礼拝説教 2013年4月21日

「前進なさる主に」
 聖書 ルカによる福音書9章57〜62 (旧約 イザヤ書55:6)

57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。
58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」
61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」
62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。




 本日の聖書は、身が引きしまるような思いがする個所であると思います。イエスさまがおっしゃったことが非常に印象的です。イエスさまを信じるということが、これほど厳しいのであれば、とてもついて行くことができないと思う方もおられるのではないかと思います。またある人にとっては、昔の日本人は主君や会社に対してこの通りだった、と思う方もおられるかも知れません。
 いったいイエスさまは、どのような意味でこれらのことをおっしゃったのか、まずもう一度ていねいに今日の聖書個所を見てまいりましょう。

人の子には枕する所もない

 まず、「一行が道を進んでいくと」と書かれています。イエスさまと弟子たちの一行は、どこに向かって進んでいるのか。それは、51節に書かれていたとおりです。イエスさまが天に上げられる時期が近づき、エルサレムに向かって歩み始められたのです。エルサレム、それは十字架の待つところです。神の国の福音を宣べ伝えるイエスさまの旅は、いよいよ最終章へとページがめくられました。そういう時に、ということです。
 そして、ここに3人の人が登場します。最初の人は、イエスさまに向かって「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」と申し上げました。イエスさまに弟子入りを志願したのでしょうか。するとイエスさまは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」とおっしゃいました。ご存じのように「人の子」というのは、すべての人間という意味ではなく、イエスさまご自身のことです。野生動物である狐には、帰って体を休めるべき穴というマイホームがあり、空の鳥にも巣がある。しかしイエスさまには、そのような場所はないと。
 何かこのイエスさまのお答えは、「従ってきても良い」とも「ダメだ」ともおっしゃっていないので、はぐらかしたようなお答えにも聞こえます。しかし、そのように枕する所もないイエスさまであることを承知の上で、考えなさいということでしょう。
 振り返ってみますと、46節からのところで、イエスさまの弟子たちは、自分たちのうちでだれが一番偉いかという議論が起きたほどです。弟子たちもイエスさまを誤解していました。イエスさまというお方は、やがてこの地上の王となられるお方であると。だからそのイエスさまに従って行けば、イエスさまが王となったあかつきには、自分たちも大臣や政府の重職に就くことができるという上昇志向でありました。もちろんイエスさまはそのような弟子たちの誤りを指摘されたわけですが。
 今日イエスさまに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った人も、やはりそのような、この世の地位や名誉を得ることを考えていたのかも知れません。やがて、王となられるイエスさまに従って行けば、豪華な家に住むことができるであろうという期待をしていたのかも知れません。それに対してイエスさまは、「枕する所もない」とおっしゃいました。宮殿や邸宅に住むどころか、枕する所もないのだと。それを承知の上で従って来なさいということでしょう。実際、イエスさまが向かっておられる先はエルサレムであり、そこには十字架という受難が待ち受けているわけです。

私たちひとりひとりを救うために

 世の中には、いろいろな動機でイエスさまを信じようとする人がいるでしょう。もしかしたら、億万長者になろうとしてイエスさまを信じようとする人もいるかも知れません。あるいは、この世の中で成功して豊かになろうとしてイエスさまを信じる人もいるかも知れません。皆さん、冗談だと思う方もいるかも知れませんが、決して冗談ではありません。というのは、前にもお話ししたとおり、私が大人になる前、最も自発的にいっしょうけんめい教会の礼拝に通ったのは高校3年生の時だったからです。大学受験という目的があり、希望する大学に合格するには、神さまの力を借りるしかないと思ったのです。言わば神社でお百度を踏むようなことです。それは聖書に「求めなさい。そうすれば与えられる」(マタイ7:7)と書かれていたからです。そうして、大学合格を神さまに求めて、教会にお百度を踏んでお願いしたわけです。
 そうして晴れて合格しました。しかし合格すると、しばらくして教会に通わなくなってしまったのですから、今考えると、神さまはもう用済みだということだったわけです。
 この、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った人も、この世の成功を求めていたのかも知れません。それに対してイエスさまは、「人の子は枕する所もない」とおっしゃいました。これは、そういうこの世の成功、つまり大金持ちになるとか、出世するとか、有名人になるとか、そういうことが目的ではないということでもあります。
 もちろん、イエスさまを信じていった結果、もしかしたらこの世でも成功をおさめるかも知れません。有名人になり、お金持ちになるかも知れない。しかしそのこと自体が、信仰の目的ではないと言うことです。それは神さまが、その人をたまたま有名人にして、何かの目的のために用いておられるということであって、この世の成功自体が目的ではありません。そういうことを、イエスさまの言葉から思うことができます。
 そもそも、なぜイエスさまは枕する所がないという道を歩んでおられるのでしょうか?‥‥神の国を宣べ伝える働きに出なければ、枕する所はあったでしょう。母マリアの家で大工として続けていれば、それなりに枕をして眠り、平穏な生活をしていくことができたでしょう。いや、もっと言えば、もともと神の子であられるイエスさまですから、何もこの人間の世に来られなければ、枕する所もないということにならなかったでしょう。
 しかしそのイエスさまが、なぜ枕する所もな道に進まれたのか。神さまの所を出て、マリア様の所を出て、無一物となられ、枕する所もなく神の国を宣べ伝える働きに出られたのか? それはただ、私たちを救うためにそうなられたのです。「私たち」というとピンと来ないかも知れません。この「私」「あなた」を救うために、滅びから救うために、イエスさまはすべてを捨てて、枕する所もなく、来て下さったのです。そして十字架へ行かれる。この私たちひとりひとりを救うために、神の国に連れて行くためにです。それは私たちひとりひとりを、ただ愛してくださるからです。それ以外の理由はありません。信じられないような愛で、私たちは愛されているということです。

イエスを信じると

 そして、そのイエスさまの弟子となるということは、そのイエスさまの働きに加えていただくということです。私たちも、イエスさまを信じて従って行ったために、余計なことに関わるようなことになるかも知れません。枕する所がないというほどではなくても、他人のために時間をとられ、また労力を使うようになるかもしれません。
 私自身、神さまもイエスさまも信じる前は、自分のことだけ考えていればそれで良かったという人間でした。誰か困っている人がいても、あまり関心を持つことはありませんでした。自分が生活することができれば、それで良かった。自分が枕することができればそれで良かったわけです。しかしではそれで満足だったかといえば、そうではありませんでした。何かいつも不平不満や、心配がありました。平安ではなかった。
 逆に、イエスさまを信じるようになってからは、それまで面倒くさいことには関わらなかったのが、だんだん面倒くさいことに関心を持たざるを得ないようになっていきました。それで、まったくこの世的には何の得にもならないようなことにも、関わることになっていきました。そのために苦労することすらありました。しかしそれは不幸になったということかと言えば、全く逆でした。そのような面倒くさいことの中で、神さまの奇跡を見ることができました。神さま、イエスさまが生きて働いておられる。これは、言ってみれば、この世では枕する所もなく救いのために働かれるイエスさまが、本当に生きて働いておられることを知ることができたと言えます。これは他の何にも変えがたいことです。
 これは教会も同じです。自分の教会がある程度満たされてやっていければそれで良い、ということになると、生きておられる主の働きを見ることもなくなっていきます。しかし、主の御心に従って、神の国の福音を宣べ伝えるために仕え続けるならば、そこに行ける主の働きを見ることができるようになります。

何が第一か

 今日の聖書個所では、続けて2人の人が登場します。2人目は、イエスさまが「わたしに従いなさい」と招かれました。するとその人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と答えました。ちょうどお父さんが亡くなったのでしょうか。親の葬式をする。それは当たり前のことです。ところがイエスさまは、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」とおっしゃったのです。ずいぶんなことをイエスさまはおっしゃっいました。死んでいる者に死者を葬らせることはできないのですから、これはイエスさまはいったい何をおっしゃったのか、と疑問に思われます。自分の父親が死んだというのに、放っておけとおっしゃっているようにも聞こえます。
 次の、「まず家族にいとまごいに行かせてください」という人の場合も同じです。イエスさまに従って行くというときに、家族に別れを告げに行くのは、当たり前のことです。家族は大切な存在だからです。ところがイエスさまは、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われました。
 いずれも、何か一見非常に冷酷な印象を受けます。父親が死んだら葬りに行かなくてはならないし、イエスさまに従って家を離れて行くならば、家族にいとまごいに行くのは当然のことです。いったいなぜイエスさまはこんなことをおっしゃったのでしょうか? そもそもこのようなイエスさまのお言葉は、イエスさまご自身がおっしゃった「父母を敬え」(ルカ18:20など)という言葉と矛盾するのではないでしょうか?
 さて、このことを考える時に、この二人の人が言った言葉を注目したいのです。彼らは、「まず、父を葬りに行かせてください」、「まず家族にいとまごいに行かせてください」と言っています。この「まず」と訳されている言葉は、ギリシャ語では「まず第一に」という意味があります。すなわち、まず第一に大切なことは何か、ということです。親の葬式をする、また、家の人にいとまごいをしに行く。この世の中に、これより大切なことはないと言えるでしょう。だから、ふつうはそれが、まず第一に大切なことに決まっています。だれもそれを否定できない。
 しかし、本当にまず第一に大切なことは何か、ということです。もっと言えば、この世で最も大切なことは何か、ということです。そのときに、イエスさまは、イエスさまに従って行くということだと、示しておられるのだと言えます。
 実際には、私たちは、出家しているわけではありません。この時は、エルサレムに向かわれるイエスさまの後に着いていくために、その後にくっついていかなければなりませんでした。しかし私たちは、家を出て行くのではなく、家におり、この社会で働いて生活しながらイエスさまを信じています。そして、実際に、親を大切にしているのはクリスチャンであると言うこともできます。今度6月の特別伝道礼拝にお呼びする、大隅啓三先生がある時おっしゃっいました。「だいたいどこの家でも、クリスチャンである子どもが親の面倒を見ている」と。私はそのとき、いろいろな人の子とを思いだし、本当にそうだなあと思いました。イエスさまに「死んでいる者たちに、自分の死者を葬らせなさい」と言われたクリスチャンが、実際には一番親の面倒を見ている現実があります。
 それはなぜかと言えば、イエスさまを第一と信じるから、そうなるのだと思います。イエスさまを第一としてこそ、何が大切であり、何が尊いものであるかが見えてくるのだと言えます。それはまことに感謝なことです。
 私自身、イエスさまを信じる前は、何が大切なことであるかと言えば、それは自分自身の利益になることが第一でした。しかしそれは、決して満たされた生活にはなりませんでした。しかしイエスさまを信じてから、何をすれば良いかがだんだん分かってくるようになりました。何が大切なことであるかが見えてきました。これはまことに感謝なことです。
 今なお、つまずき、間違いや失敗も犯しているわけですが、そのような私たちをもお見捨てにならないで、連れて行ってくださるイエスさまに感謝です。


(2013年4月21日)



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