礼拝説教 2013年6月16日

「良いほうを選ぶ」
 聖書 ルカによる福音書10章38〜42 (旧約 申命記27章9)

38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」




マルタとマリア

 きょうの聖書個所は聖書の小見出しに記されていますように、「マルタとマリア」として知られている個所です。この二人の女性は兄弟であり、私たちの手にしている聖書ではマルタが姉でマリアが妹であるように書かれていますが、実際はどちらが姉でどちらが妹なのかは分かりません。というのは、英語と同じように、ギリシャ語も姉とか妹という単語がなく、単に姉妹ということが分かるだけだからです。それで文脈から判断して、マルタが姉でマリアが妹であろうということで、そう訳されているわけです。
 さて、そのマルタとマリアの姉妹の家にイエスさまが入られた。迎え入れたのはマルタです。おそらくイエスさまだけではなく、何人かの弟子たちも一緒に入られたことでしょう。そこでイエスさまが、お話しをされた。そしてマリアは、イエスさまの足もとに座ってそのお話を聞いていました。一方マルタはと言うと、「いろいろのもてなしのためにせわしく立ち働いて」いました。しかししばらくして、マルタはイエスさまの所に来て申し上げました。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、なんともお思いになりませんか?手伝ってくれるようにおっしゃってください」。するとイエスさまがお答えになった‥‥というのがきょうの聖書個所です。

マルタかマリアか

 この聖書個所をめぐっては、読む人によっていろいろな意見が出ます。私も、今までいろいろなところで、さまざまな異なる意見を耳にしてまいりました。
 まずよく聞かれるのが、マルタに対する同情論です。マルタは、イエスさまたち一行をもてなすために忙しく働いていたわけです。台所仕事をいっしょうけんめいしていたことでしょう。大切な客であるイエスさまです。そして当時は、電気もなければ水道もない時代です。大事なお客さんをもてなすためにすることは、たくさんあったことでしょう。それでマルタは、いっしょうけんめい立ち働いていた。それなのに、妹のマリアは、マルタを手伝うこともしないでイエスさまのそばに座ってお話しに耳を傾けている。‥‥これはマリアも悪いでしょ、というような意見です。「なんでお姉さんを手伝わないのか?」と。
 とくに教会の中にあてはめてこのことを考えて、マルタを擁護する意見も多いように思います。つまり、「マルタも必要だ」という意見です。 「たしかにマリアのように、みことばを聴くということは大切に違いない。しかし、実際にはマルタのような人もいなければ教会はうまくいかない。台所仕事や、奉仕活動をいっしょうけんめいする人がいてこそ、教会は支えられているのだ。」‥‥というような意見です。たしかにそれはその通りであるには違いありません。それで、マルタを擁護する。私たちはこれをどう考えたらよいのでしょうか。

礼拝と給仕

 実は、私はこの時と似たような経験をしたことがあります。それはもうずいぶん前のことですが、ある時ある教会から特別伝道礼拝の説教をするように依頼を受けました。私はそれをお引き受けをして、その教会に出かけて行きました。そして礼拝が始まりました。そうすると礼拝中に、二人のご婦人が礼拝堂に出たり入ったりしておられるのです。しかもどうも新来会者ではないらしい。教会に長くいる人のような雰囲気なのです。ちょっと気になりました。しかも説教中も出たり入ったりしておられるのです。学校の教室での授業で教壇に立っていると、後ろのほうの席に座っている生徒の挙動ほど目立つものですが、教会の講壇も同じでありまして、後ろの方で出たり入ったりしておられるのが非常に目立つのですね。私は、「いったい何をしているんだろうな?」と内心思いつつ講壇に立って説教しておりました。そんな余分なことを考えずに説教に集中しなければならないのですが、気になるのです。
 そして礼拝が終わってから、なぜそのようにその人たちが出たり入ったりしていたのかが分かりました。それは、礼拝後に愛餐会が持たれ、講師である私とその教会の牧師を囲んで昼食となったのですが、私ととなりに座っているその教会の牧師の前だけに、フルコースかと思われるような立派な料理が並べられていたのです。私は、「ああ、この料理を準備するために、教会の台所と礼拝堂を行き来していたのか」と分かりました。
 他の教会員たちは、それぞれ自分の持ってきたお弁当を広げていました。たしかに、そのように腕によりをかけた料理を用意してくださったことはありがたいには違いないのですが、そのためにちゃんと礼拝を守っていたのか、説教を聞いていたのかいないのかと思うと、複雑な心境になりました。「私はこの教会にごちそうを食べに来たのではない。神の御言葉を取り次ぐために来たのになあ‥‥」と思いました。ごちそうもうれしくありませんでした。いや、料理の準備があることが理由で礼拝をちゃんと守れないのなら、むしろ私はスーパーのお弁当で十分だと思いました。

イエスさまの答え

 あらためて聖書をもう一度見てみましょう。マリアはイエスさまの足もとに座って、イエスさまのお話に聞き入っていました。マルタのほうは、イエスさまの接待のために忙しく働いていました。しかしイエスさまのそばに来て、言いました。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、なんともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
 このマルタがイエスさまに申し上げた言葉ですが、面白いと思います。マリアが自分の仕事をぜんぜん手伝わずにイエスさまの足もとに座っているのを見て、直接マリアを注意したのではなく、イエスさまに言っている点です。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、なんともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」‥‥これはまるでイエスさまに対しても、文句を言っているような言葉に聞こえます。「手伝わないマリアもマリアだが、それを許しているイエスさまもイエスさまだ」というような気持ちが表れているように聞こえます。それで、イエスさまに対しても腹を立てているようです。
 それに対してイエスさまがお答えになりました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 これはマルタを叱責している言葉ではありません。その証拠に、マルタの名前を二度繰り返して語りかけておられます。このような場合は、親しみを込めて言う場合です。ですからイエスさまは、マルタを叱ったのではなく、愛情込めておっしゃっいました。

もっとも必要なこと

 しかしそこでイエスさまが語られていることは、とても重要なことです。たしかにマルタもイエスさまのことを考えて、いっしょうけんめいになっている。それは間違いありません。だからイエスさまも、マルタを叱るのではなく、やさしく諭すようにおっしゃっておられる。しかしおっしゃっていることは、私たちの信仰の非常に大切なポイントです。
 42節をご覧ください。「しかし、必要なことはただ一つだけである」。これは、イエスさまをもてなすために給仕のことでいっしょうけんめいになっているマルタを気遣いながらも、本当に必要なことは何かということについて、釘を刺しておられる言葉です。なぜなら、ここでイエスさまは、「あれもこれも必要だ」とはおっしゃっておられないからです。「必要なことはただ一つだけである」とおっしゃっておられるんです。マルタもたしかに大切なことをしている。しかしどちらも同じように「必要か」と言えば、そうではない。「マリヤはよいほうを選んだ」と。マルタのしていることとマリアのしていることと比べたら、マリアは良いほうを選んだのだとはっきりおっしゃっておられるんです。
 そして「それを取り上げてはならない」と最後に言っておられます。ここは正確に言うと、文法的には命令形ではなく、未来形になっています。ですから日本語には訳すのは難しいのですが、もう少し分かり易く言うとすれば、「それを取り上げるつもりはない」ということになるでしょうか。つまり、イエスさまは、マルタがイエスさまに「妹に手伝ってくれるように言って下さい」という要求に対して、はっきりと「No!」とおっしゃっていると言えます。
 そうすると、最初のところで申し上げたマルタへの同情論のように、「そんなこと言っても、マルタのように給仕をする人がいなければ教会はやっていけないではないか」という、言わばイエスさまの言葉への反発が起きることになります。しかし、イエスさまは、いつも料理や給仕をすることが必要ではないとおっしゃっているのではありません。今、この場面ではどうか、ということです。、イエスさまは御言葉を語っておられた。神の国の言葉です。それに耳を傾けて聞くということが、必要なただ一つのことであると、おっしゃっているのです。

かけがえのない尊い時

 イエスさまから神の国の言葉を聞くということは、後回しにできることだろうかと考えてみたいと思います。この時イエスさまは、イスラエルの民の隅々まで神の国の福音を宣べ伝えるために旅をしておられました。町から町へ、村から村へと足を棒のようにして歩いておられました。そしてマルタとマリアの家に入られたのです。いつまでもこの家におられるわけではありません。もしかしたら、この家には1時間しかおられないかもしれません。そう考えるとどうでしょうか。もしイエスさまが今ここに来られて、1時間しかここにおられないとしたら、私たちは何をするでしょうか。接待をしているうちに時間は過ぎてしまいます。私たちは何をするでしょうか。
 そのように考えてみますと、マリアの態度も、そしてイエスさまの言葉もどういうことかが見えてまいります。かけがえのない時間です。もうこれで、地上にいるうちはイエスさまとお目にかかれないかも知れません。実際、イエスさまがエルサレムで十字架にかけられる時は、刻々と迫っています。そのイエスさまが来られた。そしてゆっくりもなさっておられない。そう考えると、イエスさまの言われた言葉の意味が分かってきます。
 私たちは週に一回、この礼拝に集ってまいります。そして讃美歌を歌い、神の言葉を聴き取ろうとして耳を傾ける。礼拝は1時間ちょっとです。一週間には168時間あります。そのうちの約1時間、神さまの言葉を聞き取るために費やす。これは非常に貴重な1時間であるように思います。
 人生は長いから、いつでも神さまの言葉を聞く機会があるでしょうか? しかし私が見たところによると、人生のうちで、真の神さまの言葉を聞きたいと思う機会は、そう何度も訪れないように思います。「やがて歳を取って定年退職したら教会に行く」という人がいます。しかしその時が訪れるかどうかは誰にも分かりません。今は若いと思っていても、人生はあっと言う間です。本当に、あっと言う間です。いや、逆に、働き盛りで忙しいからこそ、そういう人のために語りかける神の言葉があります。
 もう一個所旧約聖書の申命記27章9節を読んでいただきました。「モーセは、レビ人である祭司と共に全イスラエルに向かって告げた。イスラエルよ、静かにして聞きなさい。あなたは今日、あなたの神、主の民とされた。」
 「あなたは今日、あなたの神、主の民とされた」‥‥この言葉を聞くことができた人は幸いです。私たちも、イエスさまによって神の民とされる。神さまの言葉に耳を傾けることによって。決して当たり前ではない、かけがえのない尊い時間を与えられているということを心から感謝します。


(2013年6月16日)



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