礼拝説教 2013年4月14日

「敵か味方か」
 聖書 ルカによる福音書9章49〜56 (旧約 ゼカリヤ書14:9)

49 そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」
50 イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」
51 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。
52 そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。
53 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。
54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。
55 イエスは振り向いて二人を戒められた。
56 そして、一行は別の村に行った




敵か味方か

 本日の説教題は、「敵か味方か」という題をつけさせていただきました。説教題をつけるというのは、日本の教会の習慣だということを聞いたことがあります。欧米の教会では、あまり説教題をつけるということをしないというのです。しかし日本のプロテスタント教会では、説教に説教題というものをつけます。しかも多くの教会では、その説教題を筆で書いて看板として立てて、道行く人に見せています。これは私が育った島田教会でもそうでしたし、神学生時代に通った三鷹教会、最初の任地である輪島教会、次の富山二番町教会、そしてこの逗子教会、いずれも説教題の看板を書く奉仕をなさる方がいて、次の日曜日の説教題を筆で紙に書いて、道行く人に分かるように掲示していました。
 中にはあまり考えずに説教題をつける牧師もいるようです。私も考え出すと切りがないので、あまり考えないようにしていたのですが、前の教会では、牧師室が表通りに面していました。そして説教題を掲示している掲示板がその窓の外のすぐの所にありました。そうすると、道行く人が立ち止まって、説教題をながめている光景をしばしば目にすることとなりました。そしてある時、近くの郵便局に切手を買いに行ったとき、その郵便局員の女性が私にこう言ったのです。「あの〜、看板に『主の目』って書いてありますが、どういう意味ですか?」と。次の日曜日の説教題を「主の目」と付けたのを、その局員は不思議に思って尋ねたのです。もちろんその方はクリスチャンでもないし教会に来たことが或る人でもありませんでした。私が切手を買うためによく郵便局に来る。そのうち何かのきっかけで私が富山二番町教会の牧師であることを知ったのでしょう。それで声をかけた。彼女は、教会の看板の前を通るたびによく見ていたんですね。
 そういうことがあって、「これは、何か聴きたくなるような説教題をつけなければならん」と思うようになって、いろいろと考え出して切りがなくなるということになった次第です。
 話がそれました。今回の説教題は、「敵か味方か」という第にいたしました。つけてしまって、あまり気の利いた題ではなかったなあ、といつものように思ったのですが、要するに、私たちは、自分の敵と味方の線をどこに引くだろうか、ということを言いたかったのであります。
 私たちは、味方が多いと安心します。逆に敵が多いと不安になり、緊張いたします。自分のことを理解してくれない、快く思ってくれない、そういう人が多いと思うとストレスがたまります。しかしそのとき、本当にその人は私たちの敵なのか、ということを考えてみる必要があります。

あなた方の味方

 前回の個所でイエスさまは、「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」とおっしゃいました。そしてこの「最も小さい者」というのは、自分という人間が取るに足りない人間であることを知っている者のことであり、それはすなわち聖書の意味での「謙遜」という意味であり、へりくだるということであると申し上げました。今日の聖書は、それに続いています。引き続き、「謙遜」ということについてイエスさまが教えておられると言えます。
 「そこでヨハネが言った」と書かれています。イエスさまのお話を聞いて、使徒であるヨハネがイエスさまに申し上げたのです。何かヨハネは少し分かったかな、と思いたいのですが、ヨハネが言ったのは、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました」ということでした。イエスさまの名前を使って悪霊を追い出している者がいた。しかしその人は、自分たちと一緒にイエスさまに従わない。だから、悪霊を追い出すわざをやめさせたのだと。
 これは弟子たちの身になって考えてみると、何か分かるような気もします。自分たちは、何もかも捨ててイエスさまに従っている。ところが、その人はそうではない。その人は、自分たちと一緒にイエスさまに従ってこないのに、悪霊を追い出すという業だけをしている。それは怪しからん、と思うのは人情ではないでしょうか。
 しかしイエスさまは言われました。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」‥‥ここで「逆らわない」というのは、「反対しない」ということです。反対しない人は味方であると。
 たしかに弟子たちの気持ちは良く分かります。「自分たちは何もかも捨ててイエスさまに従っている。いっしょうけんめい従っている。しかしあの人はそうではない。我々の仲間に加わろうともしない。だからやめさせた‥‥」ということです。しかし考えてみると、その人はイエスさまの名前を使って、悪霊を追い出していた。悪霊を追い出すというのは人間にはできないことです。だからその人も神さまが用いておられたということになります。そして、少なくともその人は、イエスさまを信じていたわけです。そうするとその人は、味方なのだ、仲間なのだ、とイエスさまはおっしゃる。

私ではなく神さま

 昔、私が親しくさせていただいていた先輩牧師が私にこういう話をしてくれました。あるとき、その牧師の教会員の1人が、「先生、私は毎週日曜日の朝に、駅まで教会案内のプラカードを持って立つことにしました。よろしいでしょうか?」と聞いてきたというのです。それで先生は、このように答えたそうです。「あなたが毎週プラカードを持って立っていても、もしかしたら教会員がだれ一人あなたを手伝ってくれないかも知れない。それでも何も文句を言わないと約束するのなら、いいでしょう」と。
 最初は伝道に燃えて、プラカードを掲げているかも知れない。しかし、そのことによってだれも教会に来るわけではないかもしれません。そして他の教会員はだれも手伝ってくれないかも知れません。そうするとそのうちだんだん、「なぜだれも手伝ってくれないのか?」と不満を持つようになる。‥‥
 しかしその時欠けているものがあります。それは、神さまは、ということです。神さまがその人に対して、毎週それをしなさいとおっしゃったと信じることができるのなら、たとえだれも手伝ってくれなかったとしても、不満はないはずです。「神さまが私にこれをするように導かれた。そしてそれをさせていただいている。感謝。」ということになるはずです。しかしその、「神さまかが」というのが欠けていて、自分が良かれと思ってやっていることであると、次第にそのように不満が出てきます。
 この時の弟子たちもそうであったと言えます。「私たちと一緒に」と言っています。「わたし」ではなく、「神さまが」「主が」「イエスさまが」というところが主語になったときに、他の人がどうであるとかいうことは、あまり気にならなくなります。主は、私には私にふさわしい導き方をなさり、その人にはその人にふさわしい導きをされる。そのように考えたときに、その人は敵ではなくて味方であると見ることができます。

叱りつけるイエスさま

 次の51節のところからは、イエスさまの天に上げられる、すなわち十字架と復活を経て、天に帰られる時が近づいて、イエスさまがエルサレムに向かって行かれるということが初めに書かれています。いよいよ十字架が次第に近づいて来ます。そしてイエスさまは、使いの者を出して、これから行くところのために準備をさせたと記されています。そうして使いの弟子たちが、サマリア人の村に入ったのですが、村人はイエスさまを歓迎しなかったというのです。それはイエスさまがエルサレムを目指して進んでおられたからだと。
 サマリア人とユダヤ人は反目し合っていました。言わば敵同士です。そしてイエスさまが、サマリアにとどまるのではなく、エルサレムに向かっておられるというので、そのエルサレムはユダヤ人の都ですから、歓迎しなかった。そこで弟子のヤコブとヨハネは、さすが「雷の子」というニックネームをイエスさまからいただいた兄弟ですね。短気です。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか?」と進言したというのです。
 たしかに、神の子キリストを歓迎しようとしなかった、受け入れなかったわけですから、失礼極まりない。天からの火で、焼き滅ぼしてしまえ、ということです。それに弟子たちはユダヤ人ですから、もともとサマリア人と敵対している。サマリア人を見下しています。それが火に油を注いだということでしょう。「せっかくお前たちサマリア人のところにイエスさまが来て下さるというのに、何という失礼な連中だ!」‥‥ということではないかと思います。
 するとイエスさまは、振り向いて二人を戒められました。この「戒める」という言葉は、「叱りつける」という言葉でもあります。イエスさまは、二人を厳しく叱りつけられたのです。
 いったいなぜでしょうか?‥‥それは、イエスさまは、イエスさまを受け入れない、信じない人々を天からの火で焼き滅ぼすために来られたのではないからです。それが、イエスさまがエルサレムへ向かって行かれることの意味です。弟子たちはだれも悟っていませんが、すでにイエスさまが予告されたように、エルサレムでイエスさまを待っているものは十字架です。それがすべてを物語っています。

キリストによって変えられる未来を見る

 私は、自分のことを思い出します。私は、幼いときに神さまによって命を助けられたにもかかわらず、その後神さまを捨てた人間ですから、まさに天からの火で焼き滅ぼされても仕方がない者でした。いや、この弟子たちも同じです。ヤコブとヨハネ兄弟は、こんなことを言っていますが、イエスさまが逮捕されたとき、皆イエスさまを見捨てて逃げて行くことになるのです。だからこんな偉そうなことを言う弟子たちもまた、天からの火で焼き滅ぼされても仕方がない者でした。
 皆同じです。みな、神に背き、主の御心に沿わない歩みをしてきた者です。ですから皆、天からの火で焼き滅ぼされても仕方がありません。しかし、イエスさまはまさにそういうひとりひとりを救うために、エルサレムへ、その十字架へ向かって行かれる。私たちを皆天からの火で滅ぼす代わりに、ご自分が十字架にかかって、私たちの代わりに滅んで下さいました。
 この時、天からの火で焼き滅ぼしましょうかと言った短気なヨハネは、のちにどうなったでしょうか?‥‥ヨハネは、のちに福音書と手紙を書きました。それが聖書に載っています。そしてヨハネの福音書と手紙は、「愛」という言葉がポイントになっています。ヨハネの第一の手紙1章9節には、こう書かれています。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」‥‥これを読むと、ヨハネ自身が自分の罪を告白し、主によって赦していただいたということを思います。そして、ヨハネの第一の手紙の有名な言葉、「神は愛なり」(1ヨハネ4:16)。そして繰り返し、ヨハネは互いに愛し合うことを語ります。
 短気で「雷の子」というニックネームを付けられたヨハネは、変えられました。自分もイエスさまを見捨てるという挫折を通して、そしてその罪深い弱い自分のところにも復活のイエスさまが来て下さり、赦し、再び弟子として下さったという恵み。そういう神の愛を通して、ヨハネは変えられていったのです。
 今は神の敵かも知れない。今はイエス・キリストを受け入れないかも知れない。しかし、やがて主がその人を導いて、変えていってくださる。それは、使徒パウロもそうでした。私自身もそうでした。いや、私たちのうちの多くがそうであったに違いない。そうしてみると、今ではなく、未来を見たときに、「敵」ではなく「味方」として見えてくることでしょう。私たちを変え、その人を変えて下さるキリストを信じるときに、そのように見ることができるのです。そうすると、私たちは、多くの敵に囲まれて生きているのではなく、多くの仲間となるべき者、味方となる人々に囲まれて生きているということができます。


(2013年4月14日)



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