礼拝説教 2013年3月10日

「かいま見た世界」
 聖書 ルカによる福音書9章28〜36 (旧約 列王記下2:11)

28 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。
29 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。
30 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。
31 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。
32 ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。
33 その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。
34 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。
35 すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。
36 その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。




大震災から2年

 東日本大震災から、明日で丸2年を迎えようとしています。あの時、私はまだ富山におりました。私たちの引っ越しの荷物を逗子に送る直前のことでした。富山でも少し揺れました。しかしその揺れ方が、ずいぶん長く感じたので、これはどこかで大きな地震が起こったのではないかと思い、テレビを見たところ、まもなくあの津波の映像が入ってきました。その光景は、この世のものとは思えませんでした。本当に驚き、心が痛みました。
 そして続く福島第一原子力発電所の事故。いったいこの国はどうなってしまうのだろうという思いがいたしました。事故がこれ以上拡大しないように、神さまに切に祈ったことを思い出します。そして神さまのみことばを聖書に捜し求めたことを思い出します。あれから2年たちましたが、今なお困難な環境の中に置かれ、また悲しみが癒されない方々がいることを覚え、祈り続ける者でありたいと思います。

山上の変貌

 本日の聖書個所は、一般に「山上の変貌」と呼ばれる個所です。イエスさまのお姿が変わり、むかしむかし亡くなったはずの、モーセとエリヤが現れた‥‥。そういう、新約聖書の中でも、異色の個所です。今までのイエスさまの奇跡といえば、病気の人を癒されたり、悪霊に取りつかれて苦しんでいる人から悪霊を追い出されたり、荒海を静めるということもなさいました。
 しかし今日の個所のように、イエスさまのお姿が変わり、昔の歴史上の人物である人が現れたという出来事は、なにかこの世のものとは思えない出来事に感じられるのではないでしょうか。本当にこんなことがあり得るのか、という思いがするでしょう。なかには、日本昔話のような、おとぎ話を連想する方もおられることでしょう。たしかに不思議な記録であり、夢物語のようでもあります。
 しかしそれは、実際にこの現場にいた3人の弟子たちにとっても同様だったようで、今日の終わりの所を読むと、「弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時誰にも話さなかった」と書かれています。3人の弟子たちにとっても、このことを誰かに話しても誰も信じないだろうと思ったのではないでしょうか。話したところで、「夢でも見たんだろう」と言われるのが落ちではないか‥‥そのように思ったかも知れません。しかしもし見たことを話して、一笑に付されたとしたら、自分たちが見たことがあまりにも神聖なことであったので、それを笑われるということは、神を汚すことのように思って、黙っていたのかも知れません。
 いずれにしろ、このことを目撃した3人にとっても、これは非常に驚くべきことで、尋常ならざる出来事であったということが分かります。では、この出来事を見てみましょう。

天が開かれた

 冒頭の28節で「この話をしてから八日ほどたったとき」と書かれていますが、それは前回の、イエスさまが弟子たちに、ご自分の十字架の予告をなさった時からということです。その日イエスさまは、12使徒のうちペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人だけを連れて、祈るために山に登られたと書かれています。そしてイエスさまが祈っているうちに、イエスさまの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いたと書かれています。すると、2人の人が現れて、イエスさまと語り合っていた。それは、モーセとエリヤであったというのです。
 これを驚かずにいられるでしょうか。というのは、この2人は旧約聖書の登場人物であり、モーセはイエスさまのこの時よりも千数百年も前の人であり、エリヤは八百年以上前の人だからです。今の日本で言えば、今、源義経や聖徳太子が現れたようなものだと言えば分かりやすいでしょうか。
 モーセは、当教会の祈祷会で毎週学んでいますが、イスラエルの出エジプトのために用いられた預言者であり、神さまから十戒を始めとした律法を賜った人でもあります。エリヤは、その昔イスラエルの民が主なる神さまを捨てて、偶像の神を信じるようになってしまったとき、主なる神への信仰を取り戻すために用いられた預言者です。そして今日は旧約聖書の個所として、列王記下2:11を読んでいただきましたが、そこに書かれているように、エリヤの最後は、天から火の馬車が迎えに来て、それに乗って天に昇っていったのです。これもまた尋常ならざる出来事であり、そのようにしてこの地上を去ったのは、聖書にはエリヤの他にはいません。
 ちなみに私は、モーセとエリヤに非常な共感を覚える人です。それはこの二人が英雄視されているからではありません。私はこの二人は英雄ではないと思っています。というよりも、聖書には英雄など存在しないと思っております。私がこの二人にたいへんな興味と共感を覚えるのは、二人とも人間的に弱い面がありながら、神さまに励まされながら歩んでいる点です。
 いずれにしろ、旧約聖書の過去の人物、歴史のかなたの人物であるはずのモーセとエリヤが現れた。まさに、この世のものとは思えない光景です。ちなみに、なぜそこに現れた2人がモーセとエリヤであることが分かったのか?‥‥自己紹介したのだろうか。あるいは、イエスさまが2人のことを名前で呼んでおられたのか。そもそも、ここにモーセとエリヤが現れたということはどういうことなのか。あの世から幽霊となって現れたということなのか? それともタイムスリップしてきたというのか? まるでSFの世界のようです。
 そのことを示すヒントが31節にあります。「二人は栄光に包まれて現れ」と書かれています。モーセとエリヤが「栄光」に包まれて現れた、と。「栄光」とは、光り輝くことを表し、聖書では神さまだけのものです。聖書では、栄光は人間のものではありません。絶対に神さまだけのものです。
 すなわち、これは神の国が一部開かれたということであろうかと思います。地上に生きる人間が本来見ることのできるものではありません。しかしこの時、イエスさまが祈っておられる時に、その神の国が開かれ、モーセとエリヤが現れたということであると言ってよいと思います。神の国、天の国がかいま見えたのです。

イエスの十字架による救いを証し

 とにかく、現れた2人はイエスさまと語り合っていたという。しかしそれは世間話を語り合っていたというのではありません。31節に書かれているように、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」というのです。それはイエスさまの十字架のことです。イエスさまの弟子たちが、まだ受け入れることのできない十字架について話していた。
 すなわちこれは、旧約聖書最大の預言者と言われるモーセ、そしてイスラエルの人々の信仰を取り戻すために用いられたエリヤ、彼らがイエスさまの十字架を証ししているのです。いや、もっと言えば、彼らはイエスさまの十字架を証しするために、神さまが栄光のうちにここに現れるようにして下さったということです。すなわち、エルサレムでイエスさまが十字架へかかられる、そこに全聖書の結論があるのだと言える。モーセが荒れ野を率いていったイスラエルの民は、何度神さまの奇跡を見ても、神さまに背きました。エリヤも人々の信仰を取り戻すために働きましたが、それでもイスラエルの人々は信仰から離れていきました。
 そのように、旧約聖書の歴史は、なんどもなんども神さまに背く人間の罪の歴史です。繰り返し罪を犯す人間の歴史。そしてそれはそのまま私たちの人生の歩みです。その救いはないのか。その救いは、イエスさまの十字架にある。‥‥そのことを今日の聖書は証ししていると言えます。

これに聞け

 ペトロたち3人の弟子は、眠さをこらえて見ていたと書かれています。そしてモーセとエリヤがイエスさまから離れようとしたとき、ペトロが「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と言ったと書かれています。そして聖書は、「ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである」と書いています。
 リアルです。このペトロの何を言っているのか分からないような言動の書き方が、この山上の変貌が事実であったことを物語っていると思います。しかしもう少しペトロに同情して解説すれば、ペトロは、この天が開けたような光景、そしてモーセとエリヤに、ずっとここにいてもらいたいと思ったのでしょう。そしてとっさにこのように言ったのでしょう。しかしそれはかなわず、雲がイエスさまとエリヤと覆った。そして雲の中から声がした。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」。そしてそこにはイエスさまだけがおられた、と書かれています。
 私は、モーセとエリヤに会ったことはありませんが、クリスチャンになってから何回か、天国がかいま見えたような、それはすばらしい経験をしたことがあります。それはいずれも、礼拝の中、または祈っている時のことでした。そしていずれも、神におすがりせざるを得ないような時のことでした。ピンチの時のこともありました。そのようなときに、考えられないようなすばらしい慰めや、平安を与えていただきました。そして言葉に言い表せないような、すがすがしさに包まれました。
 そのとき私は思いました。「いつまでも、永遠にこのままでいたい」と。おそらく天国というところは、そういうところではないかと思いました。あまりこういう経験を具体的にお話ししたことはありません。それはきょうの3人の弟子たちがそうであったように、言葉で言い表すのが難しいことと、言っても分かってもらえないかもしれないということもあります。また、キリスト教は、そのような不思議な体験を売り物にしているのではないからです。
 ペトロたちも、モーセとエリヤに、いつまでもここにいてもらいたいと思いました。だから「仮小屋を三つ建てましょう」と思わず言ったのです。私たちも、祈っている中で、時には神様の臨在に触れ、「いつまでもこの中にとどまっていたい」と思うことがあるかと思います。
 しかし天の神はおっしゃいました。「これは、わたしの子、選ばれた者。これに聞け」と。イエスさまに聞きなさい、とおっしゃったのです。そのような特別な経験が必要であるというのでは無い。
 ともすると私たちは、不思議な特別な体験を求めて信仰生活を送ろうと考えてしまいます。しかし神さまは、「これに聞け」とおっしゃいます。イエスさまを通して語られる聖書のみことばに聞きなさい、ということです。聖書は私たちに与えられています。私たちは、何よりも尊いみことばを与えられている。このことを感謝いたしましょう。


(2013年3月10日)



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