礼拝説教 2013年2月24日

「あなたの信仰」
 聖書 ルカによる福音書9章18〜20 (旧約 イザヤ書61:1)

18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」
20 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」




イエスは何者か

 「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」とイエスさまは弟子たちに向かっておっしゃいました。イエスさまとは何者であるのか?‥‥私たちは何と答えるでしょうか。イエスさまは何者なのでしょうか。これは小さな問いでしょうか。そのように見えます。しかしこれは実に大きな問いです。この問いに何と答えるかによって、人生が変わります。
 まずイエスさまは、ひとりで祈っておられました。それからイエスさまは、一緒にいた弟子たちにお尋ねになりました。「群衆は、わたしのことを何者だといっているか」。既にイエスさまは、ガリラヤの各地で働きをなさってきました。神の国の福音を宣べ伝え、辞める人の病気を癒し、悪霊に取りつかれていた人の悪霊を追い出すということをなさってこられました。それでその結果、人々はイエスさまのことを何者であると言っているのかということです。
 すると弟子たちが答えました。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『誰か昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」‥‥これは、先週のいわゆる「五千人の給食」と呼ばれる奇跡の前の、9章7節からのヘロデ王のことが書かれているときと同じです。そのように人々はイエスさまについて、洗礼者ヨハネの生き返りであるとか、メシアが来る前に神さまが遣わす約束をなさっているエリヤであるとか、その他の昔の力ある預言者が生き返ったのだ‥‥そのようにうわさしていたということです。
 今日ではどうでしょうか。学校の社会科では「キリスト教の開祖」として紹介しています。私が高校生の時は、「倫理社会」という授業があり、その教科書に載っていました。つまり、イエス・キリストは、倫理道徳を説いた人と解釈していたわけです。たしかに、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」とか、「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」というような山上の説教の言葉は、人に感銘を与える言葉であるに違いありません。
 イエスさまの当時で言えば、洗礼者ヨハネであるとか、エリヤであるとか、そういう有力な預言者の再来であると民衆は言っていたようです。

それではあなたがたはわたしを何者だと

 そのように弟子たちが答えたあと、イエスさまは続けておっしゃいました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか?」。 すると弟子の中のペトロが、「神からのメシアです」と答えました。
 ここでこの言葉について、ちょっと解説をしなければなりません。まず、「メシア」という言葉ですが、これは原文では「キリスト」と書かれています。原文で「キリスト」と書かれているのを、私たちが今手にしている新共同訳聖書は「メシア」と言い換えているわけです。これはどうしてか、ということですが、本当のところはこの聖書を訳した方に聞いてみないと分かりませんが、「メシア」というのはヘブライ語であり、「キリスト」というのがギリシャ語で、両方とも同じ意味です。同じ意味なら、「キリスト」としておけば良かったと思うのですが、この聖書が「メシア」という言葉に直してあるのは、それが旧約聖書で預言されていた救世主「メシア」ということですよ、と言いたいのだと思います。
 旧約聖書のヘブライ語で「メシア」というのは、「油を注がれた人」という意味で、それは神さまから選ばれた人、ということです。それが「救い主」ということを意味することになりました。そしてやがてその「メシア」を遣わす、と言うことを神さまが約束しておられた。そのメシアがイエスさまですよ、ということを言いたいのです。つまり、神さまが旧約聖書で約束してくださった救い主、キリストがあなたです、と答えているわけです。
 申しわけありませんが、ついでに申し上げますと、このペトロの答えの「神からのメシアです」の「神からの」も、原文では「神の」となっています。「神からの」というと、神さまから派遣された、という意味になってしまいます。しかし原文は、「神の」です。ですから、私はここは原文の通りに、ペトロは「神のキリストです」と答えたと訳したほうが良いと思います。つまりペトロは、イエスさまについて、旧約聖書で神さまが約束してくださってきたキリストがあなたです、と答えているのです。イエスはキリストであると。イエス・キリストということです。
 これはテストで言えば100点の答えです。但しテストで言えば、です。昨年からY学院で高校1年生に聖書を教えるようになりましたが、試験をしなければならないのがつらいところです。それで試験を作成して、テストをするのですが、この前の2学期の期末試験は、一番高い点をとった生徒が98点でした。よく勉強してきたと思いました。皆さんに同じ試験をしたら、98点取れるかどうか‥‥。しかしこれはテストです。聖書や、キリスト教についての知識を問うのであって、信仰を問うわけではありません。ですから、「イエスはキリストである」と知識として答えたとしても、そう信じているということとは全く別です。また信じていたとしても、イエスはキリストであるということを、どのように信じているかということはまた別です。
 ペトロは、イエスさまについて「神のキリストです」と答えました。神さまが旧約聖書で約束してくださってきた救い主であると言ったのです。それは、試験問題でいえば100点です。しかしでは、その「キリスト」とはどういう方であるかということで言えば、まだ良く分かっていませんでした。そしてペトロは、キリストとはどういう方であるかということを、身をもって知ることとなりました。
 ただ今は受難節の時を過ごしています。やがてイエスさまと弟子たちは、都であるエルサレムに向かいます。そしてそこでイエスさまは逮捕され、十字架につけられることになります。その前の最後の晩餐の時、ペトロはイエスさまに向かって「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22:33)と言いました。しかし実際にイエスさまがそのあとゲッセマネの園にて逮捕されると弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げて行きました。
 ペトロは一人戻って、イエスさまの連行された大祭司の邸宅に潜り込みますが、回りにいた人に、「あなたもイエスの仲間だ」と言われて、「何を言っているのか分からない」「そんな人は知らない」問いって、度も否認してしまいました。人間の弱さです。そのあと、イエスさまの予告通り夜明けを告げるニワトリが鳴いて、ペトロは外に出て激しく泣くしかありませんでした。
 ペトロは、自分がキリストであると信じたイエスさまを見捨てたのです。裏切ったのです。それは、自分の力でイエスさまに着いていこうとして挫折したのです。そしてイエスさまは十字架にかけられ死んでしまわれた。すべてが終わったと思いました。自分の罪のゆえにペトロも打ちのめされ、立ち直れないかと思われました。ところがそのイエスさまがよみがえられ、ペトロたち弟子たちの所に来て下さいました。そして再びイエスに従ってくるよう招かれたのです。イエスさまを見捨てたのですから、もはやイエスさまの弟子である資格はないはずでした。にもかかわらず、イエスさまはペトロたちを招いてくださったのです。そのときペトロは、キリストとは、この弱く罪深い自分を赦し、招いてくださる方であることを知ったのです。まさに救い主であることを知りました。そうしてさらに歩みは続いていきました。
 すなわち、今日の個所でペトロはイエスさまについて「神のキリストです」と答えました。それはその通りなのですが、その神のキリストであるお方イエスさまが、いったい自分にとってはどんなお方なのか、ということを、このあと身をもって知っていくのです。学んでいくのです。そういう人生を歩んでいきます。

イエスさまが何者であるかを知っていく歩み

 「それでは、あなたはわたしのことを何者だというのか」‥‥私は両親がクリスチャンでしたので、生まれてからずっと教会に通っていました。子どもの頃は、イエスさまは紙芝居や絵本に出てくる登場人物の1人でした。ですからそれは、まるでおとぎ話の中のヒーローでした。高校生、そして受験生になると、イエスさまは、わたしの大学合格という願いをかなえてもらうようお願いする方でした。無事合格して大学に通うと、教会に行かなくなりました。イエスさまはわたしにとって、単に御利益をかなえてくれる存在に過ぎなかったのです。だから神さまもイエスさまも捨てたのです。
 しかしその後サラリーマンになってから、前にもお話ししたように、病気で死にかけました。それも助けられました。一度神さまもイエスさまも捨てたのですから、命を助けていただく資格は何も無かったにもかかわらずです。それが分かった時、本当にこの方はキリスト、わたしの救い主であると知りました。
 そして今も、私はイエスさまが何者であるかを学びつつあります。もちろんイエスさまがキリストであり救い主であることは分かったのですが、そのキリストであるイエスさまが、さらにこの問題についてはどのように解決される方であるのか、この祈りにはどのように応えて下さるキリストなのか、そして相変わらずどうしようもないこの私を、どのように愛し、恵みを与えて下さるのか‥‥。イエスさまが何者であるかを知ることを楽しみに歩んでおります。
 私たちはそのように、イエスさまが何者であるのか、私にとってどういう救い主であられるのか、興味を持って楽しみながら歩んでいくことがゆるされています。

イエスが祈っておられた

 今日の聖書個所の最初に、「イエスがひとりで祈っておられた時」と書かれています。イエスさまがひとりで祈っておられた。何を祈っておられたのでしょうか?‥‥そして祈りを終えられたあと、弟子たちに今日の質問をなさったのです。そうすると、ペトロがイエスさまのことを「神のキリストです」と答えたのは、イエスさまが祈って下さったから、つまりイエスさまの助けがあって、そのように告白できたと言えます。
 以前いた教会で、ある時、ご家族揃って洗礼を受けた方がいました。洗礼を受ける前には、役員会の試問会があります。試問会の中で、「どうして洗礼を受けようと思いましたか?」という質問が役員からなされます。そのとき、小学生の女の子がこう答えました。「ずっとで苦手な友達がいて、仲良くなれますようにとお祈りしたら、本当に次の日に仲良く慣れたので、神さまってすごいな、と思った」。‥‥私は本当に感動しました。ああ、神さまはこの女の子の小さな祈りにも耳を傾けて下さるのだな、と。
 次にそのお母さんは、どうして洗礼を受けようと思ったかという質問に、このように答えられました。‥‥子育ての中で神さまのそばにいたいという気持ちが強くなったということと、いつか洗礼をと長期的に考えていたが、「急に洗礼を受けたくなった」と。
 なぜ急に洗礼を受けたくなったのか、そしてご家族5人揃って洗礼を受けることになったのか。それは不思議でした。しかしそれはやはり、今日の聖書が答えであると思います。「イエスがひとりで祈っておられた」と書かれています。イエスさまが祈って父なる神さまにとりなしてくださっていた。だから導かれたのです。それは私も同じです。イエスさまが祈っていて下さった。だから、神を見捨てたのだから滅びて当然の私が救われたのです。ペトロは、イエスさまがキリストであると告白することができたのです。イエスさまは、私たちひとりひとりのために祈って下さっています。


(2013年2月24日)



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