礼拝説教 2013年6月9日

「わたしの隣人」
 聖書 ルカによる福音書10章25〜37 (旧約 創世記21章17)

25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」




 先月、横浜市都筑区にあるセンター北教会の牧師就任式に行った時のことです。横浜駅から市営地下鉄に乗り換えて行ったのですが、途中の駅で年配の男性が乗ってこられ、私の前に立たれました。見たところ80歳は超えていると思われました。それで私は席を譲ろうと思いまして、「どうぞ」と申し上げました。
 すると男性は「年齢もあまり変わらんでしょうから、いいですよ」とおっしゃったのです! 私は内心ショックを覚えました。80を過ぎていると思われる方から「年齢もあまり変わらないでしょう」と言われ、動揺してしまいました。そして年齢が全然違うということを分かってもらうためにも、ここは絶対に席を譲らなければならないと強い気持ちで「いえいえ、どうぞ、どうぞ」と無理に席を替わって差し上げたという次第です。
 さて、席を替わって差し上げるぐらいのことは、簡単なことですが、きょうのイエスさまのたとえ話のようなことは、なかなかできることではないと思います。

律法の専門家の問い

 本日の聖書個所は、昔は「良きサマリア人」と呼ばれていました。きっかけは、「ある律法の専門家」がイエスさまに尋ねたところにあります。律法の専門家というのは、分かりやすく言えば旧約聖書の先生です。この人はイエスさまに尋ねました。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか?」
 ここでこの律法の専門家は「イエスを試そうとして」言ったと書かれています。力ある預言者として民衆の人望を集めているイエスさま。この人は、自分こそ聖書の専門家、神の言葉の専門家であると思っていましたから、一つイエスさまを試してやろうというわけでしょう。その問い、つまり試験が「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」、何をしたら神さまから永遠の命をいただくことができるでしょうか、と尋ねました。ここで注意したいのは、この人は、「何をしたら」と聞いていることです。
 するとイエスさまは、「律法には何と書いてあるか?あなたはそれをどう読んでいるのか?」と逆に問い返されました。「律法には何と書いてあるか」と聞かれたら、律法の専門家は答えないわけにはいかなくなります。ましてや、「あなたはそれをどう読んでいるのか?」などと聞かれたら、「律法の専門家なのだから、聖書にはどう書かれているのか読み取ることができるでしょ?」と逆に問われているような気がして、答えないわけにはいかなくなりました。
 それで彼は、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」 と答えました。要するに彼は、旧約聖書にはいろいろ神の教えが書かれているけれども、この二つのことに行き着くのであり、それを守れば永遠の命が与えられるのではないかと、まとめて見せたわけです。
 するとイエスさまは、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」とお答えになりました。こうなると、一体どちらが先生であるのか分からなくなります。まるでイエスさまのほうが先生であり、律法の専門家が生徒のようです。すると律法の専門家は「自分を正当化しようとして」さらに質問をいたしました。「正当化しようとして」というのは、先生であるはずの自分が生徒のようになってしまったからでしょうか。それとも、自分は「隣人を愛している」という自負があったからでしょうか。「では、わたしの隣人とは誰ですか?」とイエスさまに尋ねました。
 するとイエスさまは、直接お答えにならずに、この「良きサマリア人」と呼ばれるたとえ話をお話になったのです。

たとえ話

 お話自体は、たいへん分かりやすい話です。脳裏に鮮やかに情景が浮かんでくるような気さえいたします。このお話の中で、あえて解説を加えるとすると、まず「レビ人」「祭司」とは何か、ということでしょう。これもよく聖書を読んでおられる方なら説明は要りません。祭司もレビ人も、エルサレムの神殿で神さまを礼拝するための働きをする人です。日本流に言えば神職ですね。また、この人たちは、人々に神さまの教えを述べる人です。ですから、聖書に精通していました。宗教者です。
 ところがこのたとえ話では、祭司とレビ人が、追いはぎに襲われて道ばたに倒れている人を見ると、道の反対側を通って去って行きました。関わりたくない、ということでしょう。なんとひどい、と思えます。宗教家であり神の教えを良く知っているはずの人たちが、見て見ぬ振りをして通り過ぎたのです。
 そして次に「サマリア人」。ここに登場するサマリア人は、非常に奇特な人で、ものすごく親切な人です。さらにここで覚えておかなくてはならないことは、サマリア人とユダヤ人は非常に仲が悪かったということです。となりどうしの民族なのに仲が悪かった。しかしこのサマリア人はどうでしょう。追いはぎに襲われて道ばたに倒れている人は、ユダヤ人でしょう。その倒れている人を、敵であるはずのこのサマリア人は、信じられないほどの愛の心をもって手当をいたします。
 まず追いはぎに襲われて倒れている人を見て「憐れに思い」ました。そして傷の手当てをいたします。そして自分のロバに乗せたとあります。ということは自分は歩いて行ったわけです。そして宿屋に連れて行き、さらに介抱します。それだけではなく、一泊した後の翌日、サマリア人は宿屋の主人にお金を渡して手当を頼みます。このサマリア人も暇ではなかったことがこれで分かります。そして足りなかったら帰りがけに寄るからその時支払うとまで言って、宿屋の主人にお願いいたします。‥‥このサマリア人と、追いはぎに襲われた人は、友だちでも何でもない。全くの赤の他人です。にもかかわらず、まるで自分の家族が追いはぎに襲われたかのような厚い介抱をいたします。身銭を切って、献身的に助けます。ただただ頭が下がります。
 私たちは助けるのか、助けないのか、どのようにこの追いはぎに襲われた人に接するのか、たちまち問われることとなります。助けなければこの倒れている人は死んでしまうでしょう。しかし関われば時間も取られるし、面倒なことになります。あたりにはまだ追いはぎや山賊が潜んでいるかも知れません。また、費用もかかります。「なぜ自分がこんな人に関わらなければならないのか」という思いもわき上がってくるでしょう。‥‥そのように、我が身に置き換えて考えてみると、このサマリア人は、実にすごい人だということがわかります。
 たとえ話をなさった後、イエスさまが律法の専門家に、「さて、あなたはこの三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか?」とお訊きになりました。律法の専門家は、「その人を助けた人です」と答えました。当然です。するとイエスさまは、「行って、あなたも同じようにしなさい」とおっしゃいました。

助けることができるのか

 このイエスさまのお答えを聞いて、私たちは胸をたたいて、「私にはそんなことはできません」と嘆くしかないのではないでしょうか。そうすると、私たちは誰も「隣人を自分のように愛する」ことができないということになり、つまりは誰も永遠の命をいただくことができないということになるのでしょう。ここでイエスさまのおっしゃることは、あまりにも厳しすぎるように聞こえます。
 中には、「いや、自分はこの良きサマリア人のように隣人を愛することができる」という人もいるかも知れません。なるほど、マザー・テレサのような人はたしかにいます。しかし、むしろ、追いはぎに襲われて半死半生の状態になっている人を助ける、というのはまだ分かりやすい話かも知れません。あるいは、貧しくて食べ物がない人を助けるということもそうです。それはもちろん尊いことに違いありません。
 しかし、この世の中には、追いはぎに襲われたわけでもなく、外見は収入もあって何不自由なく生きているように見えるけれども、実は心の中はズタズタになっており、生きていく希望も気力も失ってしまっている‥‥という人もいるのです。むしろ今の日本ではそういう方の方が多いのではないかと思います。なるほど、物理的に追いはぎに襲われて倒れてはいないけれども、心がボロボロの状態で立ち上がることができない、そういう方も多くおられます。ではそういう人に対して、私たちは何が出来るのだろうか?と思います。

真の善いサマリア人とは

 ここで私たちは、イエスさまのなさったこのたとえ話は、そもそも「困っている人を助けましょう。そうすれば隣人を愛したことになり、永遠の命をいただけますよ」というお話しなのか?ということを考えてみなければなりません。
 ここで私のことをお話しするのですが、私は子どもの頃から教会学校に通っていましたので、このたとえ話はもちろん知っておりました。そして、この話は、「誰でも隣人ですよ。だから困っている人を助けましょう」という話しだと思っておりました。さて、以前も証ししましたように、私は大学に行って神さまを信じなくなり、教会へ行かなくなりました。そして就職してサラリーマンとなりました。ところが、ぜん息が再発し、救急車で病院に運ばれることとなり、生死をさ迷いました。そして忘れていた神さまの名前を叫びました。そして命を助けられました。しかし会社を辞めることとなりました。そして郷里の静岡に戻りました。私は挫折しました。情けない話しですが、その時の私は何もかもが灰色に見えました。何をする自信も失いました。もう人生が終わったかのように思えました。
 ところが、そんな時に街角でバッタリと幼なじみに出会い、しかも彼がキリストを信じる者となっていた。そして彼が祈ってくれた。そうして私の心の中に、光が差し込んだように思いました。そして教会に再び通うようになりました。するとちょうど青年が集まってきて、青年会ができました。仕事も、教会の人が私に声をかけ、二人で事業を始めることとなりました。‥‥そういう神さまのふしぎな導きによって、私は次第に立ち直っていくことができました。
 そんなある日、私はこの「良きサマリア人」の聖書個所を読みました。すると、むかし教わったことと全然違うことが見えてきました。それは、「私は、このたとえ話の登場人物のうちの誰に当たるのだろうか?」ということでした。かつて教会に通っていた時は、「祭司やレビ人のようになってはいけません。良きサマリア人になりましょう」というように教えられていました。しかしその時私は、「自分は、この追いはぎに襲われて半殺しにされて、道ばたに倒れていた人だった」と、すぐに思いました。大学を卒業し、希望する会社に就職したのに、わずか半年で病気のために辞めなければならなかった。そして、傷心の日々を送っていた私は心がボロボロでした。もう自分では立ち上がる気力がありませんでした。
 両親は暖かく見守ってくれていました。しかし、もはや人間には誰も私を立ち上がらせることはできないように思われました。しかし、唯一、私を介抱し、癒し、立ち直らせた方がいました。それがイエスさまでした。その時私は分かりました。この善きサマリア人とは、イエスさまのことであると。
 私たちが、傷つき、倒れ、希望も何も失ってもはや立ち上がれないようなことになった時、だれも自分を助けることができないと思われた時、生きておられるイエスさまが、善きサマリア人として私たちに近づいてくださいます。

何をしたら、ではなく

 きょうの聖書の個所のはじめに、この律法の専門家は、「何をしたら」永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか、と尋ねました。永遠の命は、私たちが何かをしたらいただけるというものではありません。それはただ、イエスさまから憐れみによって与えていただくものです。
 傷つき、倒れた人々のところに近づきたもう善きサマリア人であるイエスさま。私たちは、癒され、立ち上がらせていただいた時、この真の善きサマリア人であるイエスさまのお手伝いをさせていただく者になるように、招かれます。


(2013年6月9日)



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