礼拝説教 2013年5月12日

「神を拒む」
 聖書 ルカによる福音書10章13〜16 (旧約 エレミヤ書43:1〜4)

13 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。
14 しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。
15 また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。
16 あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」




母の日

 先ほど讃美歌510番を歌いました。先週の週報では、讃美歌21-442と予告しましたが、変更して失礼しました。実は、きょうが母の日であることを忘れておりまして、それにふさわしい讃美歌を選び忘れていたのです。たいへん親不孝者であると思います。それで急きょ讃美歌1-510番を歌うことにしました。
 母の日は、今から約100年前にアメリカの教会から始まりました。旧約聖書の十戒の中の「あなたの父と母を敬いなさい」(出エジプト記20:12)の教えにもとずいて母への感謝をあらわすために、ある女性が、亡くなったお母さんのことを覚えて、記念会の出席者にカーネーションを贈ったのが始まりです。そして母の日の行事は、それから間もなく大正時代の日本に伝わり、その習慣はあっという間に広がっていきました。母を思う気持ちが、万国共通のものであることを表していると言えるでしょう。
 しかし世の中には、母に対して良い思いを持っている人ばかりではありません。逆に、母に愛されなかったという思いを持つ方もおられます。そういう方にとっては、母の日というのは複雑な思いのする日であるかもしれません。しかし母の日のもととなった、十戒の「あなたの父母を敬え」という神さまの教えは、理由なく敬うことを命じています。その神さまの教えにしたがっていったときに、与えられる恵みというものがあると思います。
 また、先ほど歌った旧讃美歌の510番は、母の日の讃美歌ではありません。しかし、わが子の救いを祈る母の気持ち、その愛というものがよく表れていると思います。私たちもまた、家族の救いのために涙を流すほどに祈る者でありたいと思います。

裁きの預言

 さて、本日のルカによる福音書ですが、これは前回のイエスさまが72人の弟子たちを神の国の福音を宣べ伝えさせるために派遣される時のことの続きです。前回の最後の所、10節〜12節の所は前回触れませんでした。そこでは、神の国の福音を宣べ伝える弟子たちを受け入れない町に対して、罰が与えられるということが言われています。しかもその罰は、「その町よりまだソドムの方が軽い罰ですむ」といわれるほどの罰があるのだと言われています。
 ソドムという町は有名なのでご存じの方が多いと思いますが、旧約聖書の創世記19章に出てきます。神さまに背いて、不品行と不法の満ちた町でした。そして神はソドムの町に硫黄の火を天から下して滅ぼしてしまわれたということが書かれています。それよりもひどい罰を受けるというのですから、それは本当にひどい罰だということになります。これはもう全く救いようがないということです。
 そして本日の個所でイエスさまは、コラジン、そしてベトサイダ、カファルナウムという町の名前を挙げて、それらの町に対する神の裁きを語られます。それらの町よりも、まだティルスやシドンの町の方が軽い罰で済むと、おっしゃっています。コラジンやベトサイダ、カファルナウムという町は、いずれもガリラヤ地方の町で、イエスさまが奇跡を行い福音を宣べ伝えになったユダヤ人の町です。そして、ティルスやシドンという町は、今のレバノンの国の町で、異邦人の町です。つまり、神の民であるイスラエル人、ユダヤ人の町であり、イエスさまが伝道なさった町であるのに、それよりも異邦人の町であるティルスやシドンの方がまだ軽い罰で済む、と。一体これはどういうわけでしょうか?
 13節でイエスさまは、「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」と言っておられます。「不幸だ」というと呪いの言葉のように聞こえます。しかし実はこれは呪いの言葉ではありません。日本語にすると「ああ」という嘆きの言葉のギリシャ語です。「ああ、何と悲しいことよ」という意味だそうです。つまりイエスさまはそれらの町を呪っておられるのではなく、嘆き悲しんでおられるのです。心を痛めておられるのです。
 それはなぜかというと、そこのイエスさまの言葉の中にも出てきますが、「悔い改め」なかったからだということです。イエスさまが奇跡を行い、病人を癒され、神の国の福音を宣べ伝えられたのにもかかわらず、悔い改めなかったからだと。ここで使われている「悔い改める」というギリシャ語は、「心を変える」とか「考えを変える」「人生における考えの根本を変える」という意味の言葉です。また「粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたに違いない」と言っておられますが、「粗布をまとい、灰の中に座る」という行為は、自分が間違っていたと気がつき、嘆くことを表しています。すなわち、自分の罪に気がついて、自分が間違っていたと気がついて、自分の考えを根本から変えるということです。
 しかしコラジンを初めとしたガリラヤの町は、イエスさまの奇跡を見たけれども、心を変えようとしなかった。自分が間違っていたと認めなかった。‥‥それゆえに、イエスさまは「ああ」とおっしゃって、悲しみ嘆いておられるのです。

律法と福音

 それにしても、イエスさまの嘆きの言葉の中で、「裁き」とか「罰」とか「陰府にまで落とされる」という恐ろしい言葉が並んでいます。イエスさまの伝道を受け入れなければ裁きを受けて滅びるという警告、脅迫の言葉をおっしゃっているのでしょうか? そもそもコラジンやベトサイダやカファルナウムの町はユダヤ人の町です。旧約聖書の民であり、神を信じていたのではなかったでしょうか? 十戒を始めとしたモーセの律法を守ってきたのではなかったでしょうか? 厳しい律法、戒律を守ってきたのではなかったでしょうか?
 しかしイエスさまがこのように嘆かれるということは、旧約聖書の律法、戒律はムダであったということになります。そして律法は、守らなければ罰が与えられるというものです。罰の恐怖のゆえに律法を守るのでした。しかしそれが、全く役に立たなかったということです。
 数年前の「ハーベストタイム」の機関紙(私も購読しています)に、中川健一先生が次のようなことを書いておられました。それはアメリカの雑誌に掲載されていた「子供とウソの関係」という調査結果についてでした。
 イソップ物語の中にある「狼少年」という話があります。ご存じかと思います。‥‥羊飼いの少年が、退屈しのぎに「狼が来た」と叫び、助けに出てきた村人たちを笑う。同じ嘘を繰り返しているうちに、村人たちはこの少年を信じなくなり、ある日、本当に狼の群れが現れた時に、少年は必死に助けを求めて叫ぶのですが、村人は「またウソだろう」と思ってだれも助けに来てくれず、少年は狼に食われて死んでしまうというお話しです。この話しを子供に聞かせると、子供は一体どうなるかという調査が行われました。このウソとつくと恐ろしい結果になるという話しをきかせると、子供はウソをつかなくなったでしょうか?‥‥結果はそうではありませんでした。その話しを聞いても、子供がウソをつく割合は変わらなかったそうです。
 そこで今度は、「ジョージ・ワシントンと桜の木」の話を子どもに聞かせました。少年ジョージが、自分が桜の木を切ったことを正直に父親に告白する話です。父親は、「君が正直に言ってくれたことは、千本の桜の木を持つことよりも素晴らしい」と応じます。この話は、子どもたちが嘘をつく割合を43パーセントも下げたそうです。
 以上のことから、研究者たちが出した結論はこうです。‥‥(1)恐怖を与える話を聞くと、子どもたちはより巧妙に嘘をつくことを覚える。(2) 正直であることの尊さを教えると、子どもたちが嘘をつく回数は減る。そして中川先生は、このように書いておられました。‥‥“この調査結果を読みながら、私はイスラエルの民のことを思い出しました。「律法」や「裁き」によっては、彼らを悔い改めに導いたり、あるべき姿に変えたりすることができませんでした。結果的には、彼らを「より巧妙に嘘をつく人間」にしただけでした。その極みが、パリサイ人の偽善でした。イエスは、「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている」(マタイ15・8)と嘆いておられます。”
 律法による罰の恐怖では、人は変わらない。それでイエスさまは、律法ではなく福音を宣べ伝えられました。まず人々に病の癒しや悪霊の追放といった愛のわざを行われ、罪の赦しと神の国の福音を宣べ伝えられました。しかし、多くの人がイエスさまを信じるに至らなかった。考えの根本が変わらなかったのです。それできょうのところでイエスさまは嘆いておられる。律法によっても人々は心から悔い改めない。イエスさまが福音を宣べ伝えても、人々は悔い改めない。そうしたらもうあと残っているのは、裁きであり罰による滅びであり、陰府に行くことしかないではないか、ということです。

十字架へ

 では、イエスさまはもうこれらの町の人々をお見捨てになるのでしょうか? 「もう知らん!」といってそっぽを向かれるのでしょうか? 弟子たちの語る福音を拒むということは、イエスさまを拒むということであり、それは神を拒むということだと言われる。その拒む人たちが滅びるのは、もう知らん、ということでしょうか?‥‥つまりは、これでおしまいということでしょうか?
 このことを考えてみるとき、この時イエスさまがどこへ向かっておられるのか、ということを考えてみなければなりません。イエスさまはこの時、エルサレムへと向かっておられます。そしてエルサレムでは、十字架が待っています。イエスさまはエルサレムで十字架に張り付けにされることとなる。そしてその十字架とは、一体何だったでしょうか。それは、私たちの罪の罰を、イエスさまが代わりに受けてくださったというものです。つまり、イエスさまを拒み、悔い改めようとしない人々をお見捨てになるのではなく、十字架へ行かれる。
 今NHKの大河ドラマでは「八重の桜」が放映されていますが、その夫である新島襄は、同志社を設立した人として有名です。その新島襄の逸話として残っている有名な事件があります。
 1875年(明治8年)に同志社英学校が設立され、新島が校長となりました。それから4年後に、入学する生徒が少なかった前の年の入学生と、1月に再募集した入学生のクラスを校長が不在の時に、幹部たちが合併してしまいました。これに反発した生徒たちがストライキを起こしたのです。知らせを受けた新島襄は、学校に帰ってから不満を持つ者たちを説得して収まりました。しかしストライキを起こした生徒たちを、校則に基づいて処分すべきであるという非難が、生徒からわき起こったそうです。しかし、いっぽうでは校長不在の時に勝手にクラスを合併した幹部教員たちの行為も不問にはできない。
 それで新島は、明治13年4月13日の朝の礼拝で生徒たちの前に立ち「これはもともと学校の誠意が諸君に通じなかったから起こったので、教員の罪でも諸君の罪でもない。校長たる不肖の罪である。しかし同志社の校則は厳然としたものである。校長はただいまその罪人を罰する」と言って、持っていたステッキで自分の左手を何度も打ったのです。あまりの強さにステッキは折れてしまったのですが、なおも新島は自分の左手を打ち続けたそうです。生徒たちはうなだれ、嗚咽する声も聞こえ、ついには一人の生徒が壇上に駆け上がり、新島の手を押さえて、涙ながらに「校長、もうやめてください」と言ったそうです。そういった生徒は、ストライキを起こした生徒の処分を最も強硬に主張した生徒だったそうです。‥‥これが有名な「自責の杖事件」です。
 聖書に戻ります。神に背いて悔い改めない人々は、神の律法によって裁きを受けなければなりません。罰を受けて滅びなければなりません。神の御子イエスさまが福音を宣べ伝えても悔い改めないとは、もう滅びて当然と言えるでしょう。それは私たちも同じです。罪人でなくなることができない。ところがそのイエスさまがこれから向かわれる先はどこか?‥‥それが十字架です。そして十字架にかけられたのは、コラジンやベトサイダの人々や、私たちではありませんでした。神の子イエスさま御自身が十字架にかかられたのです。何も罪を犯していない、イエスさまが、私たちの代わりに十字架にかかられ、神の罰を受けてくださり、陰府にまで行ってくださったのです。
 このイエスさまの愛。この尊い愛を知って、悔い改める者でありたいと願っております。


(2013年5月12日)



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