礼拝説教 2013年5月26日

「天に記されている名」
 聖書 ルカによる福音書10章17〜20 (旧約 創世記3:14〜15)

17 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」
18 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。
19 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。
20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」




三位一体主日

 本日は教会暦で「三位一体主日」と呼ばれます。先週はペンテコステ、すなわち聖霊降臨日でした。そのことによって、父・子・聖霊なる三位一体の神の救いが現れたことを記念する日です。私たちの神さま、聖書の神さまは、単なる一神教の神さまではありません。父なる神さま、子なる神イエスさま、そして聖霊なる神さまとして存在する三位一体の神さまであるということです。ここに私たちの本当の救いがあると信じています。

弟子たちの報告

 きょうの聖書個所は、先にイエスさまが各地に派遣された72人の弟子たちが帰ってきて報告するという個所です。
 イエスさまの回りには多くの弟子たちがいました。そして最初ガリラヤにおられた時にイエスさまは、12使徒を町や村に派遣して、福音を宣べ伝えさせました。この12人が今日の教会の牧師や宣教師といった伝道者であるとしたら、72人は信徒に相当すると言ってもよいでしょう。聖書では、信徒のことを「弟子」と言っています。イエスさまは、そのように信徒を伝道に派遣されました。
 その72人が喜んで帰ってきました。何を喜んだかというと、「主よ、お名前を使うと悪霊さえも私たちに屈服します」と言って喜んだのです。「お名前」というのはもちろんイエスさまの名前です。当時は、いわゆる「悪霊に取りつかれた人」だけではなく、様々な病気が悪霊によって引き起こされると考えられていました。ですから、72人の弟子たちが、イエスさまの名前によって命じると悪霊が出ていき多くの人の病が癒されたと、喜んで報告いたしました。
 たしかに、当時は病気に対してほとんどなすすべもない有様でしたから、それらによって苦しんでいる人が、癒されるということはすばらしいことに違いありません。弟子たちが、「イエスの名によって命ずる。悪霊よ、この人から出ていけ!」と言って悪霊を追い出したのでしょうか。あるいは、イエスさまの名前で祈って病気を癒したのでしょうか。いずれにしても、次々と悪霊が出ていき、病気の人が癒されていくということは、すばらしいことであり、痛快なことです。
 私も、今まで様々な病気の人に接してきましたが、そのように人々が次々と癒されたらどんなにすばらしいだろうかなあ、と思います。弟子たちは、自分たちに悪霊が服従するという体験をしたのですから、どんなに意気揚々として帰ってきたことでしょうか。

サタンが天から落ちる

 するとイエスさまは、「私は、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」とおっしゃいました。これはまことにふしぎな言葉です。サタンというのは悪魔のことです。そのサタンが天から落ちるというのはどういうことでしょうか? ここで言う「天」とは、もちろん天の国、神の国のことでしょう。つまり、父なる神のおられる所です。そうすると、サタンが天から落ちたということは、サタン=悪魔が天国にいたということになります。これはいかにも不思議なことに聞こえます。天国には神さまがおられ、また神さまがおられるから天国なのであって、どうしてそこにサタンがいるのだろうかと思いませんか?
 マンガだと、神さまと悪魔が対立し、力も拮抗しているように書かれたりしますが、聖書では、両者の力は比較になりません。神さまの力が圧倒的です。サタンは、神さまの圧倒的な存在の前に、細々と生きているに過ぎません。ではなぜ、天にサタンがいたのでしょうか。
 実は、聖書に、サタンが天にいる時のことが書かれている個所があります。それは旧約聖書のヨブ記です。ヨブ記の1章6節を見ると、このように書かれています。‥‥「ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た」。天の神さまの所に、御使いたちと共にサタンも来たと書かれています。そしてここから、ヨブ記のまことにドラマチックな話が展開していくことになります。神さまはサタンに向かって、「お前はわたしのしもべヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」とおっしゃいました(ヨブ記1:7)。
 するとサタンは、ヨブが神さまを信じているのは、御利益があるからですよ、神さま、あなたが彼を守って祝福しているからあなたを信じているだけですよ、と答えます。そして、彼の財産と子どもたちを奪ってご覧なさい、きっとヨブは神さま、あなたを呪うにちがいありませんと、訴えるのです。そして神様はサタンに、よし、彼をお前の良いようにしてみるが良い、とおっしゃって、サタンがヨブを打つために出ていく‥‥ということでヨブに非常にひどい災難が降りかかるという具合に展開していきます。
 そのように、サタンというのは、人間が神さまを信じるなどということはあり得ないと主張します。そして、人間が神さまを信じることがないように、苦しめたり、逆に甘い誘惑を与えたりして、つまりアメとムチを使って人間を神さまから引き離そうとします。「神など信じてもムダだよ」と言って脅したりささやいたりする。そのように働くのがサタンです。そしてヨブ記では、サタンは人間を告発するために天の神さまの前にやって来ました。そのように、天はサタンの住み家ではありませんが、神さまに人間を告発し、訴えるために天にやって来ました。
 そのサタンが、「稲妻のように天から落ちるのを見た」とイエスさまはおっしゃいました。「稲妻のように」ですから、どういう状態ですか。神さまの所を去った、などという生やさしいものではありません。まさに真っ逆さまに突き落とされたということになるでしょう。それは神さまから追い出されたということです。神さまの前に出てきて、人間を告発し、訴えて来たサタンが、天国の神さまの前から追放されたということです。
 それは一体いつのことでしょうか? 72人の弟子たちが伝道している最中のことでしょうか?‥‥そうではないでしょう。これは、これからイエスさまが十字架におかかりになった時のことだと言えます。その時のことを先取りしてご覧になったのです。サタンが私たち人間を訴え、告発する。私たちの罪を暴いて、神さまに裁きを求める。それに対してイエスさまが、十字架でご自分の命を捨てて、私たちの罪を担って下さった。それでサタンの告発は、無力なものとなったのです。

天に記されている名

 イエスさまは、「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」とおっしゃいました。
 悪霊というのは、サタンの配下です。イエスさまの名前を使うと、悪霊が服従する。それは先ほど述べたように、まことに痛快なことです。72人の弟子たちの中には、悪霊を屈服させ、病気を癒す特別な能力が備わったかのように錯覚する人もいたかも知れません。それを見越したかのように、イエスさまはおっしゃいました。「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。
 天に名前が記されているとは何のことでしょうか?‥‥これは、いわゆる「命の書」のことだと言うことができます。永遠の命のリストです。そこに名前が記されている。そのことを喜びなさい、とおっしゃっています。あなたがたの喜ぶべきことは、悪霊が自分たちに服従することではない。あなたがたの名前が、永遠の天国のリストに名前が記されていることだ、と。

チイロバ先生と病床の老女

 チイロバ先生こと、故榎本保郎牧師の書かれた本の中に『ふつか分のパン』というものがあります。それは先生が京都で開拓伝道をしていた頃の証しを記した本です。
 その中に、ある人に頼まれて、一人の危篤の病人を見舞った時のことが出てきます。その人は、若い時にイエスさまを信じて洗礼を受けたのですが、その後教会を離れて信仰を失い、長い間放縦な生活をしてきた人だったそうです。そしてその時はもう年老いて、彼女を見舞う人もなく、後悔と寂しさの中で、死の恐怖におののいていたそうです。なんとか魂の平安を得させてやりたいと、病院の方でもいろいろと話しをしてやったり、宗教家を呼んで話をしてもらったりしたけれども、この老女の心は慰められなかったそうです。それで病院が困っていた時、この老女が自分は若い時に洗礼を受けているともらしたので、榎本先生が呼ばれることとなったそうです。それで先生が見舞いますと、彼女は苦しい息づかいの中から細い声で、「先生、本当に天国ってあるんですね?」と尋ねたそうです。
 死の恐怖におののきつつ、何か確かなものを必死に探し求めているその瞳に見つめられて、先生はたじろいだそうです。‥‥「天国はあるんですよ。イエスさまを信じておれば天国に入れてもらえるんですよ」そう語ることはやさしい。しかし、この時の私はのどがつかえてどうしても言葉が出なかった。言えば自分が不真実なようにさえ思われたのである。「聖衣」という映画であったと思うが、初代のキリスト教迫害の映画を見たとき、ライオンのおりに入れられようとしている信徒たちが、突然自分たちの前にヘテロがあらわれたので、「ピーター」と叫ぶと、ヘテロが静かに両手を天に向かってあげ、かれらのために祝福の祈りをしていたのを私はこの時思い出した。
 「祈りましょう」私はそういって目をつむって祈りはじめた。「神さま、私は今、あなたにつかわされて死のまぎわに立つこの人のところにきました。そして『天国はあるか』ときかれたのに、それにお答えすることができません。この不信仰をゆるしてください。そして、どうぞこの人に天国のあることを信じることができるようにみたまを注いでください。心やすらかにあなたのみもとに行くことができるようにしてあげてください。今もあなたはこの人の罪をゆるし、愛していてくださることをこの人が信じることができるようにしてください。救い主イエスさまのみ名によって祈ります」‥‥そう祈って「アーメン」と言った時、この人もかすかな声で「アーメン」と言ったそうです。そして目を開けてみると、この方は先ほどとは打って変わって、平安な表情ですやすやと眠っておられたそうです。そしてこの人は、翌日、天に召されたそうです。

天に名が記されている喜び

 私たちは、きょうの聖書を読んで、本当に喜んでいるでしょうか。ほんとうに、ほんとうに喜んでいるでしょうか。あらためて考えてみたいのです。天に私たちの名前が記されているとしたら、それは本当にすばらしいことではないでしょうか。私たちの名前が、すでに天国のリストに記されている。この地上の命を終えても、行くところがある。神の国、天国に行くことができる。‥‥これは本当にすばらしいことであるはずです。
 この世でどんなに成功したとしても、天に名が記されていなければ、それはついには絶望しかありません。逆に、この世の中でどんなに報われることがなかったとしても、天に名が記されているとしたら、それは永遠の喜びであり、平安です。これ以上のものはありません。この世で私たちが過ごすのは、わずか数十年に過ぎません。しかし時間というのは永遠に続くのです。その永遠が天国です。
 しかしそれにしても、なぜ天に名が記されているのでしょうか。イエスさまは72人の弟子たちに、「あなた方の名が天に記されている」とおっしゃいました。その根拠はどこにあるのでしょうか?
 その根拠は、この言葉をおっしゃったイエスさまが、十字架にかかって、本当は私たちが受けるべき神の罰を代わりに受けてくださったからです。サタンは、私たちを名指しして、「この人は、さんざんあなたに逆らいましたよ。罪を犯してきました」と神さまに告発し、訴えるでしょう。しかしそれに対してイエスさまが、「その罪は、私が十字架で負った。だから赦されたのだ」とおっしゃるでしょう。
 たしかに、サタンが人間について述べたことは当たっているかも知れません。しかしそんな罪人の私たちの名を天に刻むために、主イエスは十字架へ行かれます。こうして、その主イエスの救いを信じた時、私たちは天に名が記されているのを知ることができます。


(2013年5月26日)



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