは言っています。さももっともなことを言って、いかにもすばらしいことであるかのようにして来るということです。
 それは、悪魔・悪霊の役割が、映画のように人を恐怖に落としたり驚かせるためにあるからではありません。先週も申し上げましたように、人間が神さまを信じられないように仕向けることにあるからです。時には苦しめることによって、神さまを信じない、あるいは愛というものを信じないようにさせる。「神などいない」「愛などない」と誘って、人間に罪を犯させようとする。それが悪魔・悪霊の役割です。

たとえ話

 さて、今日の聖書個所では、イエスさまが一つのたとえ話のようなお話しをなさっています。汚れた霊が、ある人から出ていきました。汚れた霊、すなわち悪霊が出て行くというのは良いことに違いありません。そして出て行った悪霊は、「砂漠をうろつき」と書かれていますが、原文では「水のない場所」です。つまり砂漠や荒れ野です。そのような所に行っても人がいません。悪霊の仕事は、人を神から離れさせようとする所にあるわけですから、人がいなければ悪霊もおもしろくないでしょう。
 そこで悪霊は、「出てきたわが家に戻ろう」と言います。「わが家」というのはおもしろい言い方だと思います。その悪霊にとっては、その出ていった人が「わが家」なんです。自分の家なんですね。何か悪霊が、私たちのことを「この人がわたしの家、わが家だ」と言っているとしたら、ちょっと困りますね。いい迷惑ですけれども、悪霊は自分の家であるその人の所に戻っていきました。
 すると、そのわが家は掃除がしてある上に、整えられていた。片付いていたと言います。いかがでしょうか。私たちは住むのに、掃除のしていない埃まみれで、片付いておらず散らかっている家に住むのと、掃除がしてある上に片付いている家に住むのとでは、どちらが良いでしょうか?‥‥私は、掃除がしてあって片付いている家のほうが良いです。ただ私の牧師室は全然片付いていませんが。この悪霊は、そのようにして「わが家」が掃除がしてある上に、片付いていたので、また出ていって、自分よりも悪い他の七つの霊を連れてきて住みついたというのです。そうすると、そのわが家にたとえられている、その人の状態は前よりももっと悪くなると、イエスさまは言われました。
 最初に悪霊が出ていった後、掃除がしてある上に整えられていたその家は、どうして掃除をし、片付いていたのでしょうか。そして誰も住んでおらず、空っぽだった。それはその人の心の状態を表しています。口語訳聖書では、「整えられていた」という言葉は「飾り付けがしてあった」となっています。どうして掃除をして飾り付けをしたのでしょう?‥‥まさかわざわざ悪霊を招くためではなかったでしょう。自分のために掃除をし、飾り付けをしたのでしょう。つまり自分を楽しませ、喜ばそうとしていたということかと思います。
 私は自分の学生時代のことを思い出します。大学に入った私は、教会を離れました。神さまを忘れました。信じなくなりました。そうすると日曜日も昼まで寝ていられる。これはけっこうなことだと思いました。そうして私はどうしたか?‥‥自分を楽しませることだけが目的となりました。もう自分のことしかないんですね。神さまなんか信じなくなったわけですから。自分がよければ良いのです。そんなことを思い出します。それが、掃除がしてある上に整えられていた、飾り付けがしてあったということではないかと思います。

前より悪く

 そうすると悪霊は、また出かけて行って自分よりも悪いほかの七つの悪霊を連れてきて住みつきました。それでその人の状態は、前よりも悪くなったと言われています。
 日本では、昔のような信仰心が失われたといいます。たしかに、宗教を信じているという人は少なくなったようです。多くの人は、「家の宗教は仏教である」と答えるでしょう。しかしそれは、本人が積極的に仏教の教えを信仰しているというよりも、お葬式の時だけお坊さんの世話になるという人が多いでしょう。そして最近は、その葬式仏教すらも通り越して、無宗教でお葬式をする、あるいはお葬式をしないという人も増えているそうです。
 神社もそうです。かつては、神社に熱心に参拝したり、家の中の神棚に毎朝お供えをして拝むという事がふつうになされていましたが、現代では初詣と七五三などの通過儀礼が中心のようです。最近の「パワースポット・ブーム」で神社に出向く若者が増えたようですが、これも御利益中心で、本来の信心の在り方とは違うという批判が神道の側からもあるようです。
 かつては、「お天道様が見ているよ」とか「お天道様に恥ずかしくないように生きなければならない」というような言い方が、かなりなされていたように思います。また子どもに注意する場合も、「罰が当たるよ」とよく言われていたように思います。しかし現在では、そのように神さまや宗教的な言葉が世間で用いられるということは、あまり聞かなくなりました。たしかにそのような宗教、あるいは信心は、聖書から言えば本当の神さまに根ざしたものではないわけですから、迷信が廃れたのは良かったと考える人もいるかもしれません。
 しかし一方では、現代において増加する犯罪の原因が、そのような宗教心、信仰心が薄れてきたことと無関係であるとは思えません。万引きの増加は、幾つもの商店が万引きによって倒産するほどひどい被害をもたらしています。「オレオレ詐欺」によって、老後の蓄えをすべて失った人が大勢います。これらは、いずれも「誰も見ていないから良い」「ばれなければウソをついても良い」という心から来ているものと思います。「お天道様が見ている」とか「罰が当たる」ということがなくなったことと無関係だとは思いません。
 そのように、違う宗教とは言え、何も信じなくなったことが良いとは言えません。悪霊が出て行って、空っぽになった家に、掃除がしてある上に飾り付けがしてあったようなものです。そこにさらに悪い悪霊がたくさん住みついて、さらに悪くなってしまうとイエスさまはおっしゃっておられます。何も神仏を信じなくなったことが良いことなのではありません。人間1人1人も前よりも悪くなり、社会も前よりも悪くなってしまいます。

悪くならずに良くなるには?

 ではどうしたら悪くならずに良くすることができるのでしょうか?
 前回の個所ですが、21〜22節を見てみましょう。=「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。」
 最初の「強い人」が悪霊・悪魔だとすれば、次にやって来た「もっと強い者」というのは、ここではイエスさま、または聖霊なる神さまのことをあらわしています。イエスさまは悪霊や悪魔よりも強い。だから悪霊が住みついているような人でも、イエスさまが来られれば、それを追い出し、代わりにその屋敷を支配できるということです。すなわち、最初に悪霊が出て行った家を空っぽのままにしておくのではなく、代わりにイエスさまに住んでいただければ良いということになります。そうすれば、そのもっと強い住人であるイエスさまが家を守り、悪霊を寄せ付けないことになります。

聖霊が住む

 さて、そのように、私たちにイエスさまが住むということがあるのでしょうか?
 ここではイエスさまご自身と言うよりも、聖霊です。そうすると聖書に次のようなことが書かれています。まず、十字架で死なれたあと復活されたイエスさまが、弟子たちの所に現れられたときのことです。(ヨハネ20:22)復活の主イエスが息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」とおっしゃいました。「聖霊を受けなさい」‥‥これは「聖霊なる神を受け入れなさい」ということです。
 また、使徒パウロはこのように述べています。(1コリント 3:16)「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」‥‥イエスさまを信じた者は、聖霊が私たちのうちに住んでくださっていると。また、(ローマ 8:9)「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。」‥‥聖霊が与えられているということは、聖霊の支配のもとにあるというのです。
 聖霊が住まわれる。それは悪霊よりももっと強い人なので、悪霊はもはや「わが家」に戻って住むことはできないことになります。

聖霊と共に

 しかし、せっかく与えられた聖霊を、わが家である自分自身の中心にいていただかず、押し入れの中や納屋に閉じ込めてしまっては、空っぽの家であるのと変わらなくなってしまいます。聖霊が共にいて下さる、ということを思い起こさなくてはなりません。
 先日の東湘南地区教会音楽祭の開会礼拝でも取り上げましたが、パウロが初めてヨーロッパに伝道に行ったとき、その最初の町フィリピで捕らえられ、同労者であるシラスと共に牢屋に入れられてしまいました。キリストの福音を宣べ伝えた結果、捕らえられたのです。無実の罪です。しかも何度もムチで打たれました。そんなことで捕らえられたら、腹が立って仕方がないし、どういう刑罰を受けるか不安と恐怖でいっぱいになってしまうでしょう。神さまを疑いたくなるでしょう。
 ところがパウロとシラスはどうしたかというと、牢屋の中で讃美歌を歌い、祈っていました(使徒言行録16:25)。神さまを呪うどころか、神さまを賛美し祈っていた。まさに聖霊なる神さまが自分たちと共にいて下さることを信じていたと言えましょう。その結果どうなったでしょうか? 牢に入れられていた他の囚人たちはパウロとシラスが獄中で讃美歌を歌い祈っているのに聞き入っていました。すると突然大きな地震が起き、牢屋の戸が全部開き、囚人たちをつないでいた鎖も外れてしまいました。駆けつけた看守はそれを見て驚いて、囚人たちが皆逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとしました。するとパウロが大声を出してそれをやめさせました。
 びっくりした看守は、パウロとシラスと共に囚人が逃げずにいるのを見て、「先生方、救われるためにはどうしたら良いでしょうか?」とパウロとシラスに聞きました。すると2人は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と答えました。そうして、看守と家族が、イエスさまを信じて洗礼を受けました。そういうことが起きました。さらに朝になると、パウロとシラスは無事に釈放されました。
 そのように、パウロはひどい試練に遭遇しましたが、聖霊なる神さまが自分たちと共におられることを信じていたので、希望を持って神を賛美し祈ることができました。そうしてすばらしいことが起こりました。そのように、私たちが共におられる聖霊なる神さまを信じることが、この世の人々に対して証しとなることが分かります。聖霊が共におられる。悪霊はもはや住みつくことができません。感謝します。


(2013年7月28日)



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