礼拝説教 2013年7月7日

「聞かれる祈り」
 聖書 ルカによる福音書11章1〜4 (旧約 詩編28編6〜7)

1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。
3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
4 わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」




主の祈りの後半

 本日は「主の祈り」の後半部分です。前回は、前半の所を学びました。それは神さまのための祈りでした。まず私たち自身のことではなく、神さまの願い、イエスさまの願いを祈る。そのようにイエスさまは教えられました。私たちがまず神さまの願い、イエスさまの願いを祈るときに、私たち自身の生きる意味が分かってくるということを教えられました。
 本日は、主の祈りの後半です。後半は、直接の私たち自身のための祈りとなっています。そしてその最初が3節です。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ

 「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」。先ほどご一緒に唱和しました文語の主の祈りでは、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」です。
 ここで言う「糧」とは、原文のギリシャ語では「パン」という意味です。主食です。すなわち食べ物です。また、「必要な」という言葉ですが、これは原文では「どうしても必要な」という意味になります。つまり、それがないと生きていけないような、生きるためには必要なパンを与えてくださいということです。すなわちここは、「私たちが生きるために、どうしても必要なパンを毎日与えてください」という意味になります。日本流に言えば、「私たちが生きるために、毎日ごはんを与えてください」ということになるでしょう。それを父なる神さまに求めよと。ごはん、食べ物を食べなければ、人間は死んでしまいます。それを神さまに求めなさい、と。
 これはたいへんな驚きではないでしょうか。イエスさまは、私たちが自分たちのことを祈るときに、ごはんが食べられるように祈りなさいとおっしゃっておられるのです。なぜそれが驚きかというと、もっと高尚なことを祈れとおっしゃるのではないからです。例えば、「私たちが世のため人のためになることができますように」と祈れとはおっしゃっていないからです。もちろん、そのように祈ることも大切なことには違いありません。しかしそれが第一ではない。イエスさまが、「祈る時にはこう言いなさい」とおっしゃり、私たちが私たちのために祈るときに、「生きていくためにどうしても必要なごはんを毎日与えてください」と祈りなさいとおっしゃっているのです。すなわちこれは言い換えれば、神さまは私たちが生きることを願っておられるということです。「生きなさい」と。そのための食物を神さまに求めなさい、と言っておられる。そして神さまは、その祈りに応えてくださる。
 私は、この言葉も感動するんです。なぜなら、私のような者でも、何も世の中の役に立っていないような私のような者でも、今日を生きるための食物を神さまに求めて良いというのですから。神さまは、こんな私のような者でも、食べる物を求めて良い、生きることを願って良いとおっしゃるからです。
 神さまが、私たちに生きることを願っておられる。そして、私たちが永遠に生きることができるようになさるために、御子イエスさまが十字架にかかられることになります。私たちが神さまから愛されている、ということがこの一行から伝わってきます。

我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ

 続いて4節です。「私たちの罪を赦してください。私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」。
 この「私たちの罪を赦してください」の言葉のあとには、本当は「なぜなら」という言葉があります。それで文語の主の祈りのように「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」となるわけです。すなわち、私たちが私たちに負い目のある人、過ちを犯した人を赦しますから、私たちの罪を赦してくださいと、私たちが他人の罪あやまちを赦すことが条件となっています。
 そして、ルカによる福音書にはありませんが、マタイによる福音書の主の祈りのほうは、なかなか他人のあやまちを赦すことができない私たちに念を押すかのように、「もし人のあやまちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをおゆるしになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」という言葉が付け加わっています。
 私たちは、自分に対してなされた他人のあやまちを赦すことが難しい者です。自分が他人に対して犯した過ちは、すぐ忘れます。あるいは気がつくことすらないかもしれません。しかし他人が自分に対して犯した過ちを忘れることはありません。それが時には憎しみとなって、鬱積していきます。恨みとなって、うまくいかないのはその人のせいであるとさえ思うことになります。その結果、自分から喜びを奪い、力を奪い、つまらない人生を歩むこととなってしまいます。
 すなわち、他人を赦さないということは、その他人を苦しめるというよりも、自分自身を苦しめることになってしまいます。イエスさまはそのことをご存じで、私たちが喜びに満ちて、生き生きと生きてほしいという思いから、赦すことについて祈りなさいとおっしゃっておられるのだと思います。しかし簡単に言いましたが、赦すということは実に難しいことです。私たちはどうしたら他人のあやまちを赦すことができるのでしょうか。

赦しの奇跡〜ベトナム戦争の少女

 最近、非常に驚いたことがありました。それは、5月12日号の「クリスチャン新聞」を見たときのことです。そこに、ある女性の証しが載っていたからです。その人は、ファン・ティー・キム・フックさんというベトナム人の女性でした。
 私が子どもの頃、ベトナム戦争という戦争がありました。私も中学・高校生の時に、この戦争に非常に関心を持ちました。当時ベトナムは、今の朝鮮半島のように、北ベトナムと南ベトナムの二つの国に分かれていました。そして北ベトナムを中国とソ連が支援し、南ベトナムをアメリカなどが支援するという情勢でした。そして、その南ベトナムの中で、アメリカに支援された政府軍と、北ベトナムに支援された反政府軍が戦争を繰り広げているという状況でした。
 中学、そして高校の時になぜわたしがベトナム戦争に関心をもったかと言えば、世界の超大国であるアメリカ軍が、最新鋭の兵器を用い、爆弾を落としまくっているもかかわらず、南ベトナムの反政府軍は負けないということからでした。そしてその戦争の悲惨さが日本でも連日のように報道され、私は政治に目覚めていったのでした。今私が政治に関心があると聞くと、驚く方がおられるかもしれませんが。実は私は、子どもの頃から政治に関心があったのです。
 そのベトナム戦争の中で、一枚の写真が私の記憶にとどまりました。それがこの写真です。ご記憶の方も多いのではないかと思います。なぜならこれは、ピューリッツァー賞という、アメリカで新聞報道に与えられるもっとも権威ある賞を受賞した写真だからです。これは、南ベトナムのある村が、南ベトナム政府軍とアメリカ軍の飛行機によってナパーム弾の爆撃を受け、火の海となったときに、その村から逃げる子どもたちを撮った写真です。この写真は当時の世界の人々に大きな衝撃を与えました。何も語らない一枚の写真が、無言のうちに戦争の悲劇をもっとも雄弁に訴えているのがよく分かる写真でした。実際、この一枚の写真が世論を動かし、戦争終結を早めたとさえ言われています。当時中学生だったであろう私も、この写真を覚えています。
 そしてこの写真の真ん中、火がついた服を脱ぎ捨てて裸で泣きながら走っている少女が、ファン・ティー・キム・フックさんでした。今から41年前、9歳の時のことだったそうです。
 この写真の出来事の後、キム・フックさんは、この写真を撮ったカメラマンによって病院に運ばれたそうですが、重度の火傷で助からないと判断され、遺体安置所に移されたのだそうです。しかし引き取るために来た両親が、病院で働いていた古い友人に、娘を助けてくれと懇願し、14カ月の入院中、17回の手術によって一命をとりとめたそうです。退院後も苦しいリハビリが続き、腕には火傷の跡が残ったそうです。やがて政府は、自分を戦争のシンボルに仕立てて、海外メディアの取材に駆り出すようになりました。そんな中で、すごく苦しく、こんな目に遭わせた人たちを死ぬほど憎んだそうです。
 そして、どうしたら心に平安を得られるかと思って図書館でいろいろな宗教書を読みあさったそうです。そんなある日、1982年のクリスマス、聖書に出会ったのだそうです。その中についに答えを見つけることができたそうです。「神さまがわたしの人生に何か目的を持ってられることを知りました」と、新聞記事の中で述べておられます。そしてクリスチャンのいとこが、教会に連れて行ってくれた。そこで、クリスマスのメッセージを聞いたそうです。‥‥「なぜクリスマスをお祝いするか分かりますか。赤子のイエスさまが世に来られた。それは罪に苦しむ私たちのために十字架にかかって死ぬためだったのです。このイエスさまを個人的な救い主として受け入れる時、心に平安が与えられます。‥‥」そしてキム・フックさんはこう述べています。「この話が心に触れ、私は心を開いて救い主としてイエスさまを受け入れました。それ以来、人生が変わったのです。祈るほどに平安と喜びに満たされるようになりました。」
 1996年、アメリカのワシントンで開かれた、ベトナム戦没者追悼式に招かれたキム・フックさんはこうスピーチをしました。「神は私を救い、希望を与えてくださいました。あの爆弾を落とした兵士とでも、今は面と向かって話すことができます。私には夢がある。いつの日には、世界が戦いをやめることです」と。
 そこに、あの時あの爆撃に参加した退役軍人のジョンさんがいました。そして彼女のスピーチを聞いて驚いたそうです。‥‥あの日、自分は今日も良い仕事をしたと思っていた。しかし翌日新聞を見て、打ちのめされた。まさかあんな子どもまで傷つけていたなんて、と。「彼女は空爆した私たちへの憎しみを語ると思っていたのに、赦しだけを語ったのです。」 直接会って謝罪したいと、ジョンさんはキム・フックさんを訪ねたそうです。するとキム・フックさんは、「心からあなたを赦しています」と言った。ジョンさんは、「人生で一番すばらしい瞬間でした」とインタビューで答えています。その後2人は、互いのことを祈り、助け合う良い友だちになったということが、クリスチャン新聞に書かれていました。
 もしキム・フックさんが、キリストに出会うことなく、空爆をした兵士たちを赦さずに憎しみ続けていたらどうだったでしょうか。それは何か彼女にとって、良いことになったでしょうか。むしろ、赦さないということは、彼女自身を苦しめ、傷つけ続けたことでしょう。しかし赦すことによって、平安が与えられ、敵であった者が友となりました。
 これは私たち自身についても言えることです。赦すということは、赦しがたい人を赦すということです。なぜそんなことをするかと言えば、私たちも赦しがたい神の敵であったのに、イエスさまが十字架にかかってくださって、赦しがたい私たちを赦してくださったからです。

わたしたちを誘惑に遭わせないでください

 最後の一行は、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」という言葉です。これは、悪魔の誘惑に遭わせないで下さいということです。その誘惑というのは、神を信じられなくする誘惑です。私たちは自分の力では誘惑に勝つことができません。神を信じ続けることができないのです。ですから、神から離れ誘うとする悪魔の誘惑に遭わせることがないよう、父なる神さまに祈り、助けてもらいなさいと、イエスさまは教えておられるのです。
 このように見てまいりますと、主の祈りは、イエスさまが本当に私たちのためになる祈りを教えて下さったということが分かってきます。それは、私たちが本当に生き、そして平安のうちに主と共に歩むことができるように、必要な祈りです。あらためて主の祈りを毎日味わいながら祈り、歩んでいきたいと思います。


(2013年7月7日)



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