礼拝説教 2013年7月21日

「神の指」
 聖書 ルカによる福音書11章14〜23 (旧約 出エジプト記8:12〜15)

14 イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。
15 しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、
16 イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。
17 しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。
18 あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。
19 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
20 しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
21 強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。
22 しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。
23 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」




高校生の礼拝の感想

 Y学院高校の私の聖書担当のクラスに中間試験の代わりに「教会出席レポート」を出しました。それで先月、当教会にも生徒さんたちが礼拝に出席しました。そのうちのほとんどの生徒さんは、教会の礼拝に出席するのは生まれて初めてという人でした。さて、そのいろいろな教会に初めて行った生徒さんたちに書いてもらった感想をいくつかご紹介したいと思います。
・「教会はとても厳粛なイメージがあったが、教会の人はとても優しく、安心した。」
・初めての日曜礼拝で、いきなり行ったにもかかわらず、皆が優しく接してくれてうれしかったです。」
‥‥このような感想はけっこう多いです。となりに座った人が讃美歌や聖書の個所を開いてくれたとかです。大切なことだと思います。
・「自分はキリスト教ではないし、教会も入ったことがなかったので正直眠たくなってしまった。しかしまわりの人を見ると、みんな真剣に牧師さんの目を見つめている。キリスト教のすごさを感じた。」(ちなみに、これは逗子教会ではありません。)
 それから次は、当教会に出席された方の感想です。
・「初めて教会の礼拝に出席しました。学校のよりも長くて、あわてたりしたけど、学校の礼拝よりも新鮮で楽しかったです。」
‥‥楽しかったということはけっこうなことですね。また次のようなことを書いてくれた人もいました。
・「礼拝が終わったあとに、後ろに座っていたおじさんに食事会に誘っていただき、美味しいパンとビーフン、サラダ、クッキー、グレープフルーツをいただけたことに感謝しつつ、美味しくいただくことができた。」「同じテーブルを囲んでいた人たちは皆優しくて、キリスト教のことをいろいろ教えてくれた。中には中3の子もいて、中学生なのに毎週教会に来ているんだーと感激した。」
‥‥サンデー食堂が用いられていることはうれしいことです。
 以上簡単にご紹介しましたが、やはりまわりの人に声をかけてもらったり、聖書は讃美歌の個所を教えてもらったり、ちょっとしたことですがうれしいようです。また、教会員が真剣に讃美歌を歌い、説教に耳を傾けている姿に、本当に神を信じているんだということが伝わって、印象的に思うようです。たいへん私たちにとって参考になることだと思います。

イエスさまの奇跡をめぐって

 本日の聖書に入ります。あるときイエスさまが「口を利けなくする悪霊」を追い出しておられました。すると、悪霊が出て行って、その人は口が利けるようになったということが書かれています。
 ここで言われている「口を利けなくする悪霊」という者が、具体的にはどういうものであるかは書かれていないので分かりません。また聖書は、口が利けないということがすべて悪霊のせいだとしているわけでもありません。この人について言えば、悪霊の仕業であったということです。そしてイエスさまは、その原因である悪霊をその人から追い出されました。それは本当にすばらしいことだと思います。口を利くことができなかったのが、口を利けるようになった。本人もどれほどの喜びだったことでしょうか。見ていた群衆も驚嘆いたしました。それはすばらしいイエスさまの奇跡です。
 ところがです。一部にそれを喜ばない人たちがいました。中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言った人がいました。つまりイエスさまが、悪霊の親分の力で悪霊を追い出しているのだと。それでその人の口が利けるようになったと言ったのです。
 なんでそんなことを言うのでしょうか。わけが分かりません。こんなすばらしいことが起きたというのは、神さまのなさるわざでしょう。ところが、イエスさまを誹謗中傷した人がいたのです。これはもう悪意をもって言っているとしか思えません。これまでもイエスさまに対しては、安息日のことなどをめぐって、ファリサイ派や律法学者の人たちがイエスさまを非難してきましたので、そういった人たちでしょう。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ということわざがありますが、これはまさにそれです。イエスさまに対しては、なんでも悪く言う。
 しかしそれは私たちにもそのようなことがあったりするのではないでしょうか。ある人についてイヤだと思うと、その人のすることなすこと何でもケチをつけたくなる。たとえその人が正しいことを言ったとしても、それを素直に受け取れず、嫌みを言いたくなる。‥‥そのようなことが私たちにはないでしょうか。色メガネで見てしまって、公平に見れないのです。そのようなことが、イジメにつながっているのだと思います。
 また他に、イエスさまを試そうとして「天からのしるしを求める」人がいました。天からのしるしというのは、神さまのしるしということです。つまり、イエスさまがなさっておられることが悪霊の力によるものではなく神の力によるのだというのなら、そのしるしを見せてみろ、というわけです。なんという不遜なことでしょうか。

悪霊の頭とは

 さて、イエスさまのことを苦々しく思っている人たちは「悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言ってイエスさまを中傷しましたが、それに対してイエスさまが反論しておられます。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。」
 悪霊というのはたくさんいるようです。霊ですから目には見えません。そしてその頭がベルゼブルと名づけられています。もちろんこれは人間が勝手に名づけたものでしょう。そしてここには「サタン」という言葉も出てきます。サタンは悪魔のことです。そして悪霊は、そのサタンの手下です。そしてサタンと悪霊は、人間が神さまを信じられないように誘導いたします。聖書ではだいたいにおいて、人間を苦しめることによって神さまを、あるいは神さまの愛を信じられなくする。それがサタンであり悪霊です。サタンは愛を信じることができません。また人間が神を信じるようになるということが信じられません。‥‥何かそう説明していると、サタンの言っていることのほうが正しく感じられてくる気がします。
 私たちも、この世の中に本当の「愛」というものがあることを信じられるかと言われれば、確信がもてないのではないでしょうか。また、どんなつらい目にあっても神を信じることができるかと言われれば、あやしくなります。反対に、ちょっとつらいことがあると、「神さまは私を愛しておられるのか?」と言って疑ってしまうのではないでしょうか。サタンは悪霊を使って、そのような人間の心理を突いてきます。そして神を信じられないように誘導します。
 そうするとイエスさまがここでおっしゃっていることも分かってきます。神さまが光だとしたら、サタンの陣営は闇です。愛が光であり、愛がないということが闇です。そのサタンが内輪もめをしたら、それは闇が闇を追い出すことになり、それは闇ではなくなってしまいます。したがって、イエスさまが悪霊の頭の力で悪霊を追い出しているという誹謗中傷は、そもそもなり立たないということです。
 また、「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」とおっしゃっていますが、これは、イエスさまを批判するファリサイ派や律法学者の教えを受けた者の中にも、悪霊を追い出すということをしている人たちがいたようです。ならばその人たちは、何の力で追い出すのか?と逆に問うておられるのです。自分の仲間が神の力で追い出していて、イエスさまが悪霊の頭の力で追い出しているというのなら、その根拠は何かと。
 このように言われては、もう反論もできないでしょう。

来ている神の国

 イエスさまは20節でおっしゃいました。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」 神の国が来ている‥‥神の国のほうから、あなたがたのところに来ている、というのです。これはたいへん印象的な言葉だと思います。なぜなら、「神の国」というものは、多くの人が考えるに、そしてわたしも昔思っていたように、こちらにやって来るものではない。こちらから行くものだ、と思うからです。
 この世に暮らしている私たちです。そこには、楽しいこともあるが、苦労も多く、問題はしばしば起こってくるし、心配事はつきません。そんな私たちにとって、「神の国」とか「天国」という言葉は、遙か彼方にある、ユートピアのようなところだと思えるのではないでしょうか。あるいは、死んでから行く世界であると考えるのではないでしょうか。つらく厳しいこの地上の生涯を終えて、真実の休息のために行くところであると。それまでは試練があり、苦労があり、つらい出来事が満ちているこの世を歩んでいかなければならない。そのように思えることでしょう。
 あるいは、ある人にとっては、「神の国」とか「天国」に行くためには、たいへんな努力、精進が必要であると考えるでしょう。修行を積んで、徳を高めて、そしてやがて神の国に入れていただくことができるのであると。こちらから行くものなのです。
 ところが、このイエスさまの言葉は「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。私たちのほうから精進努力して行くのではない。「神の国」のほうから、私たちのところに来たのだというのです。

神の指

 「神の指」ということについて、旧約聖書の出エジプト記8章12節〜15節を読んでいただきました。そのように神の指とは、神さまの力、神さまのわざのことです。神さまのわざがここに現れているのなら、神の国はもうここに来ていると。
 今、私たちはどうでしょうか?‥‥私たちの所にも神のわざが現れています。ヨハネによる福音書6章29節で「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と言われました。「神がお遣わしになった者」とはイエスさまのことです。イエスさまを信じる。それは神の業であるというのです。また、コリントの信徒への第一の手紙12章3節にこう書かれています。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」。
 私たちは自分でイエスさまを信じたと思っているかもしれません。しかしそれは違っています。私たちは自分の力でイエスさまを信じ、イエスさまを主と告白することはできないと聖書は言っています。私たちがイエスさまのことを主と告白することができるのは、聖霊の業、聖霊の働きであると言っています。そしてそれが神の業であると主イエスはおっしゃっています。
 このあと使徒信条を告白いたします。それはまさにイエスが主であると信仰の告白することです。その告白ができるということは、聖霊の働きであり、神の業、神の指の働きであると言うことができます。まさに十字架にかかられ復活されたイエスさまが、私たちの主であると告白するように神さまは導かれたからです。それがどんなに尊いことか。それは単に使徒信条という文章を読み上げているだけ、というのではありません。その告白のために、神さまは人間をお見捨てにならず、救うために導いてこられたからです。それは聖霊の働きです。すなわちそれは神の指であり、それゆえに、神の国はもうここに来ていると言うことができます。
 『神の国」という言葉は、原文では「神の支配」のことです。神さまが支配しておられる所が神の国です。悪魔が支配しているのではない。人間が支配しているのでもない。神さまが支配しているところが神の国です。私たちは、イエスさまを主と告白することによって、この世に居ながらにして神の支配、神の国の中に生きることができるということです。
 私たちは、何かあの世に行くまでつらいこの世の中を孤独に生きて行かなければならないのではありません。イエスさまを主と告白することによって、すでに神の国、神の支配の中に移されたのです。そして主と共に、神の指の働きの中を歩んでいくことができるのです。


(2013年7月21日)



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