礼拝説教 2013年3月17日

「ここに、イエスのもとに」
 聖書 ルカによる福音書9章37〜42 (旧約 イザヤ書43:11〜12)

37 翌日、一同が山を下りると、大勢の群衆がイエスを出迎えた。
38 そのとき、一人の男が群衆の中から大声で言った。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。
39 悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。
40 この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。」
41 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」
42 その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせた。イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになった。




この世の中に戻っていく

 前回は、「山上の変貌」と呼ばれる不思議ですばらしい出来事がありました。イエスさまが、ペトロとヨハネとヤコブの3人の弟子を連れて、祈るために山に登られました。そしてイエスさまが祈っているうちに、そのお姿が変わり、そしてそこにモーセとエリヤが現れたと書かれていました。モーセはその時よりも千数百年以上前の人、エリヤは八百年以上前の、いずれも旧約聖書の有名な登場人物で預言者です。その歴史的人物が、神の栄光に包まれて目の前に現れた。それは天国がかいま見えたということであると申し上げました。信じられないような光景です。
 あまりのことに、ペトロは、「先生、わたしたちがここにいるのはすばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため。一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と言いました。こんな夢のようなすばらしい光景を前にして、モーセにもエリヤにもずっとここにいてもらいたい、ずっとこの場所にいたいという気持ちが正直に表れていると言えるでしょう。
 天国がかいま見えるということはなくても、私たちも礼拝の中で、あるいは祈りの中で、まさに神さまの臨在に触れるかのような、すばらしい平安に包まれるということがあります。あるいは、ずっとこの礼拝の中、祈りの中にいたいと思う時があるのではないかと思います。しかし、いつまでも礼拝の中、あるいは祈りの中にいることはできません。礼拝を終えて、または祈りを終えて、この世の生活の中に戻っていかなくてはならないのが現実です。
 私たちの教会の礼拝のプログラムの最後の所にも、「祝祷」というものがあります。これは祝福です。神さまの祝福をいただいて、再びこの世の中に派遣されるという意味があります。つまり、教会の礼拝が私たちの家であり本拠地、ホームグラウンドであり、そこから世の中に向かって神さまから派遣されるという考え方になっています。そのために主の祝福を受ける、それが祝祷です。ついでに申し上げると、そのあとのオルガンの後奏は、世の中に向かって出ていく行進曲であると、昨年当教会の伝道礼拝に奉仕して下さった楠本史郎先生は、本の中で書いておられます。
 ペトロたちも、いつまでもこのすばらしい所、山の上にいたいと思いました。しかしいつまでもいるわけには行かない。雲の中から聞こえた「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という神さまの声が指し示すイエスさまと共に、山を降りていきました。それはまさに、礼拝を終えて、私たちがまたこの世の中に戻っていくのと同じです。

弟子たちにはできなかった

 山の下は、この世の世界です。楽しいこともあるけれども、つらいこと、苦しいこともある世界です。山の下では既に群衆がイエスさまの帰ってこられるのを待っていました。そしてその中から、1人の男が、自分の一人息子のことで見てやってほしいとイエスさまに叫んでお願いをしたと書かれています。聞けば、悪霊が取り憑いてその子を苦しめるというのです。そして、イエスさまの弟子たちに悪霊を追い出してくれるようお願いしたのだが、できなかったというのです。
 なぜ、弟子たちには悪霊を追い出すことができなかったのでしょうか? というのも、この9章の冒頭には、イエスさまが12人の弟子たち、すなわち使徒たちをほうぼうの町や村に派遣されましたが、そのときイエスさまは使徒たちに「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能をお授けになった」(9:1)と書かれているからです。そのように、イエスさまが使徒たちに悪霊を制し、病気を癒す力をお授けになり、実際に使徒たちは、あちこちの町や村で福音を告げ知らせ、病気を癒して回りました。
 そのようなことがあったのに、今度は使徒たちは悪霊を追放することができなかったという。これはいったいどういうことでしょうか?

イエスの嘆き

 するとそれを聞いて、イエスさまは、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」とおっしゃいました。実はこのイエスさまの言葉の最初に、「オー」という言葉があるんです。世界どこでも、嘆く時に口から出る言葉は似ているようでして、「オー」というのはまさにアメリカ人が言う「オー・マイ・ゴッド」の「オー」です。日本で言えば、「あぁ」というような言葉になるでしょうか。イエスさまは、弟子たちがその子どもから悪霊を追い出すことができなかったということを聞いて、嘆かれたんです。「あぁ!」と。ため息が出るような感じです。
 「あぁ、なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」。「よこしま」というのは名訳だと思います。原語では、「曲がった」という意味です。しかし私たちの聖書が「よこしま」と訳している。これはなかなか的を射た訳だと思います。イエスさまは、弟子たちがこの子から悪霊を追い出すことができなかったことについて、「信仰が無い」とおっしゃり、「よこしま」であるとおっしゃいました。それが原因であるということになります。
 しかし、「信仰が無い」というのは、いったいどういうことなのか? そして、いったい何が「よこしま」だというのか?‥‥この父親の息子の癒しをお願いされた弟子たちのどこに信仰が無かったのか、そしてどこがよこしまだったのか?‥‥イエスさまが山に登っているうちに、山のふもとで待っていた残りの弟子たちとこの父親との間に、具体的にどういうやりとりがあったのかについて何も書かれていないので、分からないようにも思えます。
 しかし続くイエスさまの言葉が、その答えを与えてくれるように思います。「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、我慢しなければならないのか。あなたの子どもをここに連れて来なさい」。
 「あなたの子どもをここに連れて来なさい」‥‥どこに連れて行くのでしょうか? イエスさまのもとにです! そうです。イエスさまのもとに連れて行かなければなりません。弟子たちの所ではダメなのです。イエスさまの所に連れていかなければならないのです。

高ぶりが忍び込む

 しかしこのように言うと、「弟子たちは、先にガリラヤのほうぼうの町や村に派遣された時に、病気を癒して回ったではないか?」と思われるかも知れません。たしかにそうです。しかしあの時は、イエスさまが弟子たちに、「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能をお授けになった」(9:1)のです。
 あの時弟子たちは、初めてイエスさまの代わりに福音を宣べ伝えに行きました。だからものすごく心配だったと思います。不安もあったと思います。ですから、ただイエスさまがおっしゃった言葉を信じて行ったと思います。イエスさまの言葉、悪霊を制する力を与えて下さったイエスさまを信じるより他になかったと思います。そして、実際に町や村を回って、イエスさまの言われたとおり、悪霊を追い出し、病気を癒した。そういう経験をしたものですから、知らずのうちに、何か自分たちに特別な力があるかのように錯覚してしまったのだと思います。知らず知らずのうちに高慢になって、自分たちは特別な能力があるのだと勘違いをしてしまう。
 だから今回、イエスさまが山に登っている時に、この悪霊に取りつかれた子を持つ父親が来た時に、自分たちが悪霊を追い出してあげましょうと言ったのではないでしょうか。何か自分たちに、特別な能力が授かったのだと。
 しかしそういうものではなかったのです。先にイエスさまが弟子たちに授けた、悪霊を制し、病を癒す力と権能は、なにか超能力のような特別な能力を授けたということではありません。その都度イエスさまから、新しくいただかなければならない力なのです。イエスさまを抜きにして、イエスさまのお名前を抜きにしてはあり得ない力だったのです。

わたしではなくキリスト

 これは、弟子たちだけの問題ではありません。今日の個所でイエスさまが嘆きの言葉をおっしゃった時、「ああ、なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」‥‥「時代なのか」とおっしゃいました。「あなたたちは」とおっしゃらずに、「時代」とおっしゃった。それは、弟子たちだけの問題ではないということです。
 私にも思い当たることがあります。ちょっと物事がうまくいくと、何か自分が才能のある、能力のある人間であるかのように思い上がってしまうということが。あるいは、人から誉められると、まんざらでもないと言いますか、何か自分が大した者だと思い上がってしまうということがありました。しかし、そのように思い上がったり、高慢になったりすると、必ずその次に神さまからお叱りを受けるのですね。トラブルが起きるのです。そして完全にまた自分自身が砕かれてしまうのです。わたしはそのような失敗を何度も繰り返して、栄光はただ神さまのものであるということを学んでまいりました。
 私の恩師の一人である、ジョージ・ボストロム先生は、ある時このようにおっしゃいました。「私は、人から誉められたら、『ありがとう』と言って、すぐ忘れることにしています」と。
 弟子たちは思い上がってしまったのです。先に、イエスさまから派遣されて、人々の病気を癒し、悪霊を追放したという経験をしたものですから、何か自分たちに特別な能力が宿ったかのように錯覚してしまった。これを高慢と言います。そして、イエスさまに命じられたわけでもないのに、そして、イエスさまをほめたたえるのでもなく、「わたしが悪霊を追い出してあげましょう」というように言ったのでしょう。しかし、栄光は人間のものではなく、ただ神さまのものですから、悪霊を追い出すことはできなかったのです。人間のところではダメなのです。イエスさまの所に連れていかなければならないのです。

主イエスの所に

 私たちは祈るということをします。そして、祈るということは、問題をイエスさまの所に持って行くということです。
 人には何もすることができないかも知れません。わたしにも何も助ける力はないかもしれません。しかし私たちには力が無くても、イエスさまには力があります。私たちが祈るということは、私ではなく、イエスさまの所に問題を連れていくということです。弟子たちの所ではダメだったのです。しかしイエスさまの所に連れていくことができる。それが信仰です。


(2013年3月17日)



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