礼拝説教 2013年7月14日

「求めよ」
 聖書 ルカによる福音書11章5〜13 (旧約 ダニエル書10:2〜3)

5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」




祈りを教わる

 本日のイエスさまのお話は、非常に印象的なお話しです。そして私たちに大きな希望と勇気を与えてくださいます。
 今日のお話は、この前の「主の祈り」の個所とつながっています。イエスさまの弟子の1人がイエスさまに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えて下さい」とお願いしました。そうするとイエスさまが、「祈る時にはこう言いなさい」と言って、いわゆる「主の祈り」を教えて下さいました。そして今日の個所に続きます。
 きょうの個所、5節は「また、弟子たちに言われた」となっていますが、正しくは「そして弟子たちに言われた」と訳したほうが良いもので、これは別の話をなさったということではなく、主の祈りの続きの話しをなさったということです。つまりイエスさまは、祈りということについて、まず主の祈りを教えて下さり、続いてきょうの所のことを教えて下さったということになります。したがってきょうの個所も、祈りについてイエスさまが教えて下さったことです。

真夜中のお願い

 まずイエスさまは、一つのたとえ話をお話になりました。それが、真夜中に友人の所にパンを借りに行った人のたとえ話です。
 その人の家に、1人の友達が旅行の途中に訪ねてきました。夕ご飯を食べないままに来たのでしょう。それで何か食べさせてあげようとしましたが、家には何もありませんでした。そこでその人は、もう夜中でしたが、近くに住む友人の家に出かけて行って玄関のドアをたたきました。そして、「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達が私のところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです」とお願いしました。
 するとその家の主人は、「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません」と答えました。‥‥これはある意味、当然と言えましょう。当時の庶民の家は、日本流に言えば6畳一間の小さな家でした。私も幼稚園児の頃、4人家族で6畳一間に土間付きの家に住んでいたことを思い出しますが、そんな感じでしょう。家族が身を寄せるようにして寝ているのです。それなのに、パンを捜すために明かりを灯したり、ごそごそしていたら、せっかく眠った子どもたちも目を覚ましてしまうでしょう。この子どもも赤ちゃんだったとしたらどうでしょうか。なかなか寝付かない赤ちゃんだったかもしれません。夜泣きをする赤ちゃんの苦労をなさった方ならば、どんなにたいへんかだいたい想像がつくでしょう。だから家の主人が、「面倒をかけないでください」と断った理由もうなずけます。
 だいたいパンを借りに来たこの友人は、非常識です。まず借りに行ったのが真夜中です。例えば旅の途中に寄った友達が飢え死にしそうだったというとかならともかく、そんな様子でもない。それなのに真夜中にパンを借りに行くというのは、あまりにも非常識に見えます。ところがイエスさまは、「こんな非常識なことはやめておけ」とおっしゃったのではありませんでした。8節をご覧ください。「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」!!
 確かに起きてきてパンを貸してくれるでしょう。しかしそれは友人のお願いを心から聞いてくれたのではなく、うるさくてかなわないからでしょう。真夜中、近所に玄関のドアをたたき続ける音が響きわたり、このままでは近所から苦情がくるでしょう。それに心配していたとおり、せっかく寝た子どもたちが起きてしまったことでしょう。この家の主人は、もうなんでも良いからとにかくパンを彼に貸して、帰ってもらうことだけが願いとなったことでしょう。「もう勘弁してくれ!」と言ってドアを開けてパンを貸す。‥‥その光景が、私たちの目に浮かびます。

祈り求め続けよ

 そして、イエスさまは、このように父なる神さまに向かって祈り求めなさいとおっしゃるのです。
 9節をご覧ください。「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」‥‥この有名な言葉は、マタイによる福音書では「山上の垂訓」のところで出てきます。そして世間一般では、「求めよ、さらば与えられん」という文語のほうの聖書の言葉が有名です。そしてその言葉は、一般に「何でもいっしょうけんめい求めるならば、与えられるものだ」という格言として使われています。
 しかし聖書では、「誰に向かって求めるのか」ということが一番大事です。すなわち、父なる神さまに向かって求めなさい、ということです。
 この「求めなさい」という言葉のギリシャ語は、詳しく言うと「求め続けなさい」という意味になります。そして続いて、「そうすれば与えられる」というイエスさまの約束となっています。「天の父なる神さまに向かって、求め続けなさい。そうすれば与えられる。父なる神さまに祈りつつ探しなさい。そうすれば神さまが見つけるようにしてくださる。門をたたき続けなさい。そうすれば開かれる。」‥‥まさに今のたとえ話です。
 そのように、祈り続けなさいと励ましておられるのです。この家の主人が、あんまり友人がうるさく門をたたき続けるので、うるさくてかなわないから門を開けてパンを貸してくれたように、と。そのように祈りなさいと、イエスさまは教えておられるのです。私たちはそのように祈って神さまにお願いしているでしょうか?‥‥ちょっと祈って、あきらめていないでしょうか? 少ししか祈らないのに、「神さまは祈りを聞いてくれない」と思っていないでしょうか?

なぜすぐに応えられない?

 しかし、なぜ神さまは祈りにすぐに応えてくださらないのでしょうか?‥‥もちろん、すぐにかなえられる祈りもあります。しかし、祈り続けて長いことかかる場合も多くあります。なかなか祈りが聞かれない。そのようなとき、私たちは神さまを疑います。なぜ神さまはすぐに祈りをかなえてくださらないのか?
 その答えについては、いろいろなことを挙げることができます。しかし今日は、その理由を学ぶことはいたしません。神さまには神さまの理由があるということです。
 きょう読んでいただいた旧約聖書は、ダニエル書10章の中の言葉でした。預言者であったダニエルは、あるとき嘆き、神の御心を知ろうとして祈り始めました。うまい物を食べず、肉も酒も口にしないで、3週間祈り続けました。すると神さまの答えが与えられました。神さまからの答えがあるまで、それだけ嘆願し続けたのです。
 きょうの聖書が教えていることは、なぜ神さまがすぐに祈りを聞いてくださらないかということではありません。あきらめずに祈り続けなさい、神さまに求め続けなさい、答えがあるまで門をたたき続けなさい、ということです。そのようにイエスさまは励ましておられるのです。そして家の主人が、あんまりうるさくてかなわないからといって起きてきてパンを貸してくれたように。

祈りはきかれる

 チイロバ先生こと榎本保郎牧師が戦前の旧制中学4年生の時、英語の先生から初めて手紙をもらったことがあったそうです。先生から手紙をもらうというのは尋常ではない。何かと思って開けてみると「榎本、昼弁当は昼の時間に食べなさい」と書かれていた。早弁をしていたのがばれていたそうです。そして同時に、何か訳の分からないことが書かれていたそうです。そこには「エホバ」というようなことが書かれていました。しばらくしてまた先生から手紙が来た。今度は、試験についての注意でした。この先生からは3回手紙をもらったが、3回とも注意の後に聖書の言葉が書かれていたそうです。しかし当時の榎本先生には、それが聖書の言葉とは分からない。それで、村の物知りの人に手紙を持っていって、これは何が書いてあるのかと見てもらったそうです。するとその人は、「これは耶蘇の手紙やゾ」と言った。榎本少年はたいへんびっくりして、それからはヤソに関わるまいと思って、先生から遠ざかったそうです。
 それから歳月が流れ、榎本先生はキリストを信じるものとなり同志社の神学部に入りました。そして、あの旧制中学の英語の先生のことを思いだしました。先生が、この自分が神学校に入ったことを知ったら喜ぶだろうと思って先生の行方を調べて、やっと分かり、手紙を出したそうです。すると先生が返事をくれました。たいへん喜んでいるようすでした。そして遊びに来いという。先生は神戸に住んでいたそうです。そしてある時先生を訪ねました。すると先生の奥様が「榎本先生、うちの家宝をあげます」と言って、タンスから大事そうに箱を持ってきたそうです。そしてそこから出したのは、すすけたハガキだったそうです。それは、あの時、先生の手紙に対して出した2通の返事のハガキでした。奥様が言うには「私たちは、あなたのためにずっと祈ってきました。これは、祈りが聞かれるっていうしるしです。2枚持っている必要はありませんから、1枚あげます」と言って1枚くれた。
 榎本先生は、どうして自分がキリスト信者になったのか、それまで分からなかったそうです。だれも教会に連れて行ってくれなかったからです。しかし、御霊なる神が導いてくださった。その背後に、この先生夫妻の祈りがあったのだと、言っておられます。(1975年3月5日北海道ケズィックでの説教)

良いものをくださる主

 「求め続けなさい。そうすれば与えられる」と主はおっしゃいます。
 11〜12節を見ますと、「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」と主がおっしゃっています。
 これを聞くと、どのように祈りがかなえられるかが少し分かります。このイエスさまの言葉からすると、逆に私たちが、蛇を求めたとしたらどうか。神さまは蛇を求めても蛇を与えられないでしょう。サソリを求めてもサソリをお与えにならないでしょう。すなわち、神さまは、良いものを与えてくださるということです。ですから、私たちが祈り願ったその通りになさるとは限りません。私たちを本当に愛しておられる父なる神さまが、一番良いと思われるときに、一番良い方法で、また私たちにとって本当に良い形で答えてくださるということです。
 そして今日の聖書の最後の言葉です。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。聖霊は神です。神御自身よりも良いものは、この世界の中にありません。聖霊なる神御自身を私たちが求めるならば与えてくださるというのです。そのように、私たちの天の父なる神さまは、神御自身さえもくださるおっしゃいます。そしてそこにも「求める者に」と述べられています。
 そのように、すべては「求める」ということから始まります。天にいます私たちの父なる神さまに向かって求める。求めなくては始まりません。祈りにもなりません。神さまの働きを見ることはできません。 「求めなさい。そうすれば、あたえられる。」本日のイエスさまのたとえ話を思い起こして、祈り求め、神さまの家の門をたたき続ける者でありたいと思います。一見非常識で、神さまに迷惑とも思える。しかし、そのように祈って良いのだと、イエスさまは励ましてくださっています。


(2013年7月14日)



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