礼拝説教 2013年3月24日

「予告」
 聖書 ルカによる福音書9章43〜45 (旧約 イザヤ書53:5)

43 イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。
44 「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」
45 弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。




棕櫚の主日

 先ほど、聖書朗読の前に歌いました(旧)讃美歌130番は、よく運動会やスポーツの大会などの表彰式で流れる曲として有名です。これはもともとヘンデル作曲の宗教曲で、19世紀にスイスの牧師が歌詞をつけたそうです。その歌詞は何を歌っているかといえば、イエスさまの福音説教の旅の最後にエルサレムに入城した時のことを歌っています。イエスさまがロバの子に乗ってエルサレムの町に入られる。その時、群衆が「ダビデの子にホサナ!」と歓呼の叫びを上げて歓迎いたしました。そしてその時、群衆は、手に手に棕櫚の木の葉っぱを持って歓迎したと言われることから、この日を「棕櫚の主日」と呼んでいます。
 今日は教会の暦では、棕櫚の主日です。この日イエスさまは、群衆の歓呼の中をエルサレムに入城されましたが、まさにこの週の木曜日に、弟子たちと共に最後の晩餐を過ごされ、そして翌日の金曜日に十字架につけられることになります。

十字架の予告

 本日の聖書個所で、イエスさまは「この言葉をよく耳に入れておきなさい」と言っておられます。それは、イエスさまが言わんとしていることを非常に強調している言い方であると言えます。分かりやすく言えば、「お前たち、私がこれから言う言葉をよく耳に入れておきなさい。忘れないようにしなさい」と言っておられるのです。
 それは何かというと、続いて語られた言葉ということになります。すなわち、「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」という言葉です。「人の子」というのは、イエスさまがご自分を指しておっしゃる言葉です。そして「引き渡される」という言葉は新約聖書では、捕らえられるとか、裁判にかけるために引き渡される、あるいは死刑台に上らせるために引き渡される、というような意味で使われることがよくあります。
 すなわちここでイエスさまは、イエスさまを殺そうとしている人々によって捕らえられることをおっしゃっているのです。そして、「引き渡される」という言葉は、「ゆだねる」「任せる」という意味があります。すなわち、イエスさまは、捕らえられ、引き渡されるのですが、その捕らえられた相手にご自分をゆだねるということをおっしゃっていると言えます。イエスさまを殺そうとしている人々に、イエスさまが引き渡され、ご自分の身を委ねられたらどういうことになるのか。その結果は火を見るよりも明らかです。すなわちここでイエスさまは、ご自分が処刑される、十字架にかけられるということを予告なさっていることになります。
 イエスさまがそのような予告をなさったのは、これで2度目です。前回は、「山上の変貌」の出来事が起きる前の9章22節です。人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」‥‥この時はもっと具体的に語られています。そして復活のことまで予告されています。復活のことまで予告されているのだから、イエスさまが捕らえられ、十字架にかけられるようなことになってもいいじゃないか、安心だ‥‥ということにならなかったのです。復活する、よみがえるということが、どんなことなのか分からなかった。そんなことは信じられない。理解できなかったことでしょう。
 そして今日は、「この言葉をよく耳に入れておきなさい」と念を押したように強調され、そして何をよく耳に入れておくかというと、「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」ということであるとおっしゃる。前回受難の予告をされた時は、聞かなかったことにしようと思ったかも知れません。しかし今回は、そういうことがないようにイエスさまが釘をさした上で、受難を予告されいてる。もはや、聞かなかったことにしようとしても、できないほどにです。

理解できない弟子たち

 「弟子たちはその言葉が分からなかった」(45節)と書かれています。イエスさまが何をおっしゃっているのかということは分かったでしょう。しかし、なぜイエスさまがそのように人々の手に引き渡されなければならないのか、苦しみを受けて殺されなければならないのか、ということが理解できなかったということでしょう。
 そもそも、なぜイエスさまの弟子たちはイエスさまの弟子となったかと言えば、イエスさまこそ神さまから遣わされた方であり、キリスト=メシアであると信じたからではなかったか。そしてその場合のキリストというのは、自分たちユダヤ人の国をローマ帝国の手から取り戻し、独立を勝ち取り、かつてのダビデ王の時の繁栄を取り戻してくれる救い主であると思っておりました。すなわち、イエスさまこそ新しい王であると信じたからこそ、ここまで従って来たのではなかったか。イエスさまのなさる数々の奇跡こそ、イエスさまが神から遣わされた偉大な預言者であることのしるしであり、必ずイエスさまは、民衆を率いて武装蜂起し、革命を起こすに違いない。そしてそれは成功するに違いない、と弟子たちは思っている。だからイエスさまに従ってきた。
 それなのに、そのイエスさまが引き渡され、苦しみを受けた挙げ句、殺されるということは、イエスさまは失敗に終わるということになります。イエスさまはキリストではなかったということになってしまいます。だから、イエスさまの受難の予告など理解できなかったのです。もしイエスさまがおっしゃることが本当ならば、弟子たちはイエスさまに従ってきたことが無駄になるということではないか、と思ったことでしょう。そんなことは考えたくもない。だから弟子たちは、「怖くてその言葉について尋ねられなかった」(45節)わけです。

受難の意味

 しかしなぜキリストであり、メシアであるはずのイエスさまが、イエスさまを妬み、憎む者の手に引き渡され、十字架にかけられなければならないのか。これは弟子たちでなくても疑問に思うところでしょう。男だけでも5千人いるという大群衆に対して、たった5つのパンと2匹の魚でもって満腹にさせたという奇跡、多くの人々の病気を癒し、悪霊に苦しめられている人から悪霊を追い出すという奇跡を重ねてこられたイエスさまですから、その神の奇跡によって敵を蹴散らし、ローマ帝国を打倒することなど、全く可能なことではないのか。それなのに、めざましい奇跡をなさってきたイエスさまが、なぜ引き渡され、十字架にかけられなければならないのか。誰もが疑問を持つところでしょう。
 しかしそのことの答えは、まさにきょうの個所にヒントがあります。43節「人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。」‥‥前回、イエスさまが悪霊に取りつかれて苦しむ子から、悪霊を追い出されました。その結果、人々は皆、「神の偉大さに心を打たれ」ました。イエスさまが奇跡をなさったのですが、人々は神の偉大さに心を打たれました。これがイエスさまのなさることです。私たちも、私自身ではなく、神さまがほめたたえられるようにするべきであることを教えられます。
 そして続いて、「イエスのなさったすべてのことに、皆が驚いていると」、イエスさまは弟子たちに先ほどのとおりおっしゃいました。この場合の、「イエスのなさったすべてのこと」というのは、前回の悪霊追放の奇跡だけではなく、これまでイエスさまがなさってきたすべての奇跡について、ということです。イエスさまがなさってきた、病気の人々の癒し、悪霊からの解放といったすべての奇跡について、人々が驚いている。そうすると、イエスさまが受難の予告をなさったのです。
 すなわちこれは、これまでイエスさまがなさってきた数々の奇跡と、これからイエスさまがお受けになる苦しみとは関係があるのだと、言っておられるように聞こえます。

イエスが負われる

 今日読んだ旧約聖書は、イザヤ書53章5節です。イザヤ書53章というのは旧約聖書の中でも、もっとも具体的にイエスさまのことを予言しているといわれる個所です
 53:4〜5を読んでみます。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。 彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
 「彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された」‥‥この「彼」というのが、イエスさまを予言していると言えるものです。そうすると、イエスさまの奇跡、病の癒しというものについて、考え方が変わるのではないでしょうか。イエスさまの癒しの奇跡は、手品のようなものではないし、魔法のようなものでもない。それは、イエスさまの受けた傷によって癒されたのだと言っています。イエスさまが病を負って下さったということが預言されています。驚くべきことです。イエスさまが病を負って下さる。イエスさまが受けられる苦しみによって、イエスさまが受けられた傷によって、癒されたと。
 ここにおいて、わたしたちは、イエスさまの奇跡というものの見方が完全に変わります。それは、イエスさまが代わりに病を負って下さり、イエスさまがわたしたちの代わりに苦しみを負って下さるということであると。そしてそのことは、十字架において実現するということです。人々は、イエスさまの奇跡によって心を打たれ、驚いている。それは、人々の病、苦しみをイエスさまが担って、十字架へ持って行かれるのであるということです。
 そして死ぬべきわたしたちの代わりに死んで下さり、それと引き替えに私たちは救われるのだということを知ります。イエスさまの受けられた十字架の死によって、私たちは救われることを、ここで預言されているということができます。

暴風雪の中で守った命とは

 今月の初め、北日本ではひどい吹雪に見舞われました。その中で、北海道のオホーツク海に面する湧別町での事故が記憶に新しいことでしょう。それは、たった一人の小学生の娘さんを持つ漁師の父親が、暴風雪の中、亡くなったというニュースでした。父親は、午後3時過ぎに大雪の降る中、学童保育に通う娘を車で迎えに行きました。しかし家に帰る途中、風雪が強まり、車は雪の吹きだまりにはまってしまって動けなくなりました。しかも車にはガソリンが残り少なくなっていました。このままガソリンが切れれば、エンジンが止まってしまい、暖房もできなくなる。それは死を意味します。
 それでお父さんは、小学生の娘さんを連れて車の外に出て、近くの知人の家に歩いて向かいました。しかし時は夜、氷点下の暗闇の中、しかも暴風雪で、もう歩けないという状況だったようです。ようやく倉庫を見つけましたが、入口に鍵がかかっていては入れない。それでお父さんは、自分の着ていた薄手のジャンパーを脱ぎ、娘さんに着せた。ちなみに、娘さんは上下のスキーウェアを着ていたといいますから、大丈夫と思えるのですが、お父さんは自分の着ていた薄手のジャンパーを脱いで娘さんに着せ、さらに娘さんを吹雪から守るように抱きしめて自分の体温で暖め続けたようです。
 朝になって警察官が二人を発見した時、既にお父さんは亡くなっていました。娘さんを抱きかかえて亡くなっていたそうです。そして娘さんは、そのおかげで軽い凍傷で済んだと報道されていました。お父さんが自分の命と引き替えに、娘さんの命を守ったのです。ちなみに、このお父さんは2年前に奥さんを亡くしており、たったひとりのお嬢さんをとてもかわいがっていたそうです。
 私はこのニュースを聞いた時、胸が締め付けられるような感じがしました。そして、イエスさまの十字架を思い出しました。このお父さんは、まさにイエスさまの十字架を証ししているように思いました。イエスさまが、ご自分の命と引き替えに、私たちを滅びから救ってくださった。まさにそういうことであります。


(2013年3月24日)



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