礼拝説教 2013年4月7日

「最も小さい者」
 聖書 ルカによる福音書9章46〜48 (旧約 民数記12:3)

46 弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。
47 イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、
48 言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」




誰が偉いか

 「弟子たちの間で、自分たちのうち誰がいちばん偉いかという議論が起きた」と書かれています。この前の個所で、イエスさまが、ご自分の受難について、すなわち十字架にかけられる予告をなさったばかりだというのに、弟子たちは、自分たちのうちで誰がいちばん偉いかという議論を始めたというのです。
 イエスさまが十字架にかけられるということが、どんなことなのか、弟子たちは全く理解できていないということになります。十字架というのは、最も忌み嫌われていた死刑台です。憎悪と軽蔑の対象です。最も卑しむべきものです。従って、この世の中で、最も低い場所、最低の場所が十字架であると言えます。
 ところがその十字架にイエスさまがかけられるという。イエスさまは、実は、神の御子です。天地宇宙の造り主であられる神の御子です。ですから、最も高い所におられたと言っても良いわけです。その、最も高い神さまの所から、この世の私たち人間の所に来て下さった、しかも人として来られたということが、そもそも低く下って来られたということです。そしてそればかりではなく、その人間の世の中でも、最も軽蔑される対象である十字架にかかって死なれるという。従って、最も高い所から、最低の場所へ降られるということです。ご自分を低くされるということです。
 それなのに、イエスさまの弟子たちは、その意味がさっぱり分からない。自分たちのうちで誰がいちばん偉いか、などと言い合っていたのです。この「偉い」という言葉は、ギリシャ語では「メガス」の最上級です。メガスとは、「メガトン級」、「メガバイト」のメガです。つまり、自分たちのうちで誰がいちばんビッグか、上か、という話をしていたわけです。イエスさまが、もっともっと低くなられるというのに、自分たちは誰が偉いか、ビッグか、高い所にいるか、という話をしていた。まったくイエスさまの心が分かっていない。どうしようもなく困った弟子たちです。

他人事ではなく

 しかしこれは決して他人事ではないと思います。私たちも同じように思うのではないでしょうか。人と比べて、自分の方が上だと思いたい。そういうところがどこかにあるのではないかと思います。どこか人と比較して一喜一憂しているところが、私たちにもあるのではないか。他人が誉められると、あまりいい気がしない。他人が成功すると、何かねたみのような感情が湧いてくる。そして、心の中で「自分の方が上手だ」「自分の方がマシだ」などと思ったりする。または、ひそかに優越感に浸ったりする。または、関係のないことでその人の悪口を言ったりする。‥‥決して口には出さなくても、そのように思うというところが、わたしたちの心の中にもないでしょうか。
 まさにそのようなことです。この時のイエスさまの弟子たちはあまりにも正直で、誰がいちばん偉いかとおおっぴらに議論していましたから、まだかわいいほうです。普通は、決して口には出さないで、心の中でそのように思うものです。イエスさまの十字架を信じているはずなのに、神の御子が最も低い十字架に着かれたのにもかかわらず、「自分の方が上だ」「自分の方があの人よりマシだ」と思いたい。そういうところがあるのが私たちではないでしょうか。

地位ある人を喜ぶ傾向

 そればかりか、たいていの人は、社会的に地位ある人や名誉ある人と知り合いになることを喜ぶのではないでしょうか。
 あるとき、ある町の市長選挙で新しい市長が当選しました。すると、ある人が、「オレはあいつと同級生だ」と言いました。するとそれを聞いた他の人が、「市長が当選すると、急に同級生が増える」と言いました。その時はそれで笑って終わりでしたが、実際そういうものではないでしょうか。政治家と友人である、あるいは有名人と友達である‥‥そういうことは自ら口にします。しかし逆の場合はどうでしょうか? 無名の人、貧しい人、あるいは社会から敬遠されるような人について、「私はこの人と友達だ」と胸を張って言うでしょうか。
 そして悲しいかな、油断すると、教会にもそういうところが出てきてしまいます。今日は詳しくお話ししませんが、何しろ、私は学生の時、それで教会につまずいたのですから。教会の中に、社会的な地位のある人がいることを自慢する。その時私はその自慢する教会につまずきました。そして2度と、その教会には行かなくなりました。若者はそういうことに敏感です。
 そのように、人間、この世の地位のある人や有名人と知り合いであることを誇る傾向があります。しかし、子どもと知り合いであることを誇るでしょうか?

子どもを受け入れる者は

 しかし主イエスはこの時、1人の子供の手を取り、ご自分のそばに立たせておっしゃいました。その子供は、何か特別な子どもではないに違いありません。イエスさまの弟子たち、あるいは婦人の弟子たちの誰かが連れて来ていた幼子であろうかと思います。たまたまそこにいた子どものひとりでしょう。
 イエスさまは、その子どもの手を取って、ご自分の脇に立たせておっしゃいました。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
 すなわち、イエスさまを信じてこの子を受け入れるならば、それはイエスさまご自身を受け入れることと同じであり、すなわちそれはイエスさまをお遣わしになった父なる神さまを受け入れることになるのだ、とおっしゃったのです。ここで「受け入れる」という言葉ギリシャ語には、「歓迎する」という意味があります。単に受け入れるだけではなく、歓迎する、喜んで受け入れるという意味があります。子供を受け入れても、何の得にもならないかもしれません。子供は社会的地位ということで言えば、何もありません。
 しかしイエスさまは、この全く無力でなんの力も無いこの子供を受け入れる者は、イエスさまを受け入れるのであり、それはすなわち父なる神さまを受け入れるのであるとおっしゃいました。

最も小さい者

 そして続けてイエスさまはおっしゃいました。「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」。
 これは一見すると、それまでの言葉といったいどういうつながりがあるのか、と不思議に思えないでしょうか。今までは、子供を受け入れるということについて述べられていました。そしてそれは、社会的な地位もなく有名でもなく、自分の得にもならない人であっても同じように受け入れることが言われていました。しかしここで、弟子たちを指して、「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」と、弟子たちの中の「最も小さい者」について、それは最も偉いのだと言われています。そのように弟子たちの中の「最も小さい者」の話しになっています。
 それはいったい誰のことでしょうか。弟子たちの中で、最も社会的な地位が低い人、という意味でしょうか?‥‥もしそうだとしたら、単に社会的な地位を失えば良いという話しになってしまいます。あるいは、単に貧しくなれば良い、という話しになってしまいます。それでは何か変です。
 そこでこの「小さい」という言葉を考えてみます。するとこの言葉は「ミクロス」というギリシャ語です。ミクロスとは、ミクロンという単位にも使われています。ミクロンと言ったら目に見えないほど小さいですね。先ほどの「偉い」という言葉が「メガトン級」のメガス、こちらの「小さい」はミクロンのミクロス。大きいと小さいが対照的になっています。だから、「偉い」の反対です。偉くない、ということです。
 また、この「ミクロス」には、小さいの他に、少ない、低い、という意味があります。先ほどのメガスが、大きくて高いなら、ミクロスは、小さくて低い。そして「偉い」の反対。つまりここで主イエスがおっしゃっている「小さい」とは、偉くしない、低い、ということです。これを聖書では「謙遜」という言葉に置き換えることができます。

謙遜

 私が「謙遜」という言葉を知ったのは、まだ私がキリストを信じるようになったばかりの20代半ばの頃でした。もちろん、「謙遜」という言葉自体は知っていました。それは世間でもよく使う言葉です。しかし、聖書の信仰において、この「謙遜」というものがもっとも大切な徳目の一つであることを知ったのです。
 それは前にもお話ししたように、アメリカ人の宣教師の先生からでした。先生は、ある日、聖書の箴言の中で、「高ぶり」とか「高慢」といった言葉がいくつあるか、数えてきなさいという風変わりな宿題を出しました。当時は口語訳聖書でした。数えたところ、箴言の中にそのような言葉が40回出てくることが分かりました。高ぶりとか、高慢のたぐいの言葉がそんなに多く出てくるのは意外でした。しかしそれがいったい大切なことなの?という思いでした。
 すると先生は、「聖書では、人間の最も大きな罪は高慢です」とおっしゃいました。私は非常に驚きました。人間にとって最も大きな罪が高ぶりというものであり、高慢であるということは考えたこともなかったからです。しかしそれから聖書を調べれば調べるほど、それが事実であることが分かっていきました。
 そして先生は、アンドリュー・マーレーという牧師の書いた『謙遜』という薄い本を紹介して下さいました。私はそれを読んで衝撃を受けました。私はそれまで、人から称賛を受けたり、人から褒められたり、人から認められたり、人の上に立つことを喜びとして生きてきました。それはこの世の社会がそういうことを奨励する社会だからです。人を蹴落とし、人よりも優位に立たないと認められないし、利益を得ることができないのがこの世の中だからです。落ちこぼれた者は、敗者として扱われる。だから弱みを見せられないのです。いつも人と自分を比較して、競争して生きなければならないのが、この世です。そして、自分が重んじられていることを喜ぶのがこの世です。
 しかし私がその本で学んだことは、全くそれとは違うことでした。聖書のキリスト信仰の世界は全く違っているということを知りました。この世の中が、高い所に登っていく、そして人よりも上に立つことを喜びとする社会であるとしたら、キリスト信仰の世界は全く反対であるということでした。低く下っていく、そこに真の喜びと平安が見出されていくということでした。そしてもし私たちがキリストを信じているのにもかかわらず、何の喜びも平安もないとしたら、それは謙遜が欠如しているというのでした。
 マーレー先生は、謙遜とは何かということについて、このように書いています。‥‥「それは、単に、私たちが全く取るに足らない者であるとの意識です。それは、神がすべてのすべてであられることを私たちが悟ったときもたらされるのです。」‥‥自分が取るに足らない存在である。初めはそんなことは認めたくありませんでした。しかしそれは事実でした。

取るに足りない私のために

 しかし肝心なことは、その取るに足りない私たちひとりひとりを救うために、神の御子主イエス・キリストは、ご自分の命を投げ打ってくださったということです。それが十字架です。自分自身が取るに足りない人間であることを知ったとき、イエスさまの十字架がいかに尊いものであるかということが、分かってまいります。イエスさまは、この取るに足りない私たちひとりひとりを友として誇ってくださる。かけがえのないものとしてくださるのです。イエスさまが謙遜だからです。
 旧約聖書の最大の預言者と言われるモーセは、なぜあのようにたくさんの神の言葉をいただくことができたのでしょうか。そして神さまの奇跡を見ることができたのでしょうか。それは今日読んだ民数記12:3に書かれているとおりです。「モーセという人は、この地上の誰にもまさって謙遜であった」。‥‥モーセは、自分が神さまの前に取るに足りない人間であることを知りました。かつては、エジプト人を打ち殺してしまうような高慢な人間であったモーセが、その挫折と失敗を経て、神さまこそが自分のすべてであり、自分は取るに足りない人間であることを悟っていったのです。このことに私は感動いたします。
 そして、同じようにこの取るに足りない私を救うために、神の御子イエスさまが十字架にかかって命を投げ打ってくださった。この驚くべき愛に、ただ感謝する他はないとあらためて思います。


(2013年4月7日)



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