礼拝説教 2013年5月5日

「収穫の主」
 聖書 ルカによる福音書10章1〜12 (旧約 ヨナ書3:1〜5)

1 その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。
2 そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。
3 行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。
4 財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。
5 どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。
6 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。
7 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。
8 どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、
9 その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。
10 しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。
11 『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。
12 言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」




神が送りたもうもの

 最初に、皆さんと恵みを分かち合いたいと思います。『荒野の泉』という聖書日課の本があります。それの5月1日の所にこのように書かれていました。−−信仰は「これは私にとって善いことだ。それだから神がこれを送りたもうたにちがいない」とは言わない。ただ彼は「神がこれを送りたもうたのであるから必ず善いものにちがいない」という。−−−
 すばらしいですね。私たちは普通、良いことは神さまのくださったものだと思えるのですが、逆に悪いことが起きると「神さまは何をしておられるのか?」「神さまはなぜこんな悪いことを放っておかれるのか?」と思うものです。しかしそこに書かれていたように、「神がこれを送りたもうたのであるから、必ず良いものに違いない」と信じることができれば、なんと幸いなことでしょうか。今は良くないこと、悪いことに思えても、きっと神さまの御計画の中で、良いものに変えられるのだと信じることができるからです。私は、これを読んでずいぶん励まされました。その通り信じたいと思いました。

福音を隅々まで

 さて、本日のルカによる福音書ですが、イエスさまが72人の弟子たちを派遣なさるという場面です。9章の始めに、イエスさまが12使徒を派遣したということがありましたので、イエスさまはそれとは別にここでまた他の72人の弟子たちを派遣されたということになります。私たちは、「イエスさまにはずいぶん弟子がいたのだなあ」と思うのではないでしょうか。そうです。イエスさまには12使徒だけではなく、他にも多くの弟子たちがいました。
 イエスさまは、おもにユダヤで伝道なさいました。それは、ユダヤ人、つまりイスラエル人が旧約聖書の神の民であり、メシア=救い主を待っている人たちだったからです。だからその待っている人たちの所に、イエスさまが来られたことによって神の国が近づいたことを宣べ伝えられました。そのユダヤの北部がガリラヤです。そしてイエスさまが福音を宣べ伝えられたのは、そのガリラヤです。そして9章でイエスさまが12使徒をご自分の代わりに派遣されたのもガリラヤです。そして今日の個所は、そのイエスさまが南の方のエルサレムに向かって旅をしているときのことです。ですから、ユダヤの南部の地域に、この72人を派遣したということになります。
 しかしユダヤの国というのは、そんなに広い地域ではありません。日本よりずいぶん狭い国です。この当時で言えば、日本の四国ほどの面積もありません。しかも今申し上げたように、すでに北部のガリラヤでの伝道は終えています。あとはさらに狭い地域が残っているだけです。それなのに、なぜそんなに多くの弟子たちを派遣しなければならないのか、もうイエスさまのうわさも広まっていることだろうから、そんなに無理に弟子たちを派遣して福音を宣べ伝えさせなくても良いではないか、と思いたくなります。まるで、一つの町や村も、「神の国はあなたがたに近づいた」という福音を聞かないことがないようにといわんばかりです。しらみつぶしのように、すべての町や村に派遣して宣べ伝えさせる。
 しかももっと驚くのは、1節にイエスさまが「ご自分が行くつもりのすべての町や村に」先に遣わしたと書かれていることです。すなわち、先に72人の弟子たちを2人ずつペアで派遣して、その次にその弟子たちが派遣されたところにイエスさまが実際に出向かれるということです。これはすごいことだと思います。イエスさま、まさに隅々まで、一つの町や村まで残らずに回られる。1人も福音を聞くことから漏れないように、というような気持ちが伝わってまいります。

キリストの再臨に備えて

 しかしこれはそのまま現代の私たちキリスト教会にも当てはまります。弟子たちは、後からイエスさまが来られるための準備をするために、「神の国はあなたがたに近づいた」という福音を宣べ伝えましたが、これは教会も全く同じだということを覚えておかなくてはなりません。教会の伝道も、後でイエスさまが来られるときの準備として、神の国の福音を宣べ伝えているからです。
 すなわちそれは、キリストの再臨の準備です。十字架にかかられて死なれたイエス・キリストが復活なさった。そして天に帰られた。そのキリストが再びこの世においでになる。それは世の終わりの時です。そのことを聖書は述べています。世の終わりというと信じられないと思う方もいるかも知れませんが、これを自分に置き換えて考えてみるともっと分かりやすいかも知れません。私たちは皆、この世の人生の終わりが来ます。例外はありません。この世の終わりがあるということが信じられない方でも、自分の人生に終わりがあることを認めることのできない人はいません。
 再びイエスさまが来られる。そのための準備をするのが教会の務めです。それが福音を宣べ伝えるということです。「神の国はあなたがたに近づいた」ということです。イエスさまと共に神の国が、あなたの所に近づいた、だからそのイエスさまを信じて神の世界に入りましょう、ということです。福音です。喜ばしい知らせです。
 そして教会は、「もうだいぶ人もいっぱいになったから、もう伝道しなくても良いだろう」ということにはなりません。それでは教会は、この世のサークルといっしょになってしまいます。教会は私たち人間の都合で伝道するのではありません。主がすべての人が救われるように福音を宣べ伝えることをお命じになったから伝道するのです。

種を蒔く働き手

 さて、イエスさまは弟子たちを遣わすときに「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい」(2節)とおっしゃいました。この言葉を聞くと、一面黄金色に色づいた麦畑を思い出します。多くの穂が実っている。収穫は一気にしなければなりません。収穫期というのは、猫の手の借りたいほどの忙しさです。‥‥そんな光景を連想します。そのように、もう多くの人々がイエスさまを信じようとしている。だから働き手が少ないのだ、と。
 私は、最初これを読んだときに、「これは日本の事実と違うではないか」と思いました。私が思うには、「収穫は少ない。だから働き手も少ない」のだと。日本では、多くの伝道者が苦労してもあまり実を結ぶことがない。いつまでたっても、クリスチャンは人口の1%のままだと言われる。収穫は少ないではないか、と。
 しかしそれは私の読み方の間違いでした。神さまの予定している収穫は多いのだけれども、働き手が少ないから収穫も少ないのだと。つまり、収穫をするためには、その前に種を蒔かなければなりません。種を蒔くことなしに、麦は芽を出さないし、成長して実ることもありません。つまりその種を蒔く人が少ない、それが「働き手が少ない」ということです。そして伝道とは、種を蒔くことです。収穫することはその結果でしかありません。

インドネシアのリバイバルの種蒔き

 キリスト教の月刊誌に「ハーザー」という雑誌があります。これはおもに聖霊派と呼ばれるグループで読まれているものですが、私も愛読者の一人です。その中に、3月号から、インドネシアの「首狩族の集団改宗」という記事が連載されています。これを書いておられるのは、奥山実という先生で、福音派では有名な先生です。奥山先生は、若い頃インドネシアで宣教師として働かれたことがあって、そのときの体験を書いておられるのです。
 そのインドネシアのボルネオ島(カリマンタン)で、ジャングルに住む首狩族として有名な民族が、集団でキリスト教に改宗したときに、奥山先生はちょうど用いられたそうです。首狩族は、100年以上、キリスト教を拒否し続けて来たそうですが、そのとき、突如として、雪崩を打つようにこぞってキリスト教に改宗したのだそうです。
 しかし奥山先生は、その集団改宗の前に、彼らに100年以上にわたって伝道したアメリカの改革派教会の働きを忘れてはならないと言います。とくに、100年以上前の最初の頃派遣された宣教師のすべての家庭から、熱帯マラリアなどの風土病による犠牲者が出たと言われます。そのように多くの犠牲者が出て頑張って伝道しても、だれもキリストを信じるようにならない。それは首狩族は、完全な部族社会で、村長がクリスチャンにならなければ、だれもクリスチャンにならないのだそうです。
 それで、アメリカの改革派教会は、これ以上犠牲者を出すわけにはいかないと言って、宣教師の家族を全員引き揚げさせた。そしてカリマンタンの伝道をあきらめた。ところが、帰国した宣教師の報告を聞いた改革派教会の若者たちが、「私たちが行きます」と言って立ち上がったのだそうです。それでカリマンタンの伝道が再開された。若者たちの命がけの伝道があったそうです。そのように命がけで福音の種が蒔き続けられたのです。そういう100年以上の種蒔き、伝道がなされ続けた。
 そして、1965年、インドネシア共産党によるクーデター未遂事件が起こります。これを鎮圧した若きスハルト将軍が実権を握り、共産党絶滅作戦を展開する。失敗した共産党員は、カリマンタンのジャングルにも逃げ込みました。それでだれが共産党員でだれが首狩族か分からなくなった。するとインドネシア陸軍は、首狩族に対して「もし宗教を持たなければ共産党員と見なす」と言ったそうです。つまりそれは皆殺しであると。
 首狩族の宗教というのは、それまではいわゆる自然崇拝でした。しかしインドネシアでは、圧倒的多数のイスラム教の他、カトリック、プロテスタント、仏教、ヒンズー教の5つだけが公認宗教で、首狩族の自然崇拝は宗教と認められていませんでした。それで、首狩族は、その5つの宗教の内のどれかを選ばなくてはならなくなりました。そして首狩族が選んだのは、なんとプロテスタントであったそうです。それはなぜかと言えば、100年以上もアメリカ改革派の若い宣教師たちを見てきたからだそうです。
 奥山先生は、ちょうどその時にカリマンタンに派遣された。そして、首狩族のジャングルに1カ月滞在し、毎晩一つの村ごとクリスチャンになる場面に、居合わせ、洗礼を授けたそうです。しかしそれは、そのアメリカ改革派教会の若い宣教師たちの命がけの伝道があったことの収穫にすぎないと言っておられます。

収穫の主に願う

 この日本にもすでに多くの福音の種が蒔かれていることを信じます。しかし「収穫は多いが働き手が少ない」。収穫のためには、種を蒔くために働く人が少ないと主はおっしゃいます。
 種を蒔くために働く人が少ないならば、どうせよとおっしゃっていますか?‥‥「収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい」と、主イエスはおっしゃっています。働き手を与えて下さるように、神さまに祈り願いなさいと言っておられます。今年度も、福音の種を蒔き続けることのできる教会であるように、祈りたいと思います。


(2013年5月5日)



[説教の見出しページに戻る]