礼拝説教 2013年6月2日

「見たかったもの」
 聖書 ルカによる福音書10章21〜24 (旧約 ダニエル書7章13〜14)

21 そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
22 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」
23 それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。
24 言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」




弟子たちについて歓喜なさる主イエス

 本日の聖書個所は、まず前半で、イエスさまが天の父なる神さまに祈っておられます。そして後半はイエスさまが弟子たちに語っておられるという、二つの部分からなっています。
 まず最初に、イエスさまは天の父なる神さまに向かって祈っておられます。祈っておられると私は今申し上げましたが、神さまに向かっておっしゃっておられるので祈りと申し上げたわけで、その内容はいわゆる祈りと言うよりも、賛美であり、告白であり、また神さまの預言とも言える内容です。そして何を祈っておられるかと言えば、イエスさまが各地に派遣した72人の弟子たちが帰ってきて、報告をしたことについて神さまに言っておられます。しかもそれは、父なる神さまをほめたたえておられます。そしてそれは、「聖霊によって喜びにあふれて言われた」と書かれています。聖霊は神の霊です。ですからそれは神さまの喜びです。しかもこの「喜び」はただの喜びではありません。原文を見ると、「歓喜」です。ものすごい喜びです。
 イエスさまは、何をそんなに喜ばれたのでしょうか?
 まず、弟子たちが、イエスさまがお命じになった通りに出かけて行って、神の国の福音を宣べ伝えたということでしょう。たしかにこの直前の、前回取り上げた20節では、「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」とおっしゃって、弟子たちを叱っておられます。しかし、叱ったから弟子たちのことを喜んでおられないということは決してありません。例えば、子供を持つ親は、子供がお使いから帰ってきたときに、自動車に注意しなければならないことを厳しく教えると共に、よくちゃんとお遣いができたと言って喜ぶことでしょう。そのように、イエスさまは、72人のイエスさまを信じる人たちが、イエスさまのおっしゃったとおりに働いて戻ってきたとき、本当に喜ばれたのだと言えます。
 また、20節でイエスさまが「あなた方の名が天に記されていることを喜びなさい」とおっしゃっているように、天国にこの人たちの名前が記されている、つまり命の書のリストに名前が記されていることを、本当にお喜びなさったとも言えるでしょう。

幼子に現された神の奇跡と恵み

 そのようにイエスさまは、この弟子たちのことについて本当にお喜びなさいました。そして、天の父なる神に向かって歓喜の声をあげられました。21節です。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」
 「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」とおっしゃっておられます。これはとてもふしぎな言葉です。神さまの奇跡や力や恵みは、「知恵ある者や賢い者」には隠され、「幼子のような者」に現れるとおっしゃるのです。これだけ読むと、「知恵があっては悪いのか?」と疑問に思えます。しかし実はこの「知恵ある者」というのは、「学問ある者」という意味もあります。そして「幼子のような者」と日本語に訳されていますが、じつは「ような」という言葉は原文にはなく、「幼子に」お示しになったとなっています。すなわちここでイエスさまは、神さまの奇跡、力、そして恵みは、いわゆる学問のある者や、頭の良い者に現れたのではなく、この世の知恵も知識も力も何も無い幼子に現れたということです。
 しかしそうすると、また疑問に思えてくるのではないでしょうか。‥‥それは、私たちは、「神さまのことは子供にはまだ分からないだろう。ましてや、幼子にはまだまだ早すぎるのではないか」と思わないでしょうか。「信仰というものは、長い信仰生活を送っていって初めて分かるものであって、小さな子供には何も分からない」のであると。そして、例えば教会学校の子どもたちに聖書のお話しをするというときに、「今は分からないかも知れないけれども、大きくなったら分かります」などと言いたくなるようなことがないでしょうか。そしてまた、「本をたくさん読み、神学をたくさん学べば信仰が強くなる」というように思わないでしょうか?
 しかし、イエスさまによれば、知恵ある大人の方が神さまのことを分かっていないかも知れないのです。イエスさまはおっしゃいました。神さまの奇跡、力、恵みは、「学問ある者や賢い者には隠して、幼子に」現されたのであると。私たちが普通考えることと、全く逆のことをイエスさまはおっしゃっておられるのです。

幼子はすなお

 これは、神さまの力や恵みを見るには、学問や人間の知恵というものは関係ないということです。むしろ必要なのは、幼子が持っているような性質であるということです。
 ここで言われている幼子の特徴とはなんでしょうか? ここではイエスさまは、伝道の働きのために遣わされた72人の信徒たちについておっしゃったのですから、この72人の弟子たちに、幼子と共通することがあったということでしょう。そうすると、確かにイエスさまの弟子たちは、おっちょこちょいであり、人間的に言えばつたないところがたくさんある人たちでありますが、一方言えることは、とても素直であるということではないかと思います。イエスさまが神の国を宣べ伝えるために、この人たちを派遣しました。そして言われたとおり素直に従いました。そもそもイエスさまの弟子となる時に、素直にイエスさまに従った人たちです。
 これはまさに幼子が素直であることと同じです。幼子は素直です。なるほど、時にはわがままを言って泣くこともあります。しかし結局は、親に従って行きます。子供は叱っても恨んだりしません。そして、とにかく親にくっついていきます。親にすがりつけば生きていけることを知っています。そのように、子供は素直で従順です。教えられたとおりにしようとします。
 私は子供に聖書の話しをするのが好きです。別に、大人に聖書の話しをするのが嫌いだというわけではありませんが。今まで何度も幼稚園に関わってきました。教会関係の幼稚園の園長やチャプレンを務めてきました。そうすると、どの幼稚園も毎週1回、私がお話しをする礼拝があります。そうすると、子供の真剣なまなざしが私の方にいっせいに注がれます。そのあまりの純粋で真剣なまなざしに、圧倒されそうになることがありました。緊張いたします。これは、「聖書に書かれているとおりの本当のことを語らなければならない」という思いにさせられます。なぜなら、幼子は、教えられたとおりに信じるからです。
 これも、大人だからどうでもよいという意味では決してありません。私たちが軽く見がちな幼子を、神さまが以下に大事に見ておられるかが伝わってくるのです。

幼子の信仰

 私が、幼子の信仰ということについて、ハッとさせられたことがありました。私が輪島教会にいたときに、能登圏の大伝道集会で、当時の青山学院院長の深町正信先生を講師として招いて行いました。輪島教会では聖日礼拝で伝道礼拝をしていただきました。そして、その日のうちに深町先生は東京へ帰ることになっていました。輪島教会での伝道礼拝が終わり、先生を囲んで愛餐会を行い、深町先生を私が運転する車で富山空港まで送りに行きました。私の家族も一緒に乗せていきました。その日はあいにくの悪天候でした。富山市が近づいても雨は降り続け、雲は低くたれ込んで、霧もかかっていました。私はちょっと心配になりました。富山空港は天候が悪いと飛行機が飛ばないことがある、と聞いていたからです。
 空港に着くともう夕方になっていましたが、案の定、当日のその時までの飛行機はすべて欠航したとの表示が出ていました。またこれからの便も早々と欠航の表示が出ているものがありました。ただ、深町先生が乗る予定の東京便は、まだ飛行機が富山空港に来ていませんでした。東京を発った飛行機が、折り返し東京便になるのでした。しかし、その飛行機も悪天候のため遅れていて、まだ東京を発っていませんでした。
 私たちは仕方がないので、空港の食堂で先生と共に夕食をいただきながら飛行機の到着を待つことにしました。やがてアナウンスが空港内に流れました。飛行機が東京を発って富山空港に向かっていると。しかし着陸できるかどうかはまだ分からないとのことでした。飛行機というのは着陸のほうが難しいのだそうです。もし着陸できれば、離陸の方が簡単だからその飛行機は東京へ行くことができるとのことでした。しかし着陸できなければ、その飛行機は引き返してしまうというのです。もしそうなると深町先生は、その日は東京へ帰ることができません。先生は、「その時はホテルにでも泊まるから良いよ」と言って下さいましたが、先生には明日の予定もあるようでした。
 我々は、「最後の手段」として、祈ることにしました。私が祈りました。「神さま、どうか東京を発った飛行機が無事にこの富山に着陸して、深町先生が帰ることができるようにして下さい」。しかし、なんだかこの祈りが聞かれるという確信がありません。困りました。そこで私は、イエスさまが幼子を愛しておられることを思い出しました。「そうだ、子どもたちに祈ってもらおう。」当時私の子どもたちはまだ幼な子でした。そこで子どもたちに、「深町先生が帰ることができるように祈りなさい」と頼みました。幼な子は素直です。すぐに祈ってくれました。
 そうしてまたしばらく、食堂で待っていると、「東京便が無地着陸した」とのアナウンスが流れました。私は目を丸くしました。外を見ると依然雨が降り続き、しかも雲もさっきと同じように低く垂れて、何も変わったようには見えません。しかし飛行機は確かに着陸したのです。結局この日飛んだのは、後にも先にもこの1便だけでした。これに乗って深町先生は東京へ帰って行くことができたのです。私は幼な子の祈りの威力をまざまざと見せつけられたように思いました。そして神さまが、幼な子の素直で真摯な祈りを喜んで耳を傾けて下さることを知りました。

イエスの働きを見る

 私たちの多くは、もうおとなになっているので、幼子に戻ることはできません。しかし、幼子のような信仰になることはできます。もちろん、聖霊の助けをお借りしてです。自分の力ではできません。幼子がひたすら親を頼りにするように、イエスさま、聖霊なる神さまを頼るのです。
 きょうの聖書個所の後半で、イエスさまは「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」とおっしゃいました。「あなたがたの見ているもの」とはイエスさまご自身のことです。
 もう一個所旧約聖書のダニエル書を読んでいただきました。この中に出てくる「人の子」というのもイエスさまの預言です。イエスさまがご自分のことを指して「人の子」とおっしゃいますが、こういう預言から来ています。旧約の預言者たちは、みなイエス・キリストをはるかに予言して、この世を去って行きました。その昔の預言者たちが預言し、見ることを切望したキリストが、ついに来られたということです。それを弟子たちは、自分たちの目で見て、お目にかかっている。キリストの幼子である弟子たちが。 私たちも、キリストの幼子となることによって、イエスさまの働きを見ることができるでしょう。


(2013年6月2日)



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