礼拝説教 2013年3月3日

「自分の十字架」
 聖書 ルカによる福音書9章21〜27 (旧約 イザヤ書53:5)

21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、
22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。
25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。
26 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。
27 確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」




自分の十字架

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(23節)
 「十字架を負う」という言葉は有名です。教会の外でも使われています。たとえば、重い肉体的ハンディキャップを持っている方について、「障害という重い十字架を負っている」などと言ったりします。あるいは、重大な事件を犯してしまった人について、「一生重い十字架を背負って生きなければならない」などと言ったりします。この場合には、ありがたくないこと、人生の重荷を背負って生きなければならないという意味で使われているように思います。
 しかし、それはイエスさまがここでおっしゃっている本当の意味でしょうか? 十字架を負うということは、ありがたくない重荷を背負って生きて行かなければならないということでしょうか? もしそうだとしたら人生は苦しみです。しかしイエスさまは本当にそういう意味でおっしゃったのでしょうか? 何か変では無いでしょうか。なぜなら、イエスさまは次の言葉をおっしゃったからです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)。休ませてあげようとおっしゃったイエスさまが、負いきれないほど重いものを背負わせるとおっしゃったのでしょうか? 
 そこで、改めて今日の聖書を見てまいりたいと思います。

メシアの意味

 まず今日の聖書は、前回イエスさまが弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」とお問いになり、ペトロが「神からのメシアです」、すなわち「神のキリストです」と答えたところの続きです。ペトロがイエスさまのことを「神のキリストです」と答えた。するとイエスさまが、弟子たちを戒められ、そして、このことを誰にも話さないように命じて、ご自分が多くの苦しみを受けて殺されること、そして三日目に復活することを予告される言葉が続きます。そのようにイエスさまが苦しみを受けて殺されると予告されたことは、弟子たちにとってたいへんな衝撃だったに違いありません。
 しかしなぜイエスさまは、ペトロがイエスさまのことを「神のキリストです」と答えたことを、誰にも話さないように厳しくお命じになったのでしょうか? そして受難の予告をなさったのでしょうか?
 実は、当時の人々が思い描くメシア=救い主というのは、自分たちの国であるユダヤを、ローマ人の手から取り戻してくれる英雄であると思っていたからです。弟子たちもそう思っていたと思います。だからペトロが、イエスさまのことを「神のキリスト、メシアです」と答えた時、イエスさまがそのような英雄であると考えていたことでしょう。そうすると、イエスさまの弟子たちも、なぜイエスさまに従っていたのかが分かってきます。やがてローマ帝国を打倒して、王となられるお方がイエスさまであると信じていたのではないかと思います。実際、ヨハネによる福音書を見ると、イエスさまが男だけでも5千人の人々を、たった5つのパンと2匹の魚で満腹にさせるという奇跡をなさったあと、人々がイエスさまを王にするために連れて行こうとしたと書かれています(ヨハネ6:15)。
 さまざまな奇跡をなさるイエスさまこそ、神のキリストであり、神が立てた新しい王である。そのイエスさまに従って行く‥‥それはまことに分かりやすい話です。日本でも戦国時代、誰が天下を取るかで大名たちが争っていました。そして天下を取りそうな人のところに、人が集まっていきます。いわゆる「勝ち馬に乗る」というのがそれです。天下を取る人のところにくっついていれば、自分も高い地位に就けてもらえる‥‥そのように思うのは自然なことかも知れません。
 イエスさまの弟子たちも、そのように思っていたのではないかと思います。マルコによる福音書10章を見ますと、イエスさまの弟子であるヤコブとヨハネが、イエスさまが栄光をお受けになった時は、自分たちを「1人をあなたの右に、もう1人を左に座らせてください」とお願いしました(マルコ10:37)。‥‥これは分かりやすく言えば、イエスさまが王になられたあかつきには、私たち兄弟を右大臣・左大臣にして下さい、というお願いです。そのように、メシア、キリストというのは、この世の王になられる方であると人々も思っていたし、弟子たちも思っていたようです。
 ですから、ペトロがイエスさまのことを「神からのメシアです」と告白した時に、このことを誰にも話さないように命じられた。そして代わりに、そのメシア、キリストであるご自分が、多くの苦しみを受け、十字架で殺されることを予告なさったと言えます。つまり、メシアというのは、弟子たちが考えているようなこの世の栄華を極めるような王ではないのだと。メシアであるはずのイエスさまが、民の指導者たちによって殺される‥‥この事を聞いて、弟子たちはどんなにショックを受けたかと思います。そんなことは信じられないと思ったことでしょう。

イエスのために命を失う

 そして続いてイエスさまは、おっしゃいました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
 言っておきますが、「十字架」というのは、当時のもっとも残酷な死刑でした。それは見せしめの刑であり、日本で言えばはりつけの刑です。聞いただけでも恐ろしい刑罰です。ですからこの言葉を聞いた時、弟子たちは、さらに深刻な思いになったことでしょう。イエスさまは、ローマ帝国を打倒してこの世の王になられるどころか、十字架につけられて死んでしまうと言う。
 そのうえさらに、イエスさまについて来たい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負ってきなさいというのですから、これは深刻にならざるをえません。しかも続けて、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」とおっしゃるのですから、イエスさまのために死になさいとおっしゃっておられるように聞こえます。
 そのようにして読んでいきますと、最初に申し上げたように、「十字架を負う」ということが、重い重い宿命という荷物を背負うことであると考えられるのも無理はありません。わたしなど無理だ、と考えざるをえません。

資格の無い者を救う十字架

 イエスさまのために命を捨てなければ、救われないのか。自分の命を救おうと思うと失い、イエスさまのために命を失えば命を救うとは、あまりにも厳しすぎます。それでは、イエスさまのために十字架にかかって命を捨てることのできるような、強い人でなければ救われないように思います。
 しかし、ではイエスさまの弟子たちはどうだったか。例えば弟子の代表格であるペトロはどうだったでしょうか。やがてイエスさまが逮捕され、大祭司の邸宅に連れて行かれた時、ペトロもこっそりと人に紛れて大祭司の邸宅の中庭に潜り込みました。すると回りにいた人に気づかれ、「この人も一緒にいました」と言われました。するとペトロは、「わたしはあの人を知らない」(ルカ22:57)と言いました。ペトロは、あろうことかウソをついてイエスさまを見捨てたのです。イエスの弟子だということで、自分も逮捕されて十字架につけられるのではないか。そのように恐れたのでしょう。そのようにしてペトロは3度イエスさまを否認しました。
 ペトロは、紛れもなく、今日の聖書でイエスさまが指摘しておられるように、「自分の命を救いたい」と思ってイエスさまを見捨てたのです。だからペトロは、命を失ったはずです。永遠の命はもう与えられない。しかし実際はどうだったでしょうか?‥‥イエスさまが復活された時、よみがえられたイエスさまは、ペトロを責めたでしょうか? 「お前には永遠の命を与えない」とおっしゃったでしょうか?
 そうではありませんでした。復活されたイエスさまは、ペトロや弟子たちを責めるどころか、その復活の喜ばしい姿をもって近づいて下さり、弟子であることになんの変更もないばかりか、ご自分の代わりに世界に福音を宣べ伝える者として遣わされました。この弱い弱い弟子たちをです。
 なぜペトロをはじめ、主イエスを見捨てるような弱い弟子たちを愛され、ご自分の代わりに世界にお遣わしになったのか?‥‥それは、イエスさまの十字架が、そんな弱く罪深い者たちを救うための十字架だったからです。弟子と呼ばれる資格が全くない弟子たちであるにもかかわらず、イエスさまは弟子たちをゆるし、愛してくださっていました。そして聖霊をお与えになり、世の終わりまで共にいて下さることを約束してくださったのです。
 ペトロは、自分の命を救おうとしてイエスさまを見捨てたのですから、なんの資格もありません。しかしそのペトロたちが救われているのは、イエスさまが罪を背負って十字架にかかってくださったからです。そしてこの弱く罪深い弟子たちを救ってくださったイエスさまは、この私たちも同じように救ってくださいます。
 それがイエスさまの十字架です。イエスさまがメシア、キリストであるというのは、この世の栄華を極める王という意味でのメシアではありません。このどうしようもないほどに罪深く、救いがたい者である弟子たち、そして私たちを救うために十字架に行って下さるキリスト、メシアであるということです。

自分を捨てる

 今日の個所で、イエスさまは十字架で殺されることばかりではなく、そのあとに復活なさることも予告しておられます。復活は新しい命です。十字架で死なれたイエスさまは、復活なさったのです。新しい永遠の命をもたらしたのです。
 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とイエスさまはおっしゃいました。
 洗礼を受ける時に、洗礼の意味についてきかされたと思いますが、ローマの信徒への手紙の6章3〜6節です。 「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」
 洗礼は、キリストと共に古い罪の自分が死んで、キリストと共に新しい命に生きるしるしとして受けました。
 あなたには、捨てたいものがありませんか? わたしには捨てたいものがたくさんありました。過去の過ち、失敗、罪‥‥。しかし主イエスは、それを捨てなさいと言われる。捨てることができるのです。主イエスが十字架でそれを贖ってくださったからです。主イエスと共に十字架へ行き、主の復活の奇跡を見ることが許されています。
 イエスさまは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)とおっしゃいました。私たちは、日々、毎日、自分の過ち、罪、失敗をイエスさまの十字架によって、ゆるしていただけるのです。そしてキリストと共に、新しく歩むことができるのです。イエスさまは、世界を武力で支配して君臨するこの世の王ではありません。私たちに命を与える王です。そのために十字架に行かれる。私たちはその十字架の恵みをいただいて歩んでいくことができます。


(2013年3月3日)



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