礼拝説教 2013年6月30日

「祈りを教わる」
 聖書 ルカによる福音書11章1〜4 (旧約 詩編102編19)

1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。
3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
4 わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」




主の祈り

 本日の聖書個所は「主の祈り」が教えられている個所です。「主の祈り」につきましては、私が逗子教会に赴任して間もないころ、マタイによる福音書のほうの「主の祈り」について連続講解説教をいたしましたし、最近も教会報「ぶどうの木」に「実践!主の祈り」と題して連載いたしました。それで、今回のルカによる福音書の「主の祈り」は、一行ずつ扱うことをしないで、今日と来週の2回で前半と後半を学びたいと思います。

祈りを教えて下さい

 マタイによる福音書のほうは「山上の説教」の中で、主が教えておられましたが、このルカによる福音書では、弟子がイエスさまに「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えて下さい」とお願いしたことに対して、イエスさまがお答えになり、「祈る時は、こう言いなさい」とおっしゃって主の祈りをお教えになっています。
 まず1節をご覧いただくと分かりますように、イエスさまがあるところで祈っておられたと書かれています。そしてイエスさまが祈り終えられると、弟子の一人が「祈りを教えて下さい」とお願いしています。「祈りを教えて下さい」と言っていますが、もちろん弟子たちが祈りを知らないわけではなかったでしょう。ユダヤ人はだいたい日に三度祈りの時を持ったと言われています。ですから、弟子たちももちろん毎日祈りをしていたことでしょう。
 しかしではなぜ「祈りを教えて下さい」とお願いしたのか?‥‥それはおそらく、イエスさまの祈りを聞いていて、自分たちの祈りと明らかに違うものをそこに感じたからでしょう。自分たちも神さまに祈る。しかしイエスさまの祈りを聞いていると、明らかに違うものがある。
 すでにルカによる福音書では、10章21節からのところに、イエスさまが喜びにあふれて祈られた言葉が書き記されています。それを読むと、天地の造り主である神さまを「父」と呼ばれ、しかも非常に父なる神さまと親密である印象を受けます。実に、天地の造り主である神さまと、実の親子のように祈りの中で会話しておられます。そのような祈りが、弟子たちにとっては非常に新鮮に聞こえたのではないでしょうか。それに対して自分たちの祈りは、何か形ばかりの祈りのように思えたに違いありません。
 さらに、弟子たちは今までイエスさまと共に歩んできて、イエスさまがなさるさまざまな奇跡、病の癒しや悪霊の追放といった奇跡、たった5つのパンと2匹の魚によって井万人以上の人々を満腹させたという奇跡などを見てきて、そこに神さまの力が働いているのを見てきたことでしょう。そのイエスさまの力の源であるのが祈りであることを、弟子たちは見て取ったことでしょう。すなわち、イエスさまの祈りに対して、神さまが豊かにお答えになっている。そのような祈りであることを、弟子たちは見てきた。それでイエスさまに「祈りを教えてください」とお願いしたくなったということも言えるでしょう。

どのように接するか

 そもそも祈りというものは、神さまと私という1対1の会話です。「祈りを教えて下さい」というお願いは、「神さまにものを言う仕方を教えて下さい」「どのように接したらよいか教えて下さい」ということです。
 考えてみると、わたしたちが「人間とどのように語ったら良いか教えて下さい」と人に聞く場合はどのような時でしょうか?‥‥毎日わたしたちが接する人、あるいはふつうに出会う人について、「あの人とどのように話したら良いでしょうか?」とは聞かないでしょう。ふつうに挨拶することから会話が始まるでしょう。ではどういう人と話をする場合に、誰かに聞くのか?
 私が初めてそのようなことをことを教わったのは、高校入試の面接の時にどうしたらよいか、ということを中学の先生に教わった時のような気がします。中学生にとって面接などということは初めてのことでしたから、どのように言って挨拶をしたら良いか、続きはどうしたら良いか、まだ分からないわけです。次に思い出すのは、社会人になった時に、新入社員としてお得意様にどのように接したら良いかということだったように思います。そしてそのような接し方を誰に聞くかといえば、それは先輩社員です。
 弟子たちは、イエスさまが天地の造り主である神さまと、全く親しく、実の親子のように(実際実の親子であるわけですが)祈っておられる。そして神さまの力をいただいている。‥‥そのようなことを見てきて、イエスさまに祈りを教えて下さいとお願いしたのであろうと思います。いと高き神さま、天地の造り主である神さま、そのお方と本当に親しく接したい。もっと神さまを知りたい。神さまにお近づきになりたい。イエスさまのように‥‥。そういうことであったろうと思います。私たちも同じように思うのではないでしょうか。

神の願い

 そこでイエスさまがお答えになり、「主の祈り」と呼ばれる祈りをお教えになりました。「祈る時には、こう言いなさい」とおっしゃって。そして今日は前半部分である2節を見てみます。‥‥「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」。
 マタイによる福音書の主の祈りは、「御国が来ますように」のあとに、もう一文「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」という言葉が加わっています。ルカ福音書では、この言葉の意味は、「御国が来ますように」という一文に含まれると考えていると思われます。
 最初の「御名が崇められますように」とは、神さまが礼拝されますようにと言うことであると言って良いでしょう。次の「御国が来ますように」というのは、前にも学びましたように、この世に神の国が来るように、という祈りです。それは、人々が神さまを心から信じて、神さまのご支配がこの世に及びますように、ということです。そしてさらに、世の終わりに現れる神の国が訪れるように、という願いです。
 これらの祈りは、自分自身の直接の利益に関する願いではないように思われます。自分のための祈りというよりも、神さまのための祈りと言えます。神さまのための祈りというのは、神さまの願いを祈るということです。すなわち、神さまが私たちに願っておられることがこの前半部分であるということになります。
 私たちは、まず自分の願いを祈りたいものです。私たちには、いろいろと神さまにかなえてもらいたいことがあります。しかしその前に、まず神さまの願いを祈りなさいというのがこの祈りです。イエスさまは私たちに対して、まず神さまの願いを共に祈ってほしいとおっしゃっていると言えます。
 これは考えてみれば当たり前のことだと思います。私たちが誰かと会話をする時、どうでしょうか。自分のことばかり話して、相手のいうことを聞こうとしない人と話すのは苦痛ではありませんか。
 私が社会人になったばかりの時、東京の営業所に配属されましたが、私はそれまでは営業マンというと、なにか口の達者な人というイメージがありました。口が上手で、弁舌さわやかな人と思っておりました。ところが先輩社員をよく見ていると、そうではないことが分かってきました。むしろ、売り上げの良い営業マンというのは、どちらかというと無口で、口べたな人が多いように思われました。しかし、お得意さんのいうことに耳を傾ける、そういう人であるようだということが分かってきました。考えてみれば当たり前のことです。自分の会社の製品の宣伝や売り込みをするのは良いけれども、こちらのほしい商品ではなく、こちらの要求は聞いてくれないのであれば、それをお店に置こうという気持ちにはなりません。
 神さまとお得意さんと一緒にするわけではありませんが、ましてや私たちをお造りになった神さまの願いを私たちは本当に耳を傾けて聞いているだろうかと思うのです。

御名が崇められますように

 「父よ、御名が崇められますように」‥‥神の御名が崇められること、神さまが礼拝されること、それが神さまの御心です。もちろん、口先だけではなく、心から神さまを崇める、礼拝する。今私たちが礼拝しています。心から神さまを礼拝する。それが神の御心であるというのです。
 もう一個所、旧約聖書の詩編102:19を読みました。‥‥「後の世代のために、このことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された』」。
 私は昔、この御言葉を知った時に、本当に感動しました。神さまが私たち人間をお造りになった理由がここに明らかにされています。それは、主なる神さまを賛美するために造られたということです。賛美とは、礼拝と言い換えても良いでしょう。私たちは、何か大きな仕事をするために造られたのではない。何か立派なことをするために造られたのでもない。世のために人のためになるように造られたのでもない。もちろん、世のため人のためになることができればそれに越したことはありません。しかしどう頑張っても、世のために人のためになるようなことができない。それどころか、失敗ばかりし、人様の役に立つようなことが何もできない。まさに、そんな自分に値打ちがあるのかと思える自分がいる。
 しかし聖書は告げます。「主を賛美するために民は創造された」と。主を礼拝し、賛美するために私たちは造られた、命を与えられたのだと。これは大きな慰めであり、励ましです。今私たちが心から主を礼拝するならば、主が私たちをお造りになった目的が果たされているのです。
 「父よ、御名が崇められますように」‥‥この主の祈りの第一の願いは、世界中の人々が主を礼拝するようになることを、主が待っておられるということです。そのために私たちにも祈ってほしいと言われるのです。私たちはたいへん励まされます。私たちは、この社会の中で、日曜日の午前中に教会に集って主を礼拝するというのは、全く少数派かもしれません。でも神さまの願いは、この社会の人々すべてが、主を礼拝するようになることであるというのです。私たちは世の中で少数派で変わり者であるのではありません。神さまは、すべての人が真実に主を礼拝するようになることを願っておられるのです。
 そしてまず私たちが、その礼拝に導かれている。感謝なことではありませんか。

父よ

 そして最後になりましたが、イエスさまは、主の祈りの最初で、神さまに対して「父よ」と呼びかけるように言われました。天地の造り主である神さまを「父」と呼んでよいのだと。
 なぜ私たちは、天地の造り主である全能の神さまを「父」と呼ぶことができるのか。確かに主なる神さまはイエスさまの父であるには違いありません。しかしなぜその方を私たちが父と呼ぶことができるのか。それはひとえに、イエスさまが十字架にかかって下さったからです。本当は私たちは神に背き、罪を犯しているので、とても神さまを父と呼ぶことなどできないはずです。しかしそれをイエスさまは、十字架にかかって、ご自分の命と引き替えにしてゆるしてくださった。それで、神さまを父と呼ぶことができる。
 ですから、ここには書かれていませんが、イエスさまが、「わたしが十字架にかかるから、あなたがたはこう祈りなさい」とおっしゃっておられると言ってよいでしょう。イエスさまが十字架にかかって、私たちを神の子としてくださった。だから私たちは、神さまを「父」と呼ぶことができる。
 そしてイエスさまと共に、「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」と祈るようにと言って下さる。イエスさまと共に、神さまの願いを祈り願う。イエスさまのお手伝い、神さまのお手伝いをさせていただいているということです。この祈りを祈ること自体が、神さまのお役に立っているということです。感謝ではありませんか。


(2013年6月30日)



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